ブログ日記 日々のうつろい 

退職後パソコンとガイドのボランティアをし、カラオケ(ポップス)やダンス等で生活を楽しむオジサンのブログ。

高大 パワーポイント①

2014-06-25 23:36:05 | 日記

 今日は水曜日で高大に行く日なので授業が始まる前に事務所に行って資料を印刷する必要があるので自宅を8時には出たいので起床は6時30分に目覚まし時計をセットしておく。

 時間と共に起床ししばらくまどろんでいたがすぐに起き出して朝食を作るために台所に立つ。

 今日は先日買っておいた焼ソバがあったので作って食べた後、出かける準備をした後、自宅を出て電車を乗り継いで高大の事務所に到着したのは8時40分頃だった。

 早速輪転機で資料を製版してから印刷である。

 今日は資料の数も少なかったが、先週のうちに今日から授業に使うテキスト15ページの冊子は作ってあるので資料の入った箱とアンプ等の機材を持って教室の前まで移動する。

 受付で部屋のカギを預かるまでに少し時間があるので自宅から持参した缶コーヒーを取り出して飲む。

 9時頃に一階の受付に移動し、受付にあるキーの預かり申請書に書き込んでロビーの隅にある背もたれの無い椅子に腰かける。

 バッグから昨年パワーポイントの教科書として使用した市販のテキストを取出して触りに目を通す。

 2013のテキストなので今年は書店にはないので、先生が他の資料を用意した冊子を先週来てコピーしたものが今年度のテキストとなるのである。

 ロビーにいる時に見覚えのある顔がこちらの方に向かって挨拶の礼をするので見ると当クラスの委員長である。

 受付でキーを受け取ることを知っているのでロビーにやって来てカギを受け取った後、一緒に教室に行こうということのようである。

 9時10分にカギを受け取って一緒に上がったが今日は委員長の班が当番ということで一番にやって来たが他のメンバーは誰も来ていない。

 見るに見かねて私も長椅子を出したり、椅子を出したりして手伝ったが昨年だったら当番の班以外にも私や副委員長、他の班の人でも早く来て見る間にセットを終えてPCを出し、ケーブルを繋いで早速予習や先週やっと事のおさらいなどをやったものだが、9時30分前になってやっと当番班のメンバーがやって来るという始末である。

 何分当クラスでは何年も高大の他のクラスに通っていたという輩が多いので何かと前年のクラス、その前のクラスと比較し、出来るだけ避けようとする傾向が強すぎる。

 長机を出し終え、椅子をセットしている時に他のメンバーも手伝ってくれたが肝心の当番の班の者はやっと30分少し前にやって来た。

 6月の社会参加活動を過ぎた後の当番の1班から2班、3班と3週間が過ぎたが、いずれの班も1人来て、その人だけがやっているという状況である。

 昨年のこのクラスとは大きな違いである。

 10時前に先生がやって来て授業が始まった。今まで4週に亘ってやってきたが、いよいよ今日からパワーポイントの始まりである。

 授業が始まる前に先生がパワーポイントを使ったことがある人と尋ねていたが、2/3程の人はソフトをPCに入れているということである。

 ということで先週までのブログよりは馴染みがあるようで今日の授業が終わった後に書いて貰う一口レポートでも楽しかったという人が結構いたが、馴染みのない人にとっては苦痛だったようでもう一つよく分からないということである。

 授業が終わった後のクラスミーティングの後、もう少し当番の班の人は早く来て準備をするように言うと、9時30分までに来ればいいのではないかという反発の声が上がった。

 早く来る人は早く来て準備をすればいいし、当番だからと言ってもその時間までに来ればいいじゃないかという後ろ向きの意見である。

 違う人物が私に対して「エラそうに言うな」と言って長机を思い切り叩いたので余程怒鳴ってやろうかと思ったが、ここでケンカをしても始まらないと思ったのと、どういう訳か9時30分までに入ったらいいという意見が出たので拍手をする人間が多数いたのでそれ以上何も言わなかったが、何年も高大に通っている人の数が多く今までいい加減なことをしてきていて、要領ばかり良くなって出来るだけ何もしないどころか、文句ばかり言う傾向にある。

 だから昨日も今の日本人が大嫌いだと言ったのもこのように出来るだけ厄介なことを避けようとする輩のなんと多いことか!

 こんな状態では1学期末に行なうクラス懇親会には出たくないので来週にでも委員長に不参加を伝えるつもりでいる。

 馬鹿馬鹿しくてやってらんねえよ!


2015年に日本が消える?

2014-06-24 23:37:05 | 日記

 今日もいつもと同じように何事もなかったように一日の始まりである。

 今日も夕方のダンスレッスンまでは特に予定はないのでいつもと同じようにメールとカレンダーのチェックを済ませた後はゲームを少しやってニュースを見て、YouTubeという順番になるが、中韓の動向を確認することが日課のようになっている。

 というのも今後の日本の先行きが非常に気になるからである。それと私自身自分で言うのも何だが物事の道理に合わないことを何とも思わずに平気で行なうようなことに対しては絶対に許せない性分だからである。

 しかし、最近の日本人はそういう理不尽な場面に出くわしても知らぬ顔をして遠ざかるような情けない輩が多くなったような気がする。

 そういう意味では私は日本人のこういった姿勢が大嫌いなのである。

 つまり当たらず触らずで自分に関係のないことには知らず存ぜずで通そうとする姿勢が強すぎるように思う。

 勿論、日本や日本人に対して海外からは好意的な見方をされてはいるが、一方日本に長く住んでいる在日外国人とは色んな確執が交錯しているのが現状である。

 ところで来年は2015年であるが、かつて中国の首相や軍の高官が2015年には日本は地球上から消えてなくなると公言しているのでこの機会にもう一度その時の記事を確認してみたい。

 中国の首相や軍の高官が、2015年には日本を地球上から消すと言っている

  1995年オーストラリアを訪問した当時の李鵬中国首相は、当時のオーストラリア首相との会談中に「日本など20年も経てば地球上から消えてなくなる」と発言した。

 このことは、2006年7月3日の、「たけしのTVタックル」でも放送された。

 国立国会図書館公式サイトによると、1997年5月9日第140回国会の行政改革に関する特別委員会の公式記録で、当時の武藤国務大臣の発言が記録されている。

 「オーストラリアへ参りました時に、オーストラリアの当時のキーティング首相から言われた一つの言葉が日本はもう潰れるのじゃないか」と。

 実は、この間中国の李鵬首相と会ったら、李鵬首相曰く、君、オーストラリアは日本を大変頼りにしているようだけれども、マアあと30年もしたらあの国は潰れるだろう、こういうことを李鵬首相がキーティングに言ったと。」

 当時の武藤国務大臣は、20年ではなく、「30年も経てば」と記録されているが、20年だろうが30年だろうが、中国は日本を地球上から消すと言っているのだ。

 20年なら2015年で、来年の話である。

 では、「地球上から消えてなくなる」というのはどういう意味と考えるべきか。

 日本が中国に占領され併合されて、日本という表記が地球上から消えてなくなるということだろうか。

 それとも、長年日本に向けて照準し続けている核ミサイルで、物理的に日本を地球上から消す気だろうか。

 ウィキペディアには「中国脅威論」として、中国高官による核攻撃発言が次のように紹介されている。

 1995年、中国軍部副参謀総長は「もし米国が台湾に介入したら、中国は核ミサイルでロサンゼルスを破壊する。米国は台北よりロサンゼルスを心配した方がよい」と、台湾海峡での武力紛争に米国が介入した場合、中国はロサンゼルスに対して核攻撃する可能性があると表明した。

 また、2005年7月6日には、朱成虎少将が「米国政府が台湾海峡での武力紛争に介入した場合、核攻撃も辞さない」と海外メディア記者会見において発言した。

 さらに、我々中国は核兵器の先制攻撃により中国以外の人口を減らすとともに、自民族を温存させることに力を注ぐべきで、この核戦争後に百年余りの屈辱に満ちた歴史を清算し未来永劫この地球を支配するようになるだろう。

 世界人口の総数はすでに地球資源と生態環境の許容能力を超えており、これを解決するために戦争、疫病或いは飢饉などの手段を用いて大量に人口を消滅させ、人類を引き続き生存させるべきである。

 中国政府は全力で核兵器の開発に取り組んでおり、十年以内には地球上の半数以上の人口を消滅させるだけの核兵器を装備することが可能である。中国は西安以東の全都市が焦土となる事を覚悟している。米国も数百の都市が破壊されることを覚悟しなければならない、と公言しているのだ。」

 この発言によれば、中国は2015年には地球上の半数以上の人口を消滅させるための核兵器を装備出来るということであり、冒頭の李鵬首相が1995年に発言した、20年後の2015年には、日本は地球上から消えてなくなるという発言と、見事に一致する。それは、少なくとも1995年以降の、中国の対世界戦略、対日本戦略であることを意味している。

 何しろ、1995年には中国政府の首相がオーストラリアの首相に対して公式の場で発言し、軍部のトップクラスの高官が2005年に全世界に向けた海外メディア記者会見で発言しているのである。

 尖閣諸島での小さな武力衝突を、中国が積極的に演出し、挑発に挑発を繰り返して、全面戦争に持ち込もうというシナリオが透けて見える。

 地球上のエネルギー消費は、石油の生産低下を引き金として、2020年をピークに衰退し続けることは、既に専門家の間では常識となっている。

 戦略を100年、1000年のスパンで考える中国なら、たとえ目先の世界経済が混乱しても、ここで人類を半分に減らして、中華民族が世界の資源の略奪に走ることを選択する可能性はある。

 何しろ「中国は西安以東の全都市が焦土となる事を覚悟していると言っているのだから。

 中国にとっては、きわめて理性的かつ論理的な戦略であり、たちの悪いことに英雄的な決断でもあるだろう。

 

 とマアこんな記事が載っていたが、いまだにと言うか、今も中国の軍の高官は強硬な発言をしていることを考えればありうる話ではあるから中国の動向はしっかり見ておく必要があるというものである。

 ところであくまでも日記なので夕方からのダンスの記述も行なっておきたい。

 西方面行のバス停に行きいつもより遅い目のバスに乗ったので会場となる部屋に入ると既に当番の女性と共にいつも早く来る男性の2人で椅子を出している最中であったので途中から加わって準備する。

 今日は前半がブルースで後半がスローであるが、ブルースでは先週新しいステップを加えて部屋を半周した後、同じアマルガメーションを繰り返して一周することになり、随時パートナーを入れ替えてドンドン踊って行く。

 先週見学に来ていた40代の男性が今日の後半のすろ―をやっている時にやって来て、今日から正式に会員となってダンスに加わったが、最初のステップは力も入って滅茶苦茶であるのは仕方がない。

 誰しも最初の頃は似たり寄ったりであったはずだ。

 


福祉IT部会&西隣区小学校月曜ダンス教室6月レッスン④

2014-06-23 22:47:38 | 日記

 今日は朝からドンヨリと曇っている。低気圧が近いところに屯しているようでハッキリしない空模様で蒸し暑くなりそうである。

 午前中は特に予定はないのでいつもと同じようにメールとカレンダーのチェックから始まったが、午後1時30分から福祉IT部会の定例会が行なわれるので昼前に出ていつもの様にそのビルの地下にあるトンカツ屋さんで昼食を摂ろうかと思ったが、今日は久し振りに自宅で食事を摂ることにした。

 というのも滅多に買わないヤキソバ用の麺が3個入りの袋入りで比較的安く売っていたのをたまにはいいかと思って買ったものである。

 というのも私が麺類を買うのは殆んど”うどん”だけだからである。

 何故かと言うと以前はうどん以外に麺類も袋入りのラーメンをたまに買っていたが1年以上前になるかと思うが小麦粉などが値上がりしたということがあった時に、今まで買っていたうどんはほとんど値段が上がらなかったのにインスタントラーメン類はかなり上がって5袋入りのパックが安ければ150円台であったのに今では安い時でも250円以上が当たり前になり、それ以後は殆んど値段が下がらず馬鹿馬鹿しくなって一切買わなくなたものである。

 私から言わせれば袋入りのラーメンでも高いのにカップラーメンなんてのを買うのはバカの骨頂だと言うもので私は一切買わない。

 手間をかけずにお湯だけ注げば簡単に食べられるということだけど栄養的に見ればかなり偏っているし、料理が出来ないものが食べる食品だとハナから思っているからである。

 あんなものに200円ほども金をかけるのであればうどん一玉で肉や玉子や野菜をたっぷり入れた色々なうどんが出来るので作るのにそんなに時間もかからず、10分もかからない位である。

 と言うことで私はほとんどうどん以外は買わないことにしていたが、何を思ったか先日ヤキソバを買ってしまったのである。

 そこで今回は具がうどんの時とは違ってピーマン、ニンジン、タマネギ、しめじと肉の代わりにウインナソーセージを斜めにスライスしてから炒めてヤキソバを作って食べたが、久し振りのヤキソバであった。

 食べ終えて直ぐに地下鉄駅に行き途中駅で路線を乗り継いで件のビルに行き、会場に上がると既に部会長以下4名のメンバーが来ていたが、いつもは一番乗りの私だが今日は自宅で食事をしてから来たのでいつもより遅かったということである。

 今日は結局私を入れて5名でスタートし30分程経過した頃にもう一人いつも遅れてやってくる男性が加わった。

 今日は議題もそんなに多くなく、1時間ほどで終わったので、その後PCに関する談義などで話がいろいろ出たが話が落ち着いたところで解散することになった。

 帰りにいつもとは路線が違うのでそのまま乗り換えずに乗ってたまに行く西方面のスーパーに行くことにした。

 その店に行く時はいつも西方面行のバスで行くが、定例会の会場のビル近くからの帰りの電車路線をそのまま乗り、そのスーパー最寄駅からは私の足でも10分程歩く必要がある。

 駅の地下道を上がって出てきた国道沿いにある出入り口を出て少し南下すると左斜めに入る古い道があるのでその道を真っ直ぐに行くと自然と市内でも知られた商店街に入ってゆく。

 電車駅(地上の民鉄駅)の少し手前の高架沿いにそのスーパーはあるが、買物を済ませてから、いつものバス通りまで出てバスで帰って来た。

 今日はずっと腕時計なしで行動したわけだが今まで使っていた安物の腕時計が電池切れだと思うが張りが止まった状態になっているのが、電池を入れ替えずに新しい腕時計を買うことにした。

 しばらく前にシェーバーをたまたまテレビを見ていてジャパネットが案内してたので購入したわけだが、後から20周年感謝祭だと称して一冊の宣伝本が送られてきたので見ていたが「ソーラー電波時計」という充電しなくても太陽や部屋の明かりで電気を起こして常時充電し、時刻も自動的に世界6カ所からの電波受信でき時刻を合わせる必要もないということなので購入することにして さっそく電話で申し込む。

 夕方は先ほどバスで戻って来た逆の方向に行く為にバス停に行き、小学校最寄りのバス停で降り、学校に到着するとすでに当番のサポートをしてくれる女性が準備を始めたところで直ぐに加わって準備をする。

 今日は前半がルンバで後半はスローだが、特にスローは中々慣れなくてリズムもとりにくいのが難点である。

 だけど誰も最初から上手く行った訳じゃないから何度もやるしかないというところである。


日本人のルーツ

2014-06-22 20:53:25 | 日記

 今日は低気圧の影響で雨模様ということだったが、次第に雨も上がって午後から夕方にかけて次第に晴れ間も見えてきた。

 今日は特に予定もないから朝もゆっくりとくつろいでいた。いつものようにメールとカレンダーをチェックして特に何も問題はないが、相変わらず多くもメールが入って来ている。ということでその後はしばしゲームを行なったあと、ニュースやYouTubeを見ることになる。

 ところでこんな記事があったので、記述してみました。

 韓国人たちがしばしばありもしない歴史を捏造して日本の天皇は我々朝鮮人の一派が朝鮮半島から日本列島に渡った子孫の末裔で古代に朝鮮半島経由で色々と文化や技術を伝えてやったんだということを言う輩がいる。

 すなわち朝鮮の王族の方が上で天皇は下だという見下した物の言い方である。

 日本人の中にも「そうかも知れない」と、思っている人もあるかも知れないが、 そんなことは歴史書を紐解けばすぐに判ることである。

 こんな記事があったので記述してみた。

  『日本書紀』雄略天皇五年(461)

 【武寧王の出生】

 「夏四月、百済加須利君、蓋鹵王也。飛聞池津媛之所燔殺、適稽女郎也。而等議曰、昔貢女人為采女。而既無礼、失我国名。自今以後、不合貢女。乃告其弟軍君崑支君也。曰、汝宜往日本以事天皇。軍君対日、上君之命不可奉違。願賜君婦、而後奉遺。加須利君則 以孕婦、嫁與軍君曰、我之孕婦、既当産月。若於路産兒。仍名此兒曰嶋君。於是、軍君即以一船、送嶋君於国。是為武寧王。百済人呼此嶋曰主嶋也。」

 「夏四月に、百済の加須利君(蓋鹵王)は、池津媛が焼き殺されたことを聞き、相談したうえ、「昔、女性を貢って天皇の采女としたが、無礼なことをして、我が国の名をはずかしめた。今後は、女性を貢ってはならない」という。加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君(崑支)に「汝は日本に行って天皇に事(つか)えろというと、軍君は、「上君の命を違えることはできません。願わくば、上君の婦を賜って往かせてください」と答えた。加須利君は妊娠中の女性を軍君の妻として与え、「我が孕婦は既に産み月に当たっている。もし途中で産まれたら、船に載せて、何処であっても、速く国に贈り帰してくれ」といった。そして、加須利君は軍君と別れの挨拶を交わして、日本の朝廷へ奉遣した。六月丙朔、軍君の妊娠した妻が、加須利君が言ったように、筑紫の各羅嶋(かからのしま)で出産した。そこで、この児を嶋君と名付けた。軍君はすぐにこの嶋君を船に載せて国に送った。是が武寧王である。百済人は、この嶋を主嶋(にりむせま)と呼ぶ。」

 武寧王は人質の子として日本で生まれ。 百済王族は日本の天皇に仕えていたのだ。

 『日本書紀』雄略天皇二十三年(479)

夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、幷遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。

 「百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で二番目の末多王が幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。」

 479年、東城王(末多王)が百済王に即位したが、この即位も天皇によって決められた。

 常に天皇>百済王の関係であり。

 百済における倭国の勢力と影響力の大きさをうかがえる。


古道連協、崖っぷち南コース案の下見&「都市平野」のセミナーに参加

2014-06-21 23:16:44 | 日記

 今日は最初の内は晴間もあったが次第に雲も出てきて直射日光はそんなに強いことはなかったが、結構蒸し暑い状態になった。

 今日は古道連協が今年度企画している「台地の崖っぷち」をウォーク第3弾のコース案の下見歩きである。

 最近はいつも午後2時を過ぎてから就寝するクセが付いてしまって特に昨日というより今朝早く2時30分ぐらいになって目が覚めたのは一旦7時頃に目が覚めてトイレに立った後、また布団に潜り込んで結局起きたのは9時頃になってしまった。

 朝食の準備をして食べている最中に電話が鳴る。

 電話に出ると古道連協の事務局長からで「集合場所で皆待ってるんだけど…」とのこと。

 そうだった、今日はいつもの午後1時30分の集合時間だと勘違いしてゆっくり構えていたけど午後1時から自然史博物館のセミナーに行くので、午前中に歩こうということになってたんだと思い出した。

 結局、コース途中のお寺で合流しようと言うことになって、直ぐに食事を済ませ、着替えをして直ぐに自宅を飛び出して南北を走るバス通りまで歩いて行く。

 この南北の通りはメイン通りなんだが地下鉄が走ってないのでバスの本数は他のルートよりも多いがとにかく始発バスも出る営業所のバス停を目指して歩いて行く。

 運よく停留所に到着してすぐにバスがやって来たので乗り込み、待ち合わせ場所のお寺に最も近い停留所で降りて歩いて行く。

 自宅を出てから歩いてバスに乗って、また歩いてやって来た訳だが、多分30分ぐらいで到着したのではないかと思う。

 思うというのは今朝最初に目が覚めてトイレに行く為に起きた時、何時頃だろうと時刻を見ようと思って腕時計を見ると針が動いていない。

 多分電池切れだと思うが、時計を持って来てないために正確な時間は分からないが、そう大きなタイムラグはないだろう。

 しばらくその寺で待っていたが一向に来る気配はないし、来る時の時間的なロスもないから多分私の方が早いという自信はあったので迎えに歩いて行こうとその先にある公園に行き、またしばらく待ったがまだ来ない。

 それならもっと歩いて行こうかと思って歩き出したが住宅道路の交差点に出たところで「この近くにある古墳跡に寄り道してる可能性もある」と思い直して、元のお寺の境内で待つことにした。

 時計がないのでどのくらい待ったかはっきりしないが、このお寺の正門の前にクロネコがお腹を下にして身体を伸ばした状態で寝そべっている。

 その横にある大きな石に腰を掛けて待っているとやがって遠くの方で女性の声がしたので下を見下ろすと見覚えのある顔が見えたが、横の石段を上がらずに正面になる石段の方へ向かったので私が逆に正門から石段を下りていくと先頭を歩いていた女性Mさんの目の前に降りていった。

 「エッ、来てたの?」というので「ごゆっくりで…」と半分皮肉るように答える。

 合流できたのでここから私が新しいコース案を示すために前に立って歩き出した。

 というのも以前にも同じコースを歩いたが、1回目と2回目のコースはそれぞれ1つの区の中を歩くという比較的距離が短いコースだが、私が担当する3回目のコースは2区を歩くことになるから距離が長くなる。

 そこで崖っぷちを体感しながら最短コースを一人で捜しながら歩いた時のコースをみんなと一緒に今日歩いている訳で合流する前のコースは以前となんら変わらないが、ここからが私のコース案の道だから先導することになり、前に立って歩いて行く。

 そして坂道に差し掛かりズンズン歩いて行ったが振り返って見ると遠くに離れてしまっている。

 見れば、よその家の前に植えてある花を見つけて見入っているのである。

 これだから女性達は困るのである。

 その道を上りきった所で先に立って真っ直ぐ歩いていた私を呼び止め「こちらの道の先はどうなっているの?」と言うので「その道は通っていない」というと「行ってみよう」と言うことになった。

 その道の先に民家の屋根が下に見えて断崖がある感じなので「行き止まりかも知れないが…」と言いつつ歩いて行くと道の先端に下へ続く階段があった。

 初めて通る道だし、降りたところからどこに出るのか分からないまま降りていく。

 降り切って左の方向だということは分かっているが、果たして知った場所に出るかどうかであったが、なんとか見覚えのある場所に出たのでその先に行くことが出来た。

 そしてこれも私のコース案の道に案内する。

 コース途中の神社の下に到着した時、一番年輩の女性が「疲れた!」ということで電車で昼食を食べる店の最寄りの電停で待ち合わせようということで先にリタイアした。

 私達はそのまま予定コースを最後まで歩き、先程リタイアした女性と電停で合流して、久し振りに会席料理店の昼定食を食べる。

 殆んどの人がカレイの煮付けにした。

 食べ終えてすぐにバス停がある南の方へ歩きバス停迄やって来て時刻を見るとしばらくしたらやって来るようだ。

 セミナー会場へはギリギリ間に合うかどうかだったが会場に到着したら始まったばかりの様で会場は一杯の人である。

 空いてる席を見つけてバラバラに座る。

 セミナーの内容は当市の地質についての説明では各地をボーリングして深い地層まで調べた結果最も古い地層は80数万年前のものもあり、砂地の地層では川から運ばれてきた土砂が堆積して他の地域とのハッキリとした違いなどから色々推定できるというロマンを感じさせるものである。

 私たちの古道とも関わりがある内容もあり色々参考になった。

 その後は場所を変えて駅の近くまで移動し喫茶店に入って今日のコースに付いてや、チラシの配布状況や応募の状況、それに今後の打合せに付いて5時過ぎまで話し合って解散した後、自宅に荷物を置きに帰って、買い物に出かける。