今日は晴れ模様であるが風が少しあってやはり少し冷たいが、日中に関しては割と穏やかな日であった。
先日他区ガイドの会の会長から今日の午後に行なわれるその区の語り部講座に当区ガイドの会の会員が講師となって話すことになっているので秋にあった歴史講座の時と同様にテープ起しをしてほしいと頼まれていたので昼からは外出する必要がある。
午前中は予定がないのでいつものようにメールとカレンダーで確認した後、コーヒーを飲んでゆっくりしていたが、途中から昨日の続きのガイド資料のデジタルファイル作りを行なう。
語り部講座は午後時から行なわれることになっているので、普通どおり食事をしてから歩いて行くことにした。
今までダンスのレッスンが済んだ時に歩いて帰ったことが何度かあるが、大体分ぐらいかかっているので~分前ぐらいに着くように少し余裕を見て時には出る予定にしていたが、着替えや準備に少し手間取り自宅を出たのが時分頃になってしまった。
ダンスの会場より少し遠いので歩く速度が同じペースだと分以上かかることになるので若干ペースを上げて歩いて行く。
JR駅にして駅分で距離にしてkm程になるらしいが、普通に歩くと時間程かかることになる。
旨いこと信号で殆んどストップすることもなく順調に歩けたので自宅から最寄駅までの間は別として最寄駅からつ目の駅迄を分ほどで歩いたことになる。
厚手の防寒コートを着て行くと暑くなって汗をかくことになると思ったので薄手のセーターを着て上にはウインドブレーカーを着て軽い服装にしたがそれでも会場に到着したら結構汗が出てきた。
語り部と言うことで演壇に立つ形式ではなく座学の様に長机を部屋の周囲に長いロの字形に並べてあったが、もう私が着いた時には既に,割方の椅子が埋まって人近くの参加者が入っている状態であった。
私はテープ起しと言う役割ということもあって人の語り部のすぐ右側に席を用意してあったのでそこに座り、録音機とテープを準備する。
語り部となる講師は人とも他区ガイドの会のメンバーで人は女性の副会長である。
この女性はこの区に歳で嫁いで来て今年で年この区に住んでいるということが語り部の話の中に出てきた。
ご主人は歳年上の長男で親に反対されたが、押し切って嫁いできたということだった。
その家には家族が人もいて食事を作るのも大変で、舅姑だけでなく主人の弟や妹も自分より年が上の人が多い中で生活をしてきたということである。
今でこそビルが建ったりして街並みもきれいになっているが、その頃は未だ道も舗装されていなくて地下鉄の電車が地上から下を走っているのがむき出しで見えたということである。
道路も舗装なんかされていないので雨が降れば泥田のようになったとか。
家の回りも畑などで野菜を作ったり、花なども植えられていたということである。
もう人の男性は歳で視覚障害者だが他区ガイドの会が出来て,年ほど経った頃に会員になった人である。
東京生まれの東京育ちで会社勤めをしていたが、歳を過ぎた頃に目の病気に罹り医者から目は見えなくなると言われて失意の内にいたが持ち前のガンバリ屋さんで当時福祉関係の団体の代表と縁があって歳の時、この街に来て視覚障害者でも出来る仕事を任されるようになって昭和年に退職するまでそこで働いたそうである。
その団体は大きくなってそれまでの敷地では賄えなくなったものだから、今は別のところに引っ越して行ったが、その前に退職となっていたのでずっとこの区に住んでいたということである。
先日のブログでカラオケで一緒に行く女性が視覚障害者の手を引いていて、昨年の夏に自宅に送り届けた時にあわや命を落とすところだったと書いたその人物である。
この男性は視覚障害者でありながら非常に知識欲旺盛で色々な講座を受けたり、またこの会が以前のリレーウォークの時につのガイドポイントを受け持って参加者に説明もした人物である。
また今年の会の新年会には他の予定とぶつかって、出られないということだが昨年までは詩吟を新年会で披露されていた。
今日も語り部として参加者に昭和年にこの街にやって来て以来だから数年前からのこの街のことに付いて語ってもらった訳である。
この語り部の企画は昨年が第回でその時も同じ会の男の副会長が行なった。
この区の区役所とタイアップして区の歴史講座なども行なっている関係で他区ガイドの会が区から頼りにされている訳である。
話が終わった後、参加者人人から感想や質問などをもらったが、質問は殆んどなく昔のことに付いて改めて感慨に耽っていた様子であった。
語り部講座が終わった後、会長から後で一緒に杯付き合ってくれと言うことだったが別に予定もないのでいっしょに 区役所の会議室を出て近くの居酒屋に入る。
そしてリレーウォークの話しに及んだ時、会長の実家の兄もなくなり、またその息子も歳で亡くなったりして後を継がなければならないかも知れないということで私に明日日に行なわれるリレーウォークの実行委員会の本部で行なわれる会議に参加してほしいということである。
場合によってはリレーウォークの最終となる月まで待たずに、この街と別れなければならないかも分からないので私に引き継いで欲しいということである。
エライことになってきたが、頼まれたらイヤとは言えない性分であることを見抜かれているような気がするが、他に適当な人物がいないということである。
別に一杯飲まされたからどうこうと言うことじゃないがリレーウォークのこともだけど、この会の行く末のことも考えておかねばならないことを今日初めて会長にぶつけたが、後のことは今日語り部で話をした女性の副会長に相談して、彼女が解散したいということになるかも知れない。
その時は仕方がないが、それとは別に肺癌で片肺をとって無理は出来ないけれど事務局長がその女性副会長と話し合って後を引き継いでやってくれることを期待しているとのことである。
ビール中瓶本半づつを飲んで別れたが電車で帰ろうかとも思ったが帰りも歩いて帰ることにした。
丁度酔いを覚ますにはもってこいの冷気に触れながら歩いて帰って来たが帰りついたころにはかなり酔いも醒めてきたので早速比較的近くにある銭湯に向かう。
ここは今までとは違う銭湯であるが、銭湯の組合では円と決まっているが、この店独自に入浴券を作っており、枚の回数券を買うと円なので、回当りが円になるということなので回数券を購入することにした。
いつも当区にある最も遠い銭湯の入浴料はもっと安いが今日は往復でかなり歩いたのでパスすることにして、今日はこの銭湯にやって来たのである。
先日他区ガイドの会の会長から今日の午後に行なわれるその区の語り部講座に当区ガイドの会の会員が講師となって話すことになっているので秋にあった歴史講座の時と同様にテープ起しをしてほしいと頼まれていたので昼からは外出する必要がある。
午前中は予定がないのでいつものようにメールとカレンダーで確認した後、コーヒーを飲んでゆっくりしていたが、途中から昨日の続きのガイド資料のデジタルファイル作りを行なう。
語り部講座は午後時から行なわれることになっているので、普通どおり食事をしてから歩いて行くことにした。
今までダンスのレッスンが済んだ時に歩いて帰ったことが何度かあるが、大体分ぐらいかかっているので~分前ぐらいに着くように少し余裕を見て時には出る予定にしていたが、着替えや準備に少し手間取り自宅を出たのが時分頃になってしまった。
ダンスの会場より少し遠いので歩く速度が同じペースだと分以上かかることになるので若干ペースを上げて歩いて行く。
JR駅にして駅分で距離にしてkm程になるらしいが、普通に歩くと時間程かかることになる。
旨いこと信号で殆んどストップすることもなく順調に歩けたので自宅から最寄駅までの間は別として最寄駅からつ目の駅迄を分ほどで歩いたことになる。
厚手の防寒コートを着て行くと暑くなって汗をかくことになると思ったので薄手のセーターを着て上にはウインドブレーカーを着て軽い服装にしたがそれでも会場に到着したら結構汗が出てきた。
語り部と言うことで演壇に立つ形式ではなく座学の様に長机を部屋の周囲に長いロの字形に並べてあったが、もう私が着いた時には既に,割方の椅子が埋まって人近くの参加者が入っている状態であった。
私はテープ起しと言う役割ということもあって人の語り部のすぐ右側に席を用意してあったのでそこに座り、録音機とテープを準備する。
語り部となる講師は人とも他区ガイドの会のメンバーで人は女性の副会長である。
この女性はこの区に歳で嫁いで来て今年で年この区に住んでいるということが語り部の話の中に出てきた。
ご主人は歳年上の長男で親に反対されたが、押し切って嫁いできたということだった。
その家には家族が人もいて食事を作るのも大変で、舅姑だけでなく主人の弟や妹も自分より年が上の人が多い中で生活をしてきたということである。
今でこそビルが建ったりして街並みもきれいになっているが、その頃は未だ道も舗装されていなくて地下鉄の電車が地上から下を走っているのがむき出しで見えたということである。
道路も舗装なんかされていないので雨が降れば泥田のようになったとか。
家の回りも畑などで野菜を作ったり、花なども植えられていたということである。
もう人の男性は歳で視覚障害者だが他区ガイドの会が出来て,年ほど経った頃に会員になった人である。
東京生まれの東京育ちで会社勤めをしていたが、歳を過ぎた頃に目の病気に罹り医者から目は見えなくなると言われて失意の内にいたが持ち前のガンバリ屋さんで当時福祉関係の団体の代表と縁があって歳の時、この街に来て視覚障害者でも出来る仕事を任されるようになって昭和年に退職するまでそこで働いたそうである。
その団体は大きくなってそれまでの敷地では賄えなくなったものだから、今は別のところに引っ越して行ったが、その前に退職となっていたのでずっとこの区に住んでいたということである。
先日のブログでカラオケで一緒に行く女性が視覚障害者の手を引いていて、昨年の夏に自宅に送り届けた時にあわや命を落とすところだったと書いたその人物である。
この男性は視覚障害者でありながら非常に知識欲旺盛で色々な講座を受けたり、またこの会が以前のリレーウォークの時につのガイドポイントを受け持って参加者に説明もした人物である。
また今年の会の新年会には他の予定とぶつかって、出られないということだが昨年までは詩吟を新年会で披露されていた。
今日も語り部として参加者に昭和年にこの街にやって来て以来だから数年前からのこの街のことに付いて語ってもらった訳である。
この語り部の企画は昨年が第回でその時も同じ会の男の副会長が行なった。
この区の区役所とタイアップして区の歴史講座なども行なっている関係で他区ガイドの会が区から頼りにされている訳である。
話が終わった後、参加者人人から感想や質問などをもらったが、質問は殆んどなく昔のことに付いて改めて感慨に耽っていた様子であった。
語り部講座が終わった後、会長から後で一緒に杯付き合ってくれと言うことだったが別に予定もないのでいっしょに 区役所の会議室を出て近くの居酒屋に入る。
そしてリレーウォークの話しに及んだ時、会長の実家の兄もなくなり、またその息子も歳で亡くなったりして後を継がなければならないかも知れないということで私に明日日に行なわれるリレーウォークの実行委員会の本部で行なわれる会議に参加してほしいということである。
場合によってはリレーウォークの最終となる月まで待たずに、この街と別れなければならないかも分からないので私に引き継いで欲しいということである。
エライことになってきたが、頼まれたらイヤとは言えない性分であることを見抜かれているような気がするが、他に適当な人物がいないということである。
別に一杯飲まされたからどうこうと言うことじゃないがリレーウォークのこともだけど、この会の行く末のことも考えておかねばならないことを今日初めて会長にぶつけたが、後のことは今日語り部で話をした女性の副会長に相談して、彼女が解散したいということになるかも知れない。
その時は仕方がないが、それとは別に肺癌で片肺をとって無理は出来ないけれど事務局長がその女性副会長と話し合って後を引き継いでやってくれることを期待しているとのことである。
ビール中瓶本半づつを飲んで別れたが電車で帰ろうかとも思ったが帰りも歩いて帰ることにした。
丁度酔いを覚ますにはもってこいの冷気に触れながら歩いて帰って来たが帰りついたころにはかなり酔いも醒めてきたので早速比較的近くにある銭湯に向かう。
ここは今までとは違う銭湯であるが、銭湯の組合では円と決まっているが、この店独自に入浴券を作っており、枚の回数券を買うと円なので、回当りが円になるということなので回数券を購入することにした。
いつも当区にある最も遠い銭湯の入浴料はもっと安いが今日は往復でかなり歩いたのでパスすることにして、今日はこの銭湯にやって来たのである。