心と体を通して見えてきたもの

個人的な生まれ変わりの体験談。心とは?カルマとは?人間の本質や使命とは?
といったことを考えてます。

第3章 光とともに ナンバー2247 真我についてマイトレーヤが語る

2024-09-26 20:59:30 | Weblog
ナンバー2247   2024.09.26  真我についてマイトレーヤが語る

ベンジャミン・クレーム氏の『マイトレーヤの使命 第二巻』の続きです。『マイトレーヤは自己尊敬、認識、無執着の重要性を強調する。「自己尊敬は認識の種子である」と言われる。「無執着なしに救済はない。」』
『「真我のみが重要である」とマイトレーヤは教えられる。あなたはその真我であり、「不滅の霊存在」である。苦しみは真我でないものと、自分を同一認することによって生じる。自分自身に問いなさい。「私は誰か」と。そうすれば物質(肉体)、あるいは思考(心―マインド)、あるいはパワー(生気)と自分を同一認している自分に気付くだろう。しかしあなたはその何れでもない。「心(マインド)と生気(スピリット)と肉体」は主の宮殿である。真我はこれらの中に「至高の存在と生成」を体験する。サンスクリット語では、生気(スピリット)とは、ジヴァ・シャクティ(シャクティ・パワー)であり、それはエネルギーである。心(マインド)は、“ブラーマ”であり、それは想念形態である。肉体は“プラクリティ”であり、それは物質的資質であり、また物質的活動としても考えることができる。これらの用語は客観的実体として考えられているが、それは動きとか過程としても考えられる。真我のさだめは自由になることである。その自由の面、その実在の面から考慮されるとき、それは“アートマン”と呼ばれる。時間と空間の制約のなかで、つまりその生成の面から考慮されるとき、それは魂とか“ジーヴァ”と呼ばれる。真我(the Self)はエネルギー(シヴァ・シャクティ、スピリット)ではない。真我は想念形成(ブラーマとかマインド)ではない。真我は物質的活動(プラクリティ、肉体)ではない。真我のさだめはこれらの主の宮殿に自由に入ったり出たりすることである。』
物質的活動をする肉体とそれによって変化する感情と思考、これらは私たち自身ではありません。
私たち自身がこれらをつくり出し、これらの中に入ったり出たりして転生を繰り返している霊的存在です。
輪廻転生の思想は、はるか古代には世界中にあり、その起源は古代エジプトのようです。
キリスト教の聖書にも、生まれ変わりとして書かれていたのですが、キリスト教会の上層部によって、彼らにとって都合の悪い転生の教えのほとんどが聖書から削除されたという歴史があります。
ナンバー2248  2024.09.30 に続くでしょう
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