他人に対する否定を程度の強さで分類すると次のようになる。{評論ー批判ー悪口ー誹謗ー罵詈ー唸声}
評論は客観的に物事や人の価値・善悪・優劣などを論じることである。これは人の事績を中心にしており、その人格や行為の価値判断にはほとんどふれることはない。批判も評論に似ているが、人の評価がかなり入ってくる。学会の発表後の質問で「もう少し観測値を増やすことが望ましい」などと言われることがある。これには、少ないデーターで結論を出す発表者の性急さや未熟さが、やんわりと非難されている。
悪口になると、対象とする人そのものの批判や否定がかなり大きな要素をしめてくる。ただ、その理由をある程度述べているので、表現の仕方によっては、センスやウイットがあるものにもなるし、後味の悪いものにもなる。話者の知性と表現力が試されるものだ。悪口は面とむかって相手に言うことよりも、共通の知り合いにいうことが多い。
そして、誹謗となるともう99%が相手の人格否定を目的にするもので、多くは虚偽を交えた文言の羅列に終止する。目的は、人や集団に対する中傷で、聞いているほうも引いてしまう。これをおおやけの媒体でやると名誉毀損で訴えられる可能性がある。次の罵詈は口汚いののしり。罵詈雑言と四字熟語で言う。
最後の唸声(ねんせい)とは、耳慣れない言葉だが要するに唸り声である。動物がストレスにさらされると、相手を威嚇するために唸り声をあげる。排外主義的なヘイトスピーチやインターネットの書き込みは、悪口といえば悪口であるが、知性やウイットのかけらもない。欲求不満のはけ口にすぎない。中国の若者は共産党の「愛国教育」により反日の唸り声をあげ、日本の若者はブラック労働のストレスで反中•反韓の唸り声をあげている。若者が唸る国はおおむね衰退する。
悪口を言う理由はいろいろあるが、多くは怨恨である。人にバカにされたり、侮辱されたりすると、人はだいたい忘れずに復讐してやろうと思う。あんなバカは相手にせず無視すればいいと、理性が心の中でつぶやくが、凡俗はなかなかそうはできない。第三者に悪口を言って代償することになる。悪口を昇華して批判に転化せよとのたまう人もいるが、たいていはエスカレートして誹謗にいたる。人はなかなか君子にはなれないものなのだ。
参考図書
和田秀樹氏『悪口を言う人は、なぜ、悪口を言うのか』 (2015) ワック株式会社
追記 (2020/08/13)
村松友視『悪口のすすめ』 日本経済新聞出版社 2012によると「悪口」には「愛」がふくまれていなければならないそうだ。
『妻昼寝トドに毛布をかけてやる』
なるほど。
島田市には御陣屋稲荷神社(悪口稲荷神社)がある、ここでは「愛するあなたへの悪口コンテスト」が毎年行われる。
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