夢と希望と

そして力と意志と覚悟があるなら、きっと何でも出来る。

「ひぐらしのなく頃に 祭」感想

2007-04-04 | 中身
 さて、予告通り今回は「ひぐらしのなく頃に 祭」について少々。私が書く以上は無論ネタバレ等に対する配慮なんて一切ありませんので御注意を。
 このゲームはそもそも同人ソフトであった「ひぐらしのなく頃に」シリーズを一本に纏めてオリジナルシナリオを追加した物らしいのですけれど、その内容は以下のような感じです。


 舞台は富山県あたりにあると思われる寒村、雛見沢。
 かつて鬼ヶ淵村とも呼ばれたこの土地には、ウイルス性の奇怪な風土病が存在する。これには村人のほぼ全員が潜在的に感染しており、有り体に言ってしまえば空気感染する精神病。発症すると極度の疑心暗鬼と被害妄想に捕らわれ攻撃性が増大し、更に患者本人の思い込みによって幻覚・幻聴が頻発、副次的な作用として首や手首などのリンパ腺に猛烈な痒みを覚え、最終的には頸動脈等を自ら掻き切る等の自傷行為によって死に至るという極めてアレな代物。しかも病原体は宿主の人間が死亡すると死後数時間以内に溶解し、司法解剖によっても検出不可能になるという、この物語の中核を占めるインチキ病。なお女王感染者と呼ばれる特定の感染者が死亡した場合、潜在感染者の全てが48時間以内に発症し末期を迎えるとされていた。
 高野一二三という研究者が昭和初期に雛見沢出身者の異常行動を研究した結果この風土病の存在を確信するに至り、当時の軍部にこれを軍事利用する事を名目として援助を求めるが、技術的問題もあり却下される。以後、通称雛見沢症候群は政府上層部によりその存在を秘匿され、高野一二三は失意の内に生涯を閉じた。
 なおこのウイルス性精神病雛見沢症候群は、大昔に雛見沢を訪れた外宇宙の高位知的生命体「羽入」が意図せずもたらしてしまった物。「羽入」はこれに一応の責任を感じて雛見沢に留まり、雛見沢症候群の拡散防止と撲滅に努めてきたが成功せず、私利私欲に満ちた村人達に愛想を尽かして精神体となり、今は古手梨花という少女に寄生している。単体でも任意で物質化して事象に直接影響を与える事が可能であるのみならず、他者の記憶を混乱させたり無線通信に対して割り込みをかけたり耳元で囁く事で思考誘導を行ったり千里眼を発揮したりとインチキ極まりない能力を持つ羽入だが、その真骨頂は他者と一時的に同化した際に現れる。他者と同化した羽入は止まった時間の中で宿主だけを行動可能にして弾丸を回避させるような事は朝飯前、宿主が死亡すれば記憶の大半を保持させたまま数年間に渡って時間を巻き戻したりと、本当にやりたい放題。雛見沢に伝わる「オヤシロさま信仰」のオヤシロさまとは羽入の事なのだが、まさに神と呼ばれるに相応しい超常存在といえる。

 物語は昭和58年の夏。
 幼くして両親を事故で失い過酷な施設で人間性を無視した扱いを受けていた所を先述の高野一二三に救われ、その恩義に報いる為に雛見沢症候群の研究に心血を注ぐ鷹野三四は大きな壁に直面していた。理由は鷹野三四のスポンサーである秘密政治結社「東京」が内部抗争による上層部刷新に伴い、雛見沢症候群研究の打ち切りと研究成果の破棄を求めて来た為。
 鷹野三四にとって、鷹野一二三の研究を引き継ぎ完結させて世に知らしめる事こそが恩返しでありライフワーク。故にスポンサーの決定は到底承服出来る筈は無く、八方手を尽くしてこの決定の撤回を求めるが、そもそも雛見沢症候群の研究を裏金の資金プールとしてのみ見ていた「東京」上層部が決定を覆す事はありえない。自らの才能と情熱の全てを投入していた研究が、政財界の古狸達の隠し金庫扱いであった事を知った鷹野三四は、それでも高野一二三と自らの名を歴史に刻もうと決意する。
 それは、雛見沢症候群の女王感染者である古手梨花が死亡した場合、他の感染者が集団発症するという極めて危険な事態を未然に防止して治安を維持する為に制定された緊急マニュアル34号を利用する事。雛見沢を封鎖して全感染者を自然災害に偽装した形で抹殺するというこのマニュアルを発動させる事で雛見沢症候群の名を永遠の物としよう、と。歴史の悲劇としてでも良い、恩義を受けた人の研究を決して闇に葬られてなるものか、と。
 持ち前の意志の強さと才覚を以て築き上げた計画は、完璧かと思われた。
 けれど鷹野三四ただ一つの誤算は、舞台となる雛見沢に超常存在オヤシロさま……つまり外宇宙からの来訪者にして幾多のインチキ能力を駆使する自称「神」、羽入がいたという事だった。鷹野三四が何度古手梨花を抹殺しようとも、古手梨花と同化した羽入は時を巻き戻して何度でもリトライを要求してくる。鷹野三四の記憶は引き継がれず古手梨花の記憶だけは累積されるという、あまりにも卑劣なルールに基づき、それでも己と恩人の誇りの為に闘い勝利を掴み続ける鷹野三四。
 そしてついに羽入は、曲がりなりにも傍観者であった立場を捨て、自らインチキ能力を行使しまくり積極的に鷹野三四を潰しにかかる。これまで古手梨花の友人達による絆の力にも屈する事が無かった鷹野三四だが、千里眼と思念誘導に加えて直接的に時間を操るという「神」の力の前には為す術も無く、膝を折る事となるのであった。


 ……まぁ本編では古手梨花サイドの視点で描かれているのですけれど、大体こんな流れです。
 一つ申し上げておきますが、私は「単体で圧倒的な力と意志を持った者が、単体では弱いけれど互いを信頼して助け合い予想外の力を発揮する者達に打ち倒される話」というのは大好きです。闘争の才能を持つと自称する者として、そんな最後を迎えられたら素敵だな、と常々思っていますし。
 しかし、このゲームは異なります。シナリオから感じ取れるのは「人はどう足掻いても神には勝てない」という諦観だけ。古手梨花一味が団結して向かってきても冷徹無比に粉砕した鷹野三四、その純粋で素敵な意志と力を捻伏せたのは、人ならざる羽入という「神」なのですから。あまつさえ羽入は敗北した鷹野三四に対して「私は神だから人の罪を許す事が出来る。あなたの罪を許そう」等とこの上ない程の侮辱の言葉を投げつけていたりもします。鷹野三四という女性は恵まれぬ境遇に屈する事なく、ただ己と恩人の誇りの為に歩み続けた人です。自らの力で神の座に至ろうと死力を尽くした人間に対して、それまでの行いを罪と断じる事は勝者の当然の権利として甘んじて受けもしましょうが、「許す」という言葉を以てその意義まで失わせるとは……読んでいて怒りのあまり眩暈を感じました。
 己以外の何かに「許し」等を求めるのは、つまり精神が惰弱であるという事。自身の行動に誇りがあるならば、誰の許しも必要無いのです。誰かに認められたいから行動するのではなく自分の矜持の為に行動するのなら、他者のどんな言葉もそよ風程度にしか感じないモノですし。
 が、劇中の鷹野三四は羽入の「許す」という言葉に屈服し、幼子のように泣き喚きます。この人の性格なら、そこは羽入に唾を吐きかけて自害でもするべきでしょうに。「人は神には屈するしかない。人は神の許し無しでは生きていけない」なんて主張をこうも胸糞悪い形で見せつけられたのは久しぶりでした。

 人の好みはそれぞれですから、こういう話が好きという人もいらっしゃるのでしょう。全ての人間が同じ嗜好なんて気味が悪いですし、どんな思想信条も私に直接影響しない限りは御自由に、と思っています。
 ただ、私個人の感想としては最後の展開だけが原因で最悪の部類に入るゲームでした。各キャラクタの造形や途中までの展開はそれなりに面白かったりしたので、より一層残念です。

 そして人それぞれとは申しましても弟は20年以上同じ屋根の下で生活していた訳で、私の嗜好を知らなかったとは言わせません。仕置きとして水月に思いきり膝蹴りか電撃大王のバックナンバー全部を廃品回収に出すかと二択を迫ったらノータイムで前者を選びやがりましたので、それで仕舞いとしましたけれど……痛みと共に色々と学んで欲しいモノです。