荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

3年振りの被災地/南三陸町

2014年06月08日 | 散文




日本の文化には幾つかの「切りのいい」数字がある。その中で「3」は、最初に訪れる数字であると思う。東日本大震災から3回目の夏が来ようとしているが、震災直後に訪れてから1度も被災地に行っていない。行っていない理由は言い訳を含めて一杯あるが、最大の理由は「怖い」のである。
TVなどで紹介される現地のニュースは私の耳目に厳しい。どうもこの国は、この大震災の善後策の立案と遂行において、国民の期待に応えられていない。全く進展していなかったらどうしよう。それをこの目で確認するのが怖くて、訪問する勇気が出てこなかったのである。
そんな風に逡巡している間に時が過ぎてしまった。希薄になっていく世間の関心や国の政策に対する寂寥感や憤りや不安感がある中、「区切り」に背中を押されて、3年振りの再訪を決意した。できれば、「この国はまだまだ捨てたものじゃないよ」と思いたくて・・・。



3年前と同じルートで南三陸町に入る。
水門脇の家が倒れたまま放置されている。




南三陸町の中心部に近づくと「防災対策庁舎」が目に飛び込んで来た。
震災の遺産として残そうとしているとの話を聞いている。
周りは何にも無い。
予想以上にきれいに片付いているようだが、よく見ると家の基礎がそのまま残っている。
前回訪問時には、手前の空き地にぐちゃぐやになった志津川病院があったのを覚えている。




町のあちらこちらで、造成工事が始まっている。
津波対策で盛土をしている。




盛土のサンプルだろうか?
「盛土の高さ11m」の看板が立っている。




造成工事が進む一方で、壊れた堤防が放置されている。




津波に倒された鳥居もそのままである。





前回訪問時、このガソリンスタンドが営業しているのを見て、東北人の粘り強さに感動したものである。




これが今回見た姿である。
やっぱり廃業していた。




でも心配無い。
町の奥の方に新たに建設して営業していた。
この手前にはコンビニが新設されていた。
この辺りは津波が届かなかった高台なのだろう。




何も無いきれいな原っぱがある。




これが、震災時の同じ場所からの光景である。
3年の時間が風景を変えてしまっている。




防災庁舎には観光バスが来ている。
多くの人が亡くなった場所を見物するのは違和感があるが、町では貴重な集客モニュメントなのだろう。




今、南三陸町は震災後の町の存続手段を模索しているようで、観光に力を入れている。




駐車場を備えた「南三陸さんさん商店街」を造って観光客を呼び込んでいる。




商店はみんな同じ大きさのプレハブ建築である。




観光客相手のおみやげ屋と食堂が沢山出ている。




商店街を歩くと、商店の人の為に床屋がある。
他にも、写真屋やクリーニング屋や電気屋や花屋などがある。




数件の食堂が「キラキラうに丼」を販売している。
南三陸の名物なんだろうか?
ここ「志のや」でうに丼を食べながら、ご主人から震災後の話を聞いた。
この場所も津波が到達した場所である。
後1年経ったら移転しなければならないらしい。
色々な支援があるが、人の繋がりが一番嬉しいとのこと。
中越地震を経験した新潟の人達が何度も来てくれてありがたいとの事である。




ご主人に、3年前にこの看板を見て志津川小学校の生徒たちの健気さに泣いてしまった話をしたら、涙が出そうになって声が上ずってしまった。
あの子達は元気だろうか?
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