京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

時間についての考察 XV:時間の矢、時間の環

2019年07月04日 | 時間学

 

  時間は宇宙的、物理的、生物的、心理的あるいは経済的時間などいくらでも分類できる。ここでは生物的時間について考えてみる。

 

     『生物学者の思索と遍歴 / 八杉龍一著』より転載

   進化は逆戻りしないといわれているので、一応ここでは時間は直線的に一方向に流れる(時間の矢)。そして個体(ヒト)レベルでは発生のプログラムに従って生まれ育ち、最後は老化して死ぬ(時間の矢)。これも後戻りはない。しかし、途中で生殖し子供を生むので、種としてのサイクル(環)がみられる。すなわち、誕生→死によって個体は死ぬが、子孫が残り、これが繰り返される。これを進化軸を上向きにとって図式化すると、螺旋が描ける。さらに細かくみると、地球上では、生物は周期的な変化(日周性、年周期、月周期、ほぼ半月の潮汐周期など)にさらされており、体内にはこれに適応的に働く生物時計の仕組みを備えている。図の螺旋の線自体が、螺旋のバネのような構造になっている。生物の時間とはこのように、直線と環が組み合わさってできたものと考えればよい。

追記 (2019/08/02)

スティーヴン・グールド『時間の矢・時間の環』(渡辺政隆訳、工作舎 1990)は、チャールズ・ライエルの地球の歴史にかかわる「斉一説」について論じたものであるが、時間の矢と環についても詳細な議論を展開している。「矢か環か?」の二分法は、そもそもどちらが正しいかの選択を前提にしたものではなく、弁証法的な方法であると述べている。 時間の矢は聖書の思想であり、ユダヤの教えであるとする。それ以外の世界では時間の循環という考え方であった。

「矢の時間」では歴史は反復しない事象の一方向の連続で、各一瞬は時間の流れのなかで、独特の位置を占め、関連した出来事が流れ物語が作られる。一方、「環の時間」では根本的な状態は時間に内在し、見かけの運動は反復する環の一部であり、様々な過去が、未来で再び現実のものとして繰り返される。そこでは時間は方向性はない。因果律は短い時間ではあるが長い時間ではなくなるという不思議がある。

 

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時間についての考察 XIV 疎外と時間について

2019年07月03日 | 時間学

 

 

 神と人間の関係で、疎外 (Entfremdung)の本質を抽出したのは、ルートビィッヒ•フォイエルバッハ (1804-72)であった。フォイエルバッハはベルリン大学でヘーゲルの影響を受けた哲学者である。その著「キリスト教の本質」は、キリスト教とその神学の人間学的秘密を解き明かした歴史的な書である。愛と感性と身体を原理として掲げ、宗教や信仰に含まれる欺瞞性を暴露し、マルクスやエンゲルス、ニーチェなどに影響を与えた。フォイエルバッハによると、神はもともと人間自身の本質、その力と能力を映し出したもので、人間が一番大切で神聖なるものと感じたものの名前をリストアップしたものであるとした。言い換えると、神は有限な現実の人間存在そのものであると言える。フォイエルバッハは宗教を撤廃するのではなくて、媒介と宥和の愛による「神と人間の真の統一」を説いた。「愛は人間を神にし神を人間にする」とした。ところが、主客転倒がおきて、人間が脳で創造したものが、神は天におり、宇宙も人間も創造した絶対者とされてしまった。樹からほり出した木像を拝んでいるうちに、その木像が自分をこの世に生み出したとする錯覚が生じたのである。西洋では、神は教会やそれと結びついた国家を通じて、人の生活や人生を支配するようになった。神が人間から引き離され、人間が自己疎外されること、つまり人間の最高の本質が人間の手の届かない所に置かれて、人間自身が疎外されるにいたった。そして、「キリスト教の本質」は宗教の虚偽性を暴露した本としてではなく、この疎外という哲学概念を誕生させた著書として有名になった。

  若きマルクスは『経済学•哲学草稿』において、つぎのように考えた。資本主義においては資本が「神」に相当する。資本は自分を増殖させることを目的にするが、労働は価値の源泉で、資本は蓄積された労働である。労働者は労働によって資本を増やすが、それは自分のものにならず、敵対的で搾取を拡大するものとなる。マルクスは賃労働が生み出す疎外を4つに分類した。まず、自分が生産物が自分のものとならず、敵対物に転化するという疎外が生じたと。第二は労働者と労働行為そのものとの疎外である。「幸福なパン屋」と違って、資本主義生産で分業に携わる労働者は、ベルトコンベアーの脇で袋詰めの賃労働に従事して一日をすごす。自分の手が自分のものではなく、機械の一部になっている。第三は労働者と人間の類的本質の間に生じる疎外関係である。人と類との関係の認識が、民主主義の根底的な基盤であり、弱者強者の差別を排除する唯一の哲学である。天才がある画期的な発明をしたからといって、その天才と周りの目ざとい資本家が大もうけするのではなく、天才の発揮した能力は全人類の共有財産であり、その努力や幸運にはそれなりの対価を授けるとしても、一方的に私するものではない。逆に、弱者(例えば先天性障害者)に対しても逆の同じ論理が必要である。そして第四の疎外は労働者と他の人間との間に生じる疎外である(ただ疎外の認識の共有によって、疎外はともに打破されるものなるはずである)。このマルクスの言明のなかで最も重要な抽出概念は「類としての本質」についてである。フォイエルバッハが考えた類の本質は「自然的」(エコロジカル)なものであったが、マルクスのそれは「社会的」(ソシアル)なものであったという。エンゲルは「フォイエルバッハに関するテーゼ」において、マルクスのこの概念転換(自然→社会)を新しい世界観の天才的萌芽を宿す文書として高く評価した。

 さらにマルクスはフォイエルバッハの人間理解に含まれる「本質論」を批判し、これに対置して「関係論」を唱えた。人間の本質とは個人が内包する抽象物(たとえば才能とか性格、容貌のようなもの)ではなくて、「社会的関係の総体(アンサンブル)」であるとした。ここで始めて関係との関わりのなかで、疎外論において時間を取り上げることができる。エマニュエル•レビナスの言うように、「時間はまさに主体と他者との関係そのものである」からだ(レビナスの『時間と他者』からの引用であるが、この著書を読んで意味が唯一理解できる貴重な一行である)。時間の定義をアリストテレスのように「物や事象の変化や運動の基準数」とすれば、レビナスの言明はなんだということになるが、関係も変化の一形態と考えれば矛盾はしない。むしろ関係は時間の「形質」にあたるものである。マルクスも上記の労働における4種の疎外形態において、それぞれにおける関係は述べているが、その時間の構造は詳しくは述べていない。

疎外を時間論の立場で論述しようと試みたのは内山節 (1995)である。概略、内山は次のように述べている。

「村にいる頃は、そこの自然及び共同体社会と横の時間(関係)で生きていた。しかし商品経済社会が発達し、都市を中心とする近代的市民社会の中で人々は縦軸の時間世界に入り込んでいった。そこでは、村での因習に縛られた時間の桎梏からのがれて、自由で個性に裏づけされた人間的な生活が営めると期待された。しかし大部分の人にとって、圧迫され管理され平準化された時間が流れるだけであった。かくして近代産業社会において浸透する縦の時間と,まだ持っていた山里的な時間との不調和。この不調和こそが現代の疎外なのではないか?

しかし、内山の説は明治の産業勃興期の頃の話のようであまり現実感がない(1960年代の話のように書いてはいるが)。ただ、前にも述べたがマルクスは社会的人類の登場を急がせるかり、遺存形質(レリック)を持つ自然的人類の特質を軽視したことは問題である。疎外はいかなる心的なものとして表出するのかどうか議論せねばならないが、疎外の進化的な背景については研究の余地がありそうだ。

 

追記

ミツバチなどの社会性昆虫研究を紹介した本田睨氏の「蜂の群れに人間を見た男」(NHK出版1991)では、ハチの疎外といった言葉は出ず、「部品化」という特異な用語が使われており、面白いとおもった。昆虫に労働や仲間に対する感覚 があるのかどうか?

 

参考図書

鈴木 直『マルクス思想の核心』-21世紀の社会理論のために NHK出版 2016年

木田 元 (編)『哲学の古典101物語』新書館 1998年

内山 節 『時間についての十二章』岩波書店 1995年

エマニュエル•レビイナス『時間と他者』法政大学出版会 1986年 

 

 

 

 

 

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時間についての考察 XIII:宇宙と生命の進化

2019年06月17日 | 時間学

 

 熱力学第二法則によるとエントロピーは増大し、世界は時間の矢の方向に無秩序さが増大することになっている。一方、生命の進化においては、化学進化、原始細胞形成(イブ細胞)、多細胞生物さらに生物社会の形成と、より複雑でエントロピーの小さい複雑なシステムが出来上がってきた。これは大いなる矛盾であると昔から言われてきた。これに対して、生物が存在するこにより地球全体のエントロピーは増大しているなどというもっともらしい説明がされているが、どうしてそんな必然性があるのかは誰にも説明できない。

 『時間の本質をさぐる』(松田卓也、二間瀬敏史著 講談社現代新書 1990)によると、宇宙はビッグバン以来づつと温度が下がり続け、この温度低下が物理的システムの進化の原因になっているそうだ。温度の低下があまり速いと、平衡状態になりきれず、「落ちこぼれ」がところどころに生じて特異な非平衡状態が生ずる。片栗粉をお湯で溶いたときに、均一に混ぜたつもりでもツブツブができるみたなものだ。本来は宇宙は膨張して熱死の方向に向かっているのだが、ダイソンがハング・アップ現象と言った中途半端な状態(オチコボレ)がいくつもできるということだ。

 水素の核融合で燃えている太陽もこの落ちこぼれの一種ということである。この落ちこぼれが発する熱の負のエントロピー(ネゲントロピー)が地球の生命の基になっている。この負のエントロピーが雷の電気エネルギーとなり、別の落ちこぼれである原始地球で化学進化を起こした(Stanley Millerの電気放電実験)。三十数億年前の話である。分からないのはどうして生命の起源である単細胞(イブ細胞)ができたかである? タンパク質や核酸、脂質が原始地球のタイドプールの中で合成されたと、しぶしぶ認めたとしても(腕のよい有機化学者が核酸の1塩基をフラスコで合成するには、収率が悪い何段階もの反応を組みあわせてやっとこさである)、細胞形成の必然性は無論のこと、その偶然性さえも思いつかない。この始源細胞の形成という問題は、再現せよとは言わないまでも(もしできたらその科学者は「神」になれる)、それらしい仮説でも出せるのか? これは物理学における大統一理論と並ぶ科学の最大課題の一つと言えそうだ。

 

 

 

 

 

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時間についての考察 XII:時間の受容器はあるか?

2019年06月15日 | 時間学

 

 ヒトは様々な環境情報を受容しそれに応答する。アリストテレスは視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚をヒトの五感を定めた(間抜けな事に温感が抜けていた)。この他に、ヒトには時間に関するセンス(感覚)が備わっているように思える。そうであれば時間の受容器というものがあるかどうかが問題になる。以下の表はヒトのもろもろの感覚の構造を比較したものである。時間感覚は、視覚や聴覚などの1次感覚を経た変化の認知をもとに生じた意識の一種であるといえそうである。

 ここで色覚と時間感覚を比較検討してみよう。色とは物が発したり反射した光(電磁波)を眼が受容し、神経連合を経た情報を脳が処理して得たクオリアの一種である。脳が赤色とか青色とかいう感覚を生み出しているのであって、赤と青といった物は存在しない。存在するのは、それぞれに対応する光波長スペクトルである。しかも眼(受容器)や脳(情報処理機)には個体差があって、ある人の”赤”と別の人の”赤”が違ったりする。極端なケースは色盲の人で、この場合はたとえば”赤”が存在しない。さらに言うなら、紫外線を感ずるモンシロチョウとヒトとでは、同じ花を見ても違うパターンに見えている。ただ重要なポイントは刺激の要因として電磁波という物理的な実体があることだ。一方、時間感覚も脳内でのクオリアのようであるが、これは変化・運動の認知というプロセスを経て感じられるもので、特定の物的実体そのものではないと言う事である。逆に変化・運動が生じ、それを感知できれば物や事にはこだわらない。

  

  感覚    環境要因         刺激の実体        感覚受容器          測定器            備考


  視覚     光            電磁波         眼(視細胞)       ホトメーター、照度計   色は電磁波の特定の波長  

  聴覚     音            物の振動        耳(鼓膜)        ソノグラム、

  触角     物            物の圧力        皮膚           圧力センサー

  味覚     食物           分子          舌(味蕾細胞)      ガスクロ

  嗅覚     匂い           分子          鼻(嗅細胞)       液クロ

  温覚     熱            分子の運動量      皮膚(クラウゼ小体)   温度計

  時間感覚  物・事象の運動・変化    脳における変化の認知    あらゆる感覚器      時計           ある振動体(clock)が意識連続を作る


 

 鴨長明の方丈記の有名な冒頭『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし』が表すように、視覚による空間変動の認識が時間感覚を生ずる最も大きな要因のようである。それ故に空間概念と時間概念との間には一種の写像関係が成り立っている。視覚による空間映像は瞬間-瞬間のものであるが、それをフィルムのコマのように連続することによって、運動や変化をなめらかに視ている。この”なめらかに視れる”というのは当たり前のように思えるが、これは脳におけるある種のアルゴリズム(ソフト)が働くおかげである。聴覚によっても3次元感覚を得る事を我々は経験的に知っている。音源の位置によって、前後、左右や上下と、その距離を推定する能力をヒトは備えている。ステレオの左右の音は調節すれば、音源が移動するように聞こえる。すなわち音で時間を生成する事ができる。音波はソノグラムで見るとそれぞれ単一の波形ピークであるが連続してメロディーとなる。この「連続感」こそが時間感覚のベースになっている。このアルゴリズムの作動には、おそらくコンピューターに仕組まれているクロックのようなものが必要と思える。 

 このように物の変化を感知して生ずる時間感覚は日周期、月周期、年周期といった自然サイクルによって円環的なものとして強化される。サイクルの経験によって時間感覚が生ずると唱える説があるが、サイクルの時間は連続の時間に上乗せされたものである。それは心理的な時間認識としてだけでなく、生理的な適応機構(概日リズムなど)として遺伝的にわれわれの身体に固定されている。それゆえに外的環境の変化だけでなく、体内環境の変化も意識されることによって、時間感覚を生ずるということである。もっとも卑近な例では腹時計をあげることができるし、概日リズムの体内時計に支配された生理的イベントや睡眠などである。さらに、脳における思考や思念そのものも記憶の内容や量の変化といえるので、これ自身が時間を生み出す要因といえそうである。吾思う故に時間ありというわけである

 時間は文字通りには、時刻Aと時刻Bの間隔を表す。時間を一次元の線分で表すとA点とB点の間の長さである。一方、時刻はある基準における時点(瞬間)を表す。日常では「集合の時間を教えてください」などと時間は時刻と同じ意味で扱われるが、時間学において、時間は「長さ」を、時刻は「点」を表すことにする。ヒトは、時計なしにこの二つをそれぞれ意識下で認知できる動物である。他の動物でこれができることは証明されていない(唯一ミツバチが例外である)。時計や天候をみないでも閉鎖された事務所で時間や時刻をピタリと当てられるサラリーマンは多い。これは仕事量といった物理量の意識的計算による場合もあろうが、多分に体内時計によると思える。

 相対性理論では空間と時間はそれぞれ独立したものではなく、まとまって4次元時空を作る。我々の眼には4次元時空は残念ながら見えない。なぜなら眼は3次元構造だからである。網膜は二次元の膜だが両眼視差を利用し、これも脳内アルゴリズムでもって立体視している。陰影効果(光は上方から、影は下方)、遠近効果(遠くの物は小さく見える)なども立体視に働いている。かくして脳はいわば次元を作るマシーンといえる。我々の脳が3次元を生み出すだけでなく、その方向も指定するという証拠がある。ネッカーの立体視という興味ある現象である。図は透明なガラスでできた立方体である。

    

この図は、立体を底の方を斜め上にみる見方と、蓋の方を斜め下にみる見方の二つがある。この二つの見方は、少し訓練すれば思うままに反転することができる。ただ凝視している内に、まばたきの瞬間にはずみで反転したりする。持続するには「下向き」とか「上向き」とか方向を固定する意志が必要である。これは我々の知覚が刺激次第ではなく、即ち即物的なものではなく、自分の意志が見るべき方向を指定していることを意味している。ところで脳が2次元を3次元に変換できるというのであれば、3次元を4次元にも変換できるのではないか?脳の中で時間の軸を過去にも未来にも移動する事とは何か?眼をつむり過去や未来のシーンを思念することか?あるいは夢(dream)を見る事か?。夢は脳内の疑似的4次元ドライブかも知れない。

 

参考文献

 エルンスト•ペッペル 『意識のなかの時間』(田山忠行、尾形敬次訳)岩波書店 1995

 

 

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時間についての考察 XI:体内時計の起源について

2019年05月29日 | 時間学

 

 

  約24時間の概日リズム(Circadain rhythm)に支配された体内時計の分子的な基盤は、時計遺伝子とその転写産物である各種蛋白のフィードバックループ的な相互作用に他ならないことが分かっている。この分野の成果でもって、2017年にはジェフリー・ホール、マイケル・ロスバシュ、マイク・ヤングの3人が「概日リズムを制御する分子メカニズムの解明」によりノーベル賞を受賞した。

 しかし、研究が進むにつれてフィードバックループの構造は高速道路のジャンクションのように複雑さを増して、素人には(おそらく専門家も)分けがわからなくなってきている(下の図1参照)。最近では、おまけに時計遺伝子の発現を制御するノンコーディング領域の DNA 配列もマウス個体の日内リズムの維持に必要であることが報告されている(http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/research_results/2019/documents/190612_1/01.pdf)。

 歴史的には、19世紀にクロード・ベルナールが提案した恒常性が生物学者の哲学で、生物学は変動を伴うリズムよりは恒常性(homeostasis)といったことが注目されてきた。そして、長い間そのメカニズム研究に主眼が置かれてきた。それゆえに、一昔前には体内時計の研究など意味がないとされていたのである。

  一方でhomeostasisの現象も細かくみると振動があり、これはフィードバック機構によることが明らかになっていた。いわば”振動の平均”が恒常性といえるのである。おそらくこの短周期のフィードバック機構の一つに、環境のサイクルを受容するシステムがカップルして長周期の体内時計が進化したものと推定される。いまや、これは計時機能に特化しているようなので(大部分の時計遺伝子のdeletionは見かけ上致死的ではない)、以前はどのような代謝的あるいは生理的な機能であったかはわからない(variants産物の解析によってヒントが得られるかもしれないが)。おそらく細胞にとっては2次的な役割を担っていたものであろう。生物によって体内時計が多様であるのは(動物、植物と微生物ではまったく違う)、このような代謝系の利用の方法が普遍的であったと思わせる。

  

図1.ショウジョウバエの体内時計の分子機構。参考文献(松本顕氏)より転載。

 

参考文献

松本顕 『時をあやつる遺伝子』岩波書店 2018

アラン•レンベール 『時間生物学とは何か』 白水社 2001

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時間についての考察 X サニャック効果による時計の動きの違い

2019年05月03日 | 時間学

 

  相対性理論による時間影響の一つにはサニヤック効果がある。理想的な時計が二つあって、同じ速さで進むように調整されており、それを赤道上の海面の高さに置く。そのうち一方を、海面に沿って、ジオイド(地球の重力が等しい面の1つであり、地球全体の平均 海面に最もよく整合する)からはずれないように注意して、ゆっくり東へ動かす。移動はゆっくり行なわなければならず、可能なら何年かかってもかまわない。移動する方の時計が、赤道を1周して静止している方の時計と再び出会ったとき、二つの時計を照合してみる。移動が確かに十分遅く、時計がずっと海面の高さにあったならば、回じ時刻を指しているものと予想されるが、そうはならない。移動した時計の方は静止していた時計よりも、207ナノ秒遅れることになる。さらに奇妙なことに、時計が逆方向に進み、西回りに赤道を一周したとすると、今度は移動した方の時計は静止していたよりも207ナノ秒進むことになる。サニャック効果は形を変えた時間の遅れである。地球を慣性座標系と見るか非慣性座標系から見るかで考え方が違うが、結論は同じである。

 

図1サニャック効果: 時計がA点からB点に地表を移動すると、静止した時計に比べて

影付きの部分に比例した時間のズレが生じる(参考文献の図を転載)

 

 

参考文献

トニー・ジョーンズ 『原子時計を計る』青土社 2001.

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時間についての考察 IX 精度の高い原子時計が時空の解析に利用されている

2019年04月12日 | 時間学

 

 

  物理的時間の経過は絶対的なものではなく、観測者の座標系に依存している。そのため、時計の動きは、相対速度、加速度、重力ポテンシャルに影響される。例えば山頂に設置された時計は、山頂の重力ポテンシャルが平地よりも強いため、平地に設置された時計よりも早く進む。これを実証するには、我々が日常使うような時計は精度が荒く全然ダメなので、周波数の高い原子時計を使う必要がある。次世代の原子時計 (イッテルビウム光格子時計)は、光周波数での特定の原子遷移の測定に基づいている。このような原子時計は、感度が高いため重力波の検出、一般相対性理論の検証、および暗黒物質の探索に利用できる。ジオポテンシャルを測るプローブとして利用できる可能性も指摘されていた (McGrewら、2018)。

   さらに最近になって、このような原子時計がローレンツ対称性を検証するために実験に利用された(Sanner ら、2019)。アインシュタインの相対性理論の現代的な検証でもあるが、ローレンツ対称性の破れの測定が、非並行的に並べた原子時計の周波数の精密比較において行われた。そしてSannerらは、二つの単一イオン光時計が10-18のレベルで一致することを確認した。ローレンツ対称性の検証のためには10-21レベルでの精度が要求されると結論づけている。

  非並行的に並べらえた原子時計AとBが計測した時間をA(t)とB(t)とする。ローレンツ対称性が破れた場合はA(t) ≠  B(t)である(ただSannerらの論文はまだそれを証明していない)。この間、実験者の時間は等質なもので、AやBの装置を設定したりデーターを解析する時間に差はないはずなので、A(t) ≠ B(t)は人の関与(心理的過程を含めた)なしに生じた純粋に物理的な現象である。物の変化や転生に関する物理的なパラメーターを時間と規定すると、時間は比較できる実存と言える。

参考文献

W. F. McGrew, X. Zhang, R. J. Fasano, S. A. Schäffer, K. Beloy, D. Nicolodi, R. C. Brown, N. Hinkley, G. Milani, M. Schioppo, T. H. Yoon & A. D. Ludlow  (2018) Atomic clock performance enabling geodesy below the centimetre level.  Nature 564, 87–90. 

 Christian Sanner, Nils Huntemann, Richard Lange, Christian Tamm, Ekkehard Peik, Marianna S. Safronova & Sergey G. Porsev (2019) Optical clock comparison for Lorentz symmetry testing. Nature 567, 204–208.

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時間についての考察 : 時間と生物のサイズのアロメトリーな関係

2019年04月04日 | 時間学

 

 

サイズの生物学というのがあって、生命現象と動物のサイズの関係などが昔から知られており、アロメトリーな関係式(y = aW ^ b)で表される。

 例えば動物の心臓の1拍の時間 (T) は体重 (W) の1/4乗に比例する。

     T = k x W ^ 0.25  

体重30gのネズミの心周期は0.1秒だが3トンの象のそれは3秒である。寿命についても同様の関係がある。この関係が成立する理由はよくわかっていない。

  個体あたりの標準代謝率は体重に正比例せずに体重 Wの3/4乗に比例する。食料の量もおおよそ体重 Wの3/4乗に比例する。面白いことに、単位重量 (kg)あたりの比代謝率は体重の1/4乗に反比例して減少していく。象はネズミの10万倍の体重があるが、比代謝率は一八分の一である。すなわち象の細胞はネズミの細胞に比べると、たった5.6%しかエネルギーを使用していない。企業的に言うと『大きい会社の社員は小さな会社の社員よりかなりサボっている』ということになる。寅さんに出てくる零細企業のタコの社長は四六時中走り回っているが、大企業の社長は悠々としている。もっとも生理的には、もし象の細胞がネズミ並みに活動すると、体温が100℃以上がってしまうと言う。小さな動物も大きな動物も体温のホメオスタシス(恒温38℃)性の維持を基準に生きていると言うことである。このホメオスタシスを企業的に解釈すると何になるのだろうか? 

付記:アロメトリーと言えば、都市の人口とそこの住民が街を歩く速度との間に相互関係があることが知られている。心理学者のマーク・ポーンシテェインによる研究結果で高い相関係数(0.88-0.90)が観察されている。

参考図書

本川達雄 『時間』NHK出版  1996年

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時間についての考察:心理的時間について

2019年04月03日 | 時間学

 

 

 

 少年の日は長く、老人の日は短いという経験則を「ジャネの法則」と呼ぶ(19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネによる)。大脳生理学者の塚原仲晃(つかはらなかあきら)はこれを次のように説明している。「少年期には成人より可塑性が著しく大きく、多くの出来事が記憶に残りやすいのに、老人ではそれが低く、出来事を経験してもそれがすぐ消えてしまい脳に残ることが少ない」。すなわち脳に蓄積された記憶の量が過去の時間感覚のパラメーターであるということである。脳内メモリーが赤ん坊のときの0から死ぬまでに増加するのが、過去と未来の非対称性、即ち意識的なレベルでの時間の流れであるという説もある。これは長期の時間感覚と思えるが、短時間でも時間の感覚の相違がどうして出現するのか説明できない。短時間感覚は別の機構があるに違いない。

  物理的時間と生物的時間以外に、心理的時間があることも我々の経験から確かなことである。例えば車を運転中に、急に尿意を催すと時間の経過を長く感じる。早く目的地について用を足したいのに、信号の時間間隔がやけに長く、目の前を横切る車の動きがノロく感じられる。生理的緊張でもって代謝が高まったせいか、短周期の体内リズムの周期 (τ)が短くなり、相対的に外界の運動が遅く感じるのだろうか。
 
 加齢によって体内のクロックの周期が長くなる(単位時間の周波数が少なくなる)だけ、相対的に世界における運動や時間が早く感じられる。すなわち年寄りにとって1年の経過は早くなり、反対に生理的に活発な子供のクロックは周期が短かく1年を長く感じる。すなわち心理的時間感覚 T = k x (1/τ)(τは体内リズムの周期)で表される。これと概日リズム(約1日のリズム)との関係はよくわからないが、ショウジョウバエでは交尾の求愛振動 (msec 単位)と相関があるという報告がある。
 
 同じような話がK.J. ローズ著『からだの時間学』にも書かれている。インフルエンザで高熱を発した患者が、時間の経過を普段より長く感じたり、60秒カウント数が正常より多いという例をあげ、生理的過程の速度が心理的時間に影響しているのだと述べている。たしかに緊張しているときはアドレナリンが分泌されて代謝系は促進される。ただ「陽気に楽しく騒いでいるときには、時間がたちまち過ぎ去ってしまう」のは何故だろう? こういう場合は代謝系は促進されず、測時のリズム周期はリラックスして遅くなるのだろうか?病気の時には持続した意識を伴う内的時間を持ち、彼女といるときは外的時間を持つ(内的時間を持たない)ので時間の感覚が違うとも考えられる。ロバート・レビーンは、これを次のように説明している。すなわち、脳の記憶部分に、その場の情報が、どれだけ要領よく蓄えられるかに依存して、時間感覚が変わるという。楽しい一時では記憶はすばやく整理されてメモリーに蓄えられるが、退屈でいやな作業や会議では、記憶がギクシャクと詰め込まれるので時間の経過を長く感ずる。

 

参考図書

中島義道 『時間を哲学する』講談社現代新書 Y660 (1996)

ロバート・レビーン 『あなたはどれだけ待てますか』忠平美幸訳 草思社 2002

K.J. ローズ著『からだの時間学』(青木清訳) HBJ出版社 (1989) 

 

付記:(2019/07/22)

高島俊男のエッセイ『長い長い1秒』(『お言葉ですが第11巻 連合出版 2006)に時間を引き延ばして「1秒を10秒」にする話が載っている。寺田寅彦の天文観察、空中殺法、川上哲治の打撃感覚などの例が紹介されている。

 

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時間についての考察:特殊相対性理論の簡単理解法

2019年03月03日 | 時間学

 

 多くの啓蒙書がアインシュタインの特殊相対性理論の解説をしてくれているが、いまいちわかりにくい。どれも、ニュートン力学の比較から話を進めずに説明を始めるので、何が特殊なのか理解しにくくなっている。ここでは宇宙船の光観測の例で説明を試みる。

1)まずニュートン力学での説明をする。

 秒速Vで飛ぶ宇宙船の床から天井に向かって秒速vで弾丸をうち出すとする。弾丸は距離L飛んで天井の標的に当たる。宇宙船に乗ってそばでそれを観察する人(Aさん)にとっては、打ち出しから標的に到達するまでに時間はL/v秒 (これをt秒とする)である。一方、月面から静止状態でこれを観察しいる人 (Bさん)にとっては、弾丸は斜め方向に飛び標的に到達したように見える。速度の合成則によりそれは√(v^2 +V^2)で、時間をT秒とする。そうすると、その距離は

√(v^2 +V^2) x T

三平方(ピタゴラス)の定理により

{√(v^2 +V^2) X T}^2 = (VT)^2 + L^2

これを整理すると

v^2T^2 = L^2

T = L/v  

これは宇宙船内のAさんの観測値tと同じである。T = t

古典力学の世界では運動系と静止系の間に矛盾は何も起こらない。

 

2)同様の計算を特殊相対論で行う。

ただ 特殊相対性理論の世界では、アインシュタインが「光速不変の原理」を導入したのでそれを前提に計算する。先ほどの実験における弾丸の代わりに光(秒速C)を使うと、どのようになるだろうか?宇宙船のAさんの観測値は単純にL/C= tとなる。

 Bさんの立場で先ほどの式を当てはめると[√{(C^2 +V^2) } X T]^2 = (VT)^2 + L^2となるはずが、そうはならない。光速不変の原理からBさんにとっても斜めに飛ぶ光の速さはCで

(CT)^2=(VT)^2 + L^2

T = (L/C)/√{1-(V/C)^2}

L/Cは宇宙船内でのAさんの観測値tなので

T = t/√{1-(V/C)^2}

VがCに比較して極端に小さい(我々の日常世界では)T = t とみなしてよい。しかし Vが光速に近づくと話が違ってくる。 V=0.8 Cぐらいになると、T = t/0.6となってAさんの時計がだいぶ遅れて見える。しかし、宇宙船のAさんから見ると自分が静止しておりBさんが光速で飛んでいるように見えるので、Bさんの方の時計が遅れているように見える。こんなややこしい事が起こるのはアインシュタインの”非常識な”「光速不変の原理」を前提にしたためである。

 

           

                    フランクフルト空港のアインシュタインと握手

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時間についての考察: 飛行機に乗ると時間が進んだり遅れたりする?

2019年03月02日 | 時間学

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 1971年ジェット旅客機に原子時計を乗せて飛ばし、地球を一周させる実験がワシントン大学のハーフィルとアメリカ海軍天文台のキーティングによって実行された。その結果、地上に置かれた原子時計と比較すると、飛行機で東回りのものは時計が数十ナノ秒遅れ、西廻りのものは二百数十ナノ秒ほど進んだ。

  これは物理的時間の進行が運動の容態によって違うという事を示している。特殊相対性理論では運動系の時計は静止系の時計よりも遅れる事になっている。地上の人が、高速で飛んでいる飛行機の時計を見ると手元の時計より遅れている。一方、飛行機の人から見ると自分が静止し、地球が動いているように見えるので、そばの時計と比較して地上の時計が遅れているように見える。時間の遅れはお互い様で、地上に帰ってきた時には、時計の指す時刻に違いはないはずだ。それではどうして違いが出たのか?

 実はこれは一般相対性理論の問題で、飛行機が加速あるいは減速するときかかる加速度が時間に影響を与えたために生じた現象である。人工衛星に積み込まれたGPSのシステムでは、地上に対して高速で動いていることによる特殊相対性理論による補正(7µsec)と重力による影響の一般相対性理論からの補正(進み45µsec)を行い、正確な位置情報を知らせている。地表に近い程重力が大きく時間の進み方が遅い。

 このように運動によって支配される物理的時間の問題は、人間の脳で生じる時間感覚とも思念とも独立して現れる。このことからしても時間はヒトとは独立した実存であると言える。

参考図書

表 実 『時間の謎をさぐる』岩波書店、 1996

都筑卓司 『時間の不思議;タイムマシンからホーキングまで』講談社ブルーバック8873、 1993

別冊日経サイエンス 2021 (No247:p79).

 

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時間についての考察: 宇宙と時間の始まり

2019年03月02日 | 時間学

 

 フレッド・ホイルなどが唱えた定常宇宙論は否定され、宇宙には始まりがあり、その年齢は約138億年と言われている。そうすれば宇宙の誕生以来の歴史に沿って宇宙的な時間が流れているはずであり、哲学者が身の回りの事からコセコセと思案した主観的な「時間」なんぞ必要ないではないかと思えてくる。宇宙がある法則にしたがって生成、進化、変転する容態こそが時間の流れと考えられる。まず宇宙と時間の始まりから考えて行こう。

 現在の宇宙はエネルギーを生成したり消滅させたりするダイナミックな真空から生じたという仮説がある。イギリスのホーキングやペンローズによる「無境界仮説」によると宇宙はある時、はずみで「ポン」と生まれたとされている。それが生まれた途中で流れる時間(相転移に要した)が虚数時間であるとする。世界は実数でできているはずなので虚数時間など冗談ではないかと思うが、物理学者は数学的に整合性があれば虚数を使うのをいとわなかった。電磁気学の波動関数などには昔から複素関数を持ちいてきた。我々の宇宙になってから実時間となり10-44秒(プランク時間という)で、ある大きさ (10-33cm)の宇宙ができた。重力はその頃形成された。そこから爆発的なインフレーション膨張が10-36秒ほど続き、強い力が分かれた。

  さらに、その後ビッグバン膨張が起こった。10-10秒に電磁力と弱い力が分かれた。そして38万年後に宇宙の晴れ上がりが起こった。  宇宙は1億光年の大きさとなり、陽子と電子が結合して水素原子ができた。さらに2億年後、最初の天体ができ、30億年後には銀河系ができ、90億年後には太陽と地球が形成され、それから48億年が経つ。どれも計算上の数値であるが、ビッグバンが起こった証拠は、宇宙膨張の発見、宇宙マイクロ放射の発見、He、重水素の存在比などがあり、単なる仮説を抜け出して「真実」に近づきつつある。インフレーション宇宙モデルは佐藤勝彦東大名誉教授とアラン・グースが最初に提案したものであるが、CMB (宇宙背景放射)に現れる温度揺らぎの観察などにより証明されつつある。

  量子論の世界では時間とエネルギーの間に不確定性原理が成立しており、それぞれの存在領域をΔt、ΔEとするとΔt x ΔE ≒(\approx) h/2π が成り立つ。hはプランク定数(h=6.6260755×10-34J・s)である。これからΔE ≒ h/(Δt・2π)となる。Δtが0に近いと、巨大なエネルギー領域が生成する。エネルギー保存の法則に反しているが、0に近い短い時間であれば、エネルギーの渦巻く真空世界からはずみで巨大なエネルギーが取り出せるという理屈である。  

  さらにΔt ≒ h/(ΔE・2π)となる。時間は実体のあるプランク定数と実存としてのエネルギーの関わるものとしてあるので、物理的実存である。創生された時間が後の宇宙の膨張に付随する時間とどう関わるかはよく分からないが、たとえ一瞬であつても時間が実存してこの世にあったということは重要である。すべての時間はヒトの脳が生み出した主観的時間に属するという多くの哲学者の仮説に抵触するからである。

 

参考図書

郡 和範『宇宙はどのような時空でできているのか』ベレ出版 2016

真貝寿明 『現代物理学が描く宇宙論』共立出版 2018

都筑卓司 『時間の不思議;タイムマシンからホーキングまで』講談社ブルーバック8873 1993

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時間についての考察: ゼノンのパラドックス

2019年02月26日 | 時間学

 

  ゼノンは古代ギリシアの自然哲学者で南イタリアのエレアの人である。「ゼノンのパラドックス」は時間、空間、運動を考察するためにアリストテレス以来、多くの哲学者が取り上げてきた。それを紹介し、対する庵主の「反論」を示した。ゼノンのパラドックスは幾つかのバリエーションがあるが、次の4つに分けられる。読みやすいように著者が整理・編集している。いずれも、無限分割についての矛盾をどのように解決するか問題だが、純粋にロジックで反論できることをしめす。なお、ゼノンのパラドックスはこれ以外に「競技場」のものがあるが、昔から何がパラドックスかよくわからないとされているので割愛した。

 (I) 中点分割の前進型

 (II) 中点分割の後進型

(III)飛ぶ矢の静止型

 (IV) アキレスと亀の競走型

 

(I) 中点分割の前進型詭弁とそれに対する反論

いまA点からB点に矢が放たれたとしよう。矢はB点の半分の点にまで到着したとしても、更に残りの半分の半分にも到着しなければならない。更にその残りの半分の半分の半分にも到着しなければならない。このようにして、矢はB点にまでに存在する無数の中間点を通過しなければならず無限の時間を要することになる。すなわち矢は永遠にB点には到着しない

 中間点は頭で考えると無限にあり、関所で通行税を払うように通過する中点ごとに時間をかければ、無限大の時間が必要となる。しかし点を通過するに要する時間は0なので、トータルでも0である(∞ x 0 = 0)。必要なのは点と点の間の距離を移動する時間の和である。間隔も分割すれば無限にあるではないかと言われかもしれないが、トータル時間は無限等比級数の和となり、有限値に落ち着く(ただし、これは数学的な便法としてそのように定義しただけで、ゼノンのパラドックスの解決にはなっていない)。多くの解説書ではこのように説明しているが、パラドックスの反論としては、ロジックがないので、はなはだおもしろくない。そこで論破のロジックをいろいろ考えてみた。

  最初の中点分割のパラドックスは次のように簡単に論破できる。ゼノンは中点が無数に存在するので、B点に到達しないのではないかと言う。しかし、この矢は半分の中間点(M点)に飛んで来るまでにも、無数の中間点という同様のジレンマ(困難)に出会ったはずである。それを乗り越えて半分以上飛んだとしている。どのようにして、このジレンマを克服したのかは分からないが、後半でもそのジレンマが同様に乗りこえられないとする理由は何も考えられない(前半と後半の空間は等価)。すなわち、ゼノンが心配しないでも矢は地点Bに無事に到達できる。

  (II) 中点分割の後進型詭弁とそれに対する反論

上と同様にA点からB点に矢が放たれたとする。AB間の半分の点まで到着するには、その前の半分の半分に着いていなければならない。更にその前の半分の半分の半分にも同様に着いていなければならない。このようにして、矢は限りなく越さなければならない無数の中間点があり、矢は全く進み得ない

 ゼノンはうかつにも矢を飛ばしたために、前の詭弁ではあっさりと論破された。そこで今度は飛ばさない問題を考えた。ある時間で状態αのものが、全く同じ時間で別の状態βになって仕舞う矛盾はその中間の論理が間違っているからである。そもそも因果律が逆転しており、矢はジレンマに出会って動かなくなるはずなのに、ここではそれに出くわす前に予想意思があるかのごとく、最初からA点で動かない。これは次のように論破する。

 ゼノンの説によると、矢は飛ぶことによって「無限中点」の困難に遭遇して飛べなくなるという事になる。もし、まったく飛ばないのであれば、ゼノンの前提とした無限中点との遭遇はそもそもおこらない。命題における論理を組み立てた条件そのものに、結論が抵触している。それ故に、この命題の結論は偽である。矢は飛ぶか飛ばないかの2択であるので、「矢は飛ぶ」が正しいことになる。

 (III)飛ぶ矢は静止している詭弁とそれに対する反論

どんな物もある瞬間に一つの場所を閉める場合は、静止している。矢は飛んでいる間のどの時間においても、ある一つの場所を占める。ゆえに矢は飛んでいる間のどの時間においても静止している。飛んでいる間の時間は、そのあいだの瞬間から成立している。ゆえに、矢は飛んでいるあいだじゅう静止している

 今度は矢を静止させて難問を吹きかけてきた。確かに超高速度カメラで飛ぶ矢の映像を撮り、普通のコマ送り (1秒24コマ)で映写すると、矢は空中で静止しているように見える。静止した矢と飛んでいる矢の印刷写真は全く区別できないが(厳密には少しブレている)、後者は運動量を持っているところが違う。写真には矢の運度量は映らない。画像的な存在比較だけしていると、ゼノンの陥穽におちいってしまう。これは次のように時間をずらす思考実験をしてみると誤りがすぐわかる。

 ある時間(瞬間)に矢の存在した場所をAとする。1秒後に矢が存在する場所をBとする。もしBがAと同じなら、すなわちA = Bなら、これはゼノンの結論と一致するが、矢は飛んで移動しているという前提には反している。一方、A ≠ Bならゼノンの結論と相違するが、矢は飛んでいるという前提とは抵触しない。どちらが正しいのだろうか? 結論は前提をもとに導き出されたはずなので、論理学の世界では前提をアプリオリーに正として優先しなければならない。すなわち、A ≠ Bが正しい。矢はいつも静止しているという結論は間違いである。

 ゴタゴタ理屈をつけないでも、経験法則でA ≠ Bに決まっているが、最初の命題に矛盾があり、このような思考実験で簡単にわかる。ただその矛盾の構造を説明しようとすると、これも難しい。このパラドックスに対してアリストテレスは「時間は瞬間の集まりからなるのではない」と主張した。瞬間をいくら集めても持続的な時間は生まれないとして批判した。もっとも、これで批判になっているのだろうか?

  (IV) アキレスと亀の競走詭弁とそれに対する反論

アキレスと亀が徒競走をすることとなった。アキレス(速度Sa)の方が足が速いのは明らかなので、亀(速度St)がハンディキャップ(Lメートル)をもらい、いくらか進んだ地点(地点Aとする)からスタートすることした。スタート後、アキレスが地点Aに達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる(地点B)。アキレスが今度は地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先へ進む(地点C)。同様にアキレスが地点Cの時には、亀はさらにその先にいることになる。以下同様にアキレスは、いつまでたっても亀に追いつけない

アキレスと亀のパラドクックスもよく出てくる有名な話だが、これも考え始めると意外と難しい。

 アキレスが亀に追いつくのに必要とする時間 T = L/(SaーSt)

これは小学3年程度の算数。

 次にゼノンが上で述べたシーケンスで計算していく。

アキレスが A地点に到達するに要した時間Taは

Ta = L/Sa

その間亀の進んだ距離

Lb = Ta x St = (L/Sa) x St

アキレスが地点Bに到達するに要した時間Tb

Tb = Lb/Sa = L/(Sa)^2 x St

その間に亀が進んだ距離

Lc = Tb x St = L/(Sa) ^2 x St 2

アキレスが地点Cに到達するに要した時間Tc

Tc = Lc/Sa = L/(sa)^3 x St2

………….以下同様にこれの繰り返しで、アキレスが亀に追いつくまでのトータルの必要時間Tは、

T = Ta + Tb + Tc + Td  ………+ Tn= L/Sa (1 + St/Sa + (St/Sa)^2  + (St/Sa)^3 + ……(St/Sa)^n) = L/Sa x (1 + K + K^2 + k^3 +………K^n)=L/Sa X {1-k^n/(1-k)}       ここで K = St/Sa

このあたりは高校程度の等比級数の和の計算。

 nが無限大の時はT = L/(Sa-St)となり最初の小学生の計算結果と同じになる(ただし、前に述べたようにこれは数学上の都合でそのようにしているだけ)。

ということは、アキレスと亀の話の途中までは、まじめで正当なことを言っていることになる。おかしいのは最後のアキレスが亀に追いつけないと言ったことであるが、これを正攻法で反論するのは、なかなか面倒なので、ここでは奇手を使う。

  アインシュタインの相対性原理では、どの慣性系でも物理法則は同じとされている。そこでアキレスと亀が両方とも動く歩道に乗っていると考える。動く歩道はランナーの走る方向とは反対に亀の速度で動くとする。歩道のそばの観察者にとって、同じ空間に静止する亀にアキレスが近づく形になる。アキレスの速度は少し減るが、亀はいつまでも停止しているので、静止した目標に矢を飛ばしたのと同じ話になる。すなわちアキレスは亀に追いつくことができる。

 

まとめ 

 このように論をすすめてみると、ゼノンのパラドックス1~4は反論を予想して、順序正しく並べられていることがわかる。ゼノンの問題を空間・時間論からもういちど考察し直してみたい。

 線分ABの点Aから点Bまでをn個の点で均等に分割する。矢が飛ぶに要する時間Tとする。

T =n x Δt + (n+1) x ΔTn、 Δtは点を矢が経過する時間、ΔTnは各区間を経過する時間とする。

点は長さのないものと定義されているのでΔt = 0である。一方、ΔTn = (k x l)/(n + 1) ここでKは常数(速度の逆数)でlは線分ABの長さ。よって T = k x lとなる。

 数学的には、途中で線分上にいくつ点をとろうと、パラドックスの入り込む余地はなさそうである。もっとも、ゼノンはこのような算数計算を理解できないと、うそぶくであろうから、本論で述べたような詭弁にたいするレトリックルによる反論が必要なのである。

 ゼノンの中点分割でも均等分割でも原理的には同じ理屈であるが、中点分割法では計算がかなり複雑になる。

飛ぶ矢の問題でA点からB点までの移動に要する時間は、矢の秒速を5mとすると、距離を速度で割って10/5=2秒となる。今、すべての中点を経る時間の総和を計算するとT=Σ(1+(1/2) + (1/2)^2 + (1/2)^3+ ……+ (1/2)^n) n=無限大の時はT=2と勝手に定義している。しかし、これを計算機で実際計算させると、例えスーパコンピューターであろうと、人(プログラム)がn値(整数)を増やしていく限り、いつまでも計算は終わらず、途中の答えは1.9999999999……と小数点以下の9が延々と続き、決して2にはならない。限りなく2に近いが2ではない数が続く。ゼノンは「ずぼらな繰り上げ計算はやめて、ちゃんと最後まで計算してくれよ」と主張しているのである。すなわちゼノンのパラドックスを現代風にアレンジすると、理論計算とコンピュター計算との違いを指摘したようなものだ。

 このジレンマから抜け出すためには、理論計算を擁護する理屈を考えるのではなく、根本的な仮説導入が必要と思われる。ゼノンのパラドックスの根本には、空間の無限分割可能の思想がある。そこで、多くの物理学者が指摘したように、空間そのものに条件を付けねばならない事になる。頭の中では空間は無限に分割できるが、素粒子やクオークよりさらに桁違いに小さな無限小に近い空間(距離)。そんなものは本当にあるのだろうか?

物理学の素粒子論や量子論によると空間や時間を連続的な量とすると、無限大の困難が常に付きまとう。そこで量子論ではエネルギーや電荷や角運動量がとびとびであるように、空間や時間もとびとびと考えるようになってきた。湯川秀樹博士が非局所場の理論を進めていた頃は、長さの最小単位は10-13(マイナス13乗以下同様)cm(これを1フェルミあるいは1ユカワという)。時間の最小単位は、この長さを光がよぎるのに必要な10-24 秒くらいと考えられていた。さらに統一場の理論などが出て、宇宙の最小の長さは10-33cmで最小の時間は10-44 秒であると言われる。

空間や時間に、これ以上分割できないディジタルな最小単位ΔLを考えると、ゼノンのパラドククスにも気楽に付き合うことができる。空間の距離はすべからくΔL x N(整数)で、きっちりとした10メートルなどは頭で考えた数値で、実際は存在しないのである。さらに時間の最小単位はΔLを光速Cで割ったΔL/Cとなる。ゼノンの矢の先端は最小空間(距離)の端から端をジャンプして移動するのである。最小空間が滑らかにつながっているのか、ギクシャクとつながっているのかわからないが、ともかくそれ以上、分割できないから、めんどくさい無限中点など考えなくても良い。ジャンプしている間の状態はどうなっているかと聞かれると困るが、量子世界ではおそらく確率波になって伝わるのではないかと勝手に考える 。朝永振一郎先生が量子力学の不思議な世界を描いた『光子の裁判』というエッセイがある。量子の一つである光子が、ある点から別の点まで移動したとき。途中の「経路」が存在するかいなかをテーマにしている。マクロな矢の先端も究極はミクロの粒子でできている。

蛇足ながら申し添えると、ミクロな世界では量子論が必要になってくる。量子力学では不確定性原理に基づく方程式がある。それは ΔX (長さ)x ΔP(運動量)= h (プランク定数)で、 ΔXが無限小になると運動量が無限大になり、運動量が無限小になると長さが無限大になる。それゆえ、そのどちらも0にはなれない。これからも飛んでいる矢がある点(瞬間)で静止(運動量0)する事はないと言える。

 ゼノンには空間・時間構造がこのようになっていることを説明し、矢はトビトビに線分上を有限回飛んで、無事に目標に到達あるは飛び越えると伝えればよい。これをゼノンが信じるか信じないかは問題外である。ゼノンも、人々が信じ難いことを2500年以上も宣え続けてきたのだ。

 

 参考図書

ジョセフ・メイザー 『ゼノンのパラドックスの謎』松浦俊輔訳 白楊舎 (2009)

 

追記

2019/04/20

榛葉豊『頭の中は最強の実験室』化学同人 2012

この本では「無限」の定義を二つに分けている。一つは実無限でもう一つは可能無限である。実無限は最小単位としての点で、これが無限個集合して線を形成すると考える。可能無限は操作(人の思考操作)によって生ずるものである。さらに微分・積分は実無限の概念であるとしている。ただ無限の和が有限になるというのは積分での勝手(便宜的)な「定義」で、ゼノンのパラドックスの解決にはなっていない。

2019/04/23 

運動とは物が一点に止まっていないことであると定義すれば、もともとゼノンのパラドックスは成り立たない。それが線や点にこだわって論理を展開するので、矛盾が生ずることにハタと気がついた。そもそもゼノンのパラドックスに出てくる、「矢」、「点」、「線」、「中点」、「飛ぶ(運動)」などに、何の定義もなされておらず、読者がそれぞれ勝手な概念で論じようとするから、陥穽におちいるのである。

2019/07/15 

九鬼周造の「時間ノ問題ーベルグソンとハイデッカー」に次のような記述がある。 『運動は一点より他点への経過である。前進である。飛躍である。運動を分割することはできない。分割し得るものは経過した空間である。相継ぐ位置である。運動を静止した位置の系列に願訳することは運動に静止を命ずることである。運動以外のものとなることを命ずるのである。ツェノンの逆説は運動と運動者の経過した空間との混同に基いている。「経過する運動」と「運動の経過した位置」とは仝然異ったものである』と。

2019/12/20 
光の二つの性質(波動性と粒子性)を統一する理論がアインシュタインの1905論文の一つである。時間の連続性と不連続性の矛盾を統一する仮説(思考実験)が必要とされている。
 
2020/08/13
0.9999999....は定義として1ではなく数学的な論理といして1であるとする考えもある。ウイキペディ(https://ja.wikipedia.org/wiki/0.999...)を参照されたい。
 
2020/01/08
カントは先天的であるものは真実であると述べた。ヒトには先天的に時間、点、線の概念が備わっているのだろうか? 動物行動学者のコンラート・ローレンツは、それに関してヒトにも進化論的認識があると述べている。
カール・ポパー、コンラート・ローレンツ 『未来は開かれている』辻 瑆訳 思索社 
 
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時間についての考察: 時間は実存するか?

2019年02月24日 | 時間学

 

 

 

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」は、鴨長明が著した『方丈記』の有名な出だしの一節である。時間が、我々の存在とは独立にこの世界に実存し、河の流れのように森羅万象を押し流していくのだと素朴に考えてしまう。約1600年前に哲学者アウグスチヌスは「時間についてそれはなんだと問われなければ私にはわかっている。しかし、だれかに問われて説明しようとするとなんだかわからない」と述べている。かなり厄介なしろものである。

 光や温度については、眼や皮膚の温度感知細胞のような感覚受容器を我々は身体に持っている。しかし、時間については、直接これを捉える感覚器のようなものは存在しない。力学や物理学では、時間は光や温度とともに基本的なパラメターとして登場するのにどうして、その受容器をヒト(生物)は持たないのか?これは不思議な話だが、ともかく我々は時間受容器を持たない。それ故に、物や事の変化を観察して、それを基準に時間を措定している。腹時計という一種の体内時計があるが、これも体の代謝的な変化を測定している。

  物は実存である事は間違いはない。目の前のパソコンは幻ではなく確かに存在する。文字を入力すれば、画面が変化するので、変化もまた実存と考える。変化に付随するある”性質”を時間とすれば、これも実存ではないかと思いたい。ところが、理屈っぽい人がいて、我々が感じているのは瞬間だけで、それを脳が映写機のように連続的に重ね合わせて時間感覚を生成するのだと主張した。すなわち時間は実存ではなく、脳が生み出す特殊な幻影だという。

  しかし単純にはそう言えない。水が一定方向に流れるのを人が見て、川の「時間」が生み出されるというが、見ていようと見ていまいと水は流れ、川の様相はどんどん変わっていく。それに物の変化は無数にあって、それぞれ個別に人が観念としての時間を付与できるわけがない。時間は万物に共有されるべきもので、そうであるからこそ、人と関わりないところで物と物、事と事の関係が四六時中、世界に存在するのであろう。

  歴史的に哲学者の間でも時間に関する概念は分かれていたようである。G.W. ライプニッツ(1646-1716)は、時間はそれ独自で実存するものではなく出来事に還元されるものであると主張した。一方、I.カント(1724-1804)は、『純粋理性批判』において時間それ自体が独立の存在であるとした。えらい哲学者の間でも考えが違うのだから、我々凡俗が時間のことを考察すること自体が「時間の無駄」かもしれない。しかし凡人は凡人なりにあれこれ考えて行くことにしよう。

 最後に外国のミステリー小説に出ていた時間に関する最高のジョークを一つ紹介する。

  旅行中のロシア人がロンドンの街角で一人のイギリス人に次のようにたずねた。

    ”What is a time?”  

  そうすると、そのイギリス人は答えた。

    ”Dont' ask such a difficult question.”

 

  参考図書

 池田清彦 『科学は錯覚である』洋泉社 (1996)

入不二基義 『時間は実存するか』講談社現代新書 1638 (2002)

中島義道 『カントの時間論』 岩波書店 2001

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