京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

シーボルトおおいにテミンクの悪口を言う

2022年06月21日 | 悪口学

 

シーボルト

 

 

シーボルトは江戸時代末期の安政年間にオランダから日本に派遣された博物学者である。シーボルトにとって4年に一度の江戸参府旅行は日本の自然物や収集する絶好の機会であった。シーボルトが江戸参府中に最も喜んだ動物コレクションのは、鈴鹿山中で湊長安が持ち込んだ両生類のオオサンショウウオであった。湊長安(1786-1838)は1824年鳴滝塾に入塾、江戸参府でシーボルトに随行したとされる蘭方医である。3月27日の『日記』に次のような記載がある。

 「けわしいがよく整備された山岳地帯の街道を坂ノ下(現亀山市関町坂下)に向かう。同地で2、3日先行していた医師の長安を通じて頼んでおいた山岳地帯の植物、若干の化石、それに非常に珍しいイモリを受け取った。この水陸両生の動物はサンショウウオ (San-sjoo no-iwo) と呼ばれ、山で生息している魚である。この鈴鹿山脈のとくにオクデ(Okude)山の小川に棲み、そこから時々湿地に出て来る。 同じ名前で知られているもっと小さいのを悪液質の病気の治療薬として、頭に棒を刺し小さな板切れに並べて乾かしたものを薬屋で売っている。このイモリ(Triton., Laueat)は長さ13インチ6リーニュ(約36.6cm)、頭部は非常に扁平で幅は1インチ9リーニュ(約4.7cm)、尾は押しつぶされたようになっていて4インチ6リーニュ(約12.2cm)。身体の色は灰色がかった緑色で不規則な黒っぽい小さな斑点がある。前足には4本の指があり、親指の下にはイボのようなものがある。後足の外側には5本の指があるが、この標本の左後足には4本の指しかない。第二指骨の上の親指の外側に、私ははっきりとイボのような形の5本目の足指ができているのを認めた。この動物の再生力?親指の下には前足のところと同じように、ひとつのイボのようなものがある。腹は黄色味がかった緑で斑点はない。皮膚は両側とも身体に沿って縁があり、その襞で波形に見える。側面からだと、生息している状態ではイモリの体は角張って見える。このイモリは、北アメリカで発見されたTriton giganteus cuv.に近似してる。われわれは、さしあたりTriton Japonicusという名称で記載しておきたい」(斉藤訳『日記』69頁)。

  この文章は自然採集物について、江戸参府旅行中にシーボルトが残した記述の中で最も長いものである。オオサンショウウオが、シーボルトにとって、どれほど珍奇な動物と目に映ったかは容易に想像できる。この自慢の収集品は、後日、出島で書かれたテミンクへの手紙 (1829年2月12日付)の中でも次のように報告されている(6)。「私が日本で発見したサンショウウオは良好に保存されております。これは私の認識によれば最大の種だと思われます。この発見物は同じサンショウウオと呼ばれているものと、厳密に比較されなければなりません。そうすれば、おそらくフンボルトの言う幼形成体(Axolotl)に関する若干の解明がふたたび見いだせるかもしれません」(栗原訳『日本報告』273頁)

 シーボルトは「日本の爬虫類の自然史と形態」というタイトルの前説を『爬虫類篇』で書いている。 そこでも、オオサンショウウオ (grande salamanndre)が北緯34~36度の高山の深い渓谷に棲んでいる事、小魚やアカガエルなどを餌にしている事、はじめてそれを見たのは東海道の坂ノ下である事、長安(Tsioan)がこの辺りの漢方薬剤師に依頼して手に入れた事、これはオクデ(Okude)山でよく発見される事、この個体は生きたままヨーロッパまで運ばれオランダの博物館に納められ約3ピエ(約96cm)の大きさに成長した事などが記されている。このオクデ山についてであるが、坂ノ下付近にも三重県内にも、オクデ山やこの発音に近い山は見当たらない。長安が「奥の山(奥山)で穫れた」と言ったのを聞き間違えた可能性が高い。

 

ファウナヤポニカ『爬虫類篇』本文(p.127、図版6~8)では、シュレーゲルによって8ページにもわたってオオサンショウウオが紹介されている (図2)。その内容の大部分は分類学的な視点から形態の記述で占められている。学名はSalamandra maximaとされ、種小名のmaximaはラテン語magna (大きい)の最上級をあてている。その解説は、「これは旅行中になされた動物学上の発見の中で最も重要なものの一つであり、シーボルト氏のたゆまぬ努力によって得られたものである」という賛辞で始まる。そして、生きた2匹のサンショウウオが淡水で満たされた樽でヨーロッパまで運ばれた状況などが細かく記載されている。それによると、航海の途中で餌の魚が足りなくなり最後の2ケ月は食物が欠乏し、一匹が相棒のメスを食べてしまったと書かれている。生き残ったサンショウウオが1829年にライデンに到着した時には、鰓はすでに無くなっており体長1ピエ(約32cm)弱だった。それは1835年には約3ピエほどに成長し、以降はそれ以上大きくならなかった。このサンショウウオはその後、1849年にアムステルダム動物園に貸し出され1881年まで生きていたとされる(16)。ヨーロッパでは化石として知られる巨大なオオサンショウウオは、当時の人々にとって極めて珍奇な動物として受け止められ、これを通じて極東の小国日本を知らしめる展示物となっていた。

 ただ、この展示については、シーボルトは複雑な感情をいだいていたようである。シーボルトはその著『日本』で、次のようなことを述べている。

 「私が日本で発見し、収集し、まとめて国立博物館に送った多数の標本類のうち、そこに展示された、あるいは交換品としてヨーロッパの他の博物館に移されたものの極めてわずかな分についてだけ発見者の名を付している。おそらくこれは大動物学者の狭量なエゴであろう。仮にこのような学術上の我欲から生じた忘恩行為には目をつむるとしても、テミンク氏はさらに気随気儘なことを行ったのである。すなわち、かつて江戸参府の道中で、私は一匹の大イモリ(Salamandra maxima)をかなり多額の金を払って買い求め、これを生きたままヨーロッパに持ち帰り、私の所有物として博物館に納めた。この大イモリをテミンク氏は最初アムステルダム動物園に貸与し、後にこれを同園に引き渡してその所有物としてしまったのである。協会に対する敬意から、私はこうしたデリケートな間題にはこれまで触れずにきた。それは同協会の尊敬すべき管理者各位が、もしテミンク氏の寄贈品の本当の出所を知ったならば、こうした財産を漫然と手中におさめておくことは彼らの願うところではないだろうと確信するからである。 私のイモリは、ヨーロッパの動物園で展示されている動物のなかでも、もっとも珍しく、もっとも貴重な物のひとつであることは疑うべくもない」(加藤ら訳『日本』215頁)。オランダ政府の調査費で入手したシーボルトの収集品の一切は、政府の専有であることは厳格に契約で規定されていた。しかし、シーボルトがライデンの博物館に送ったサンショウウオは、自分の費用で得た私物であるので、テミンク館長が勝手にこれを第三者に譲り渡したのは許せないと言っているのである。この文章が『日本』に載った時には、テミンクはすでに亡くなっていたので、何が真実かは明らかにされなかった。シーボルト研究家の山口隆雄は、テミンクの死後にシーボルトがこのような記事を出したことは公正でないと非難している


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