今回は、2010.6.1~3までに出かけた直島諸島の投稿をします。では、いつものように、その島々のことを書いてみます。
直島 高松市の北13km、岡山県玉野市の南3kmの海上にある。保元の乱に敗れ、讃岐配流の途中に立ち寄った崇徳上皇が住民の素朴さを賞し、直島と定めたと伝えられている。島の北部には、東洋一の金生産量を誇る三菱マテリアル直島製錬所と関連企業、中央部には幼・保一元化や幼・小・中一貫教育と建築美を誇る文教地区、南部には現代美術と出会えるホテルのベネッセハウスや直島国際キャンプ場などがあり、自然と産業と文化の調和がすばらしい島である。また、全国で15番目(島では初めて)のエコタウンの承認を受け、環境型社会の先進地を目指した島づくりを進めている。
向島(むかえじま) 直島港の向い側、150mの海上にあり、直島諸島の中でもっとも直島に近い。先土器時代から弥生時代にかけての遺物が発見され、製塩遺跡や竪穴古墳もある。寛文12年(1672)に7戸29人という記録が残っている。産業は農業、漁業が中心だが、どちらも零細で、ほとんどの住民が直島へ通勤して生計を立てている。
家島 明治4年に塩田が造成されたことで開かれた島。直島港の北1.5kmの海上にある。師楽式製塩遺跡があり、古代には製塩が盛んであったことがうかがえる。昭和30年代には人口30人を数えたが、塩田の廃止で減少、近年までご高齢のご夫婦2世帯住んでいたが、現在は島を離れている。
屏風島 直島港の北4.9kmの海上にある。「屏風七浦」と呼ばれる群島の一つ。岡山県玉野市から海底送水を受けるなど、地理的には岡山県に近接する。明治初年に塩田が開かれた。大正末期には10戸50人を数えている。昭和8年に、東対岸の喜兵衛島との間に築堤され、喜兵衛島養殖場が設立された。産業は漁業が中心で、近年とくにハマチ・ノリ養殖による多角経営化を進めている。
喜兵衛島 直島・獅子渡ノ鼻の北東約2.3kmにある花崗岩の無人島。面積0.17km2・標高45m。瀬戸内海国立公園に含まれる。屏風七島の一つで、古くは几帳島と書いた。島名は鈴木喜兵衛という武士が布陣後この島に居住したことにちなむという。すぐ西にある屏風島との間に細切れの防波堤が組まれ、魚の養殖が営まれている。戦後まもなく100人以上の住民が暮らしていた。島の東側では採石も行われていた。昭和29年から続けられた岡山大学の調査によって、16基の横穴式古墳群が発見され、また南東と北西の浜の2カ所に大規模な製塩遺跡があることが明らかになり、古代製塩業の実態解明に大きな影響を与えた。昭和54年に国の史跡指定を受けている。
牛ケ首島 直島港の北5.8kmの海上にある。岡山県玉野市との間は約1kmともっとも岡山県に近く、経済的にも玉野市の影響が大きい。横穴式古墳などが数基ある。明治9年に塩田が造成されるまでは無人島だった。戦後は直島製錬所の物資を運ぶ、海運業が盛んだったこともある。人口は減少の一途をたどり、近年まで老人世帯2世帯が農業と漁業を営んでいたが、現在は島を離れている。直島と備前胸上の海峡で争いがあり、直島高原勢が牛頭大王神の幟を船の舳先に立て、備前勢と戦ったことから「牛が首」と呼ぶようになったという。
豊島(てしま) 瀬戸内海の東部、小豆島の西3.7kmの海上にある。中央部にそびえる壇山(340m)が最高点で海岸沿いと丘陵地に6がつくられている。豊島石の加工技術を基盤とした石材加工業が盛んで、また、農・水産物の供給地としても重要な地位を占めている。わが国福祉界の草分け的存在である賀川豊彦が力を入れた福祉施設として乳児院、特別養護老人ホーム、精神薄弱者更生施設があり、「福祉の島」と呼ばれるゆえんとなっている。古来から稲作が盛んで豊かなことから豊島と名付けられた。昭和50年代後半から不法投棄された全国最大級の産業廃棄物問題が全国的な注目を集めていたが、平成21年に県と住民の間の公害調停が最終合意に達し、これをバネに新しい島づくりが動き出している。
小豊島(おでしま) 瀬戸内海東部小豆島の西1.6kmの海上にある。島の最高峰・水門ノ尾の北西部に集落がある。3~400年前に石工が定住をはじめ、のちに農漁業が営まれるようになった。温暖寡雨の瀬戸内海気候に属し、産業は畜産業(肉用牛)が中心で、他に漁業が営まれている。現在の島々の中では、畜産で生計を立てる島は珍しい。
寺島 直島北端の製錬所のすぐ北側にある無人島。面積0.23km2・標高84m。瀬戸内海国立公園に含まれる。北側を除いて、風戸の湾に包まれるように位置している。古くから採石場として利用され、島内には樹木をほとんど見ることができない。また、犬石・唐船石などとして知られる石が多い。直島との間にある寺島水道は常に潮流が東から西への片潮で、「汐通し」と呼ばれていた。戦後まもなくまで10人以上の住民が暮らしていた。
尾高島 直島の南約0.2kmにある花崗岩の無人島。面積0.03km2・標高21m。瀬戸内海国立公園に含まれる。崇徳上皇が鷹狩りをしたことからこの名がつけられ、尾鷹島とも記される。ウバメガシ・クロマツ・ツツジ・ヤマモモ・オオバヤシャブシ・カシなどに覆われている。北側に小さな波止場があり、チヌ(クロダイ)・メバル・アイナメなどの釣り場として知られている。
出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から
直島 高松市の北13km、岡山県玉野市の南3kmの海上にある。保元の乱に敗れ、讃岐配流の途中に立ち寄った崇徳上皇が住民の素朴さを賞し、直島と定めたと伝えられている。島の北部には、東洋一の金生産量を誇る三菱マテリアル直島製錬所と関連企業、中央部には幼・保一元化や幼・小・中一貫教育と建築美を誇る文教地区、南部には現代美術と出会えるホテルのベネッセハウスや直島国際キャンプ場などがあり、自然と産業と文化の調和がすばらしい島である。また、全国で15番目(島では初めて)のエコタウンの承認を受け、環境型社会の先進地を目指した島づくりを進めている。
向島(むかえじま) 直島港の向い側、150mの海上にあり、直島諸島の中でもっとも直島に近い。先土器時代から弥生時代にかけての遺物が発見され、製塩遺跡や竪穴古墳もある。寛文12年(1672)に7戸29人という記録が残っている。産業は農業、漁業が中心だが、どちらも零細で、ほとんどの住民が直島へ通勤して生計を立てている。
家島 明治4年に塩田が造成されたことで開かれた島。直島港の北1.5kmの海上にある。師楽式製塩遺跡があり、古代には製塩が盛んであったことがうかがえる。昭和30年代には人口30人を数えたが、塩田の廃止で減少、近年までご高齢のご夫婦2世帯住んでいたが、現在は島を離れている。
屏風島 直島港の北4.9kmの海上にある。「屏風七浦」と呼ばれる群島の一つ。岡山県玉野市から海底送水を受けるなど、地理的には岡山県に近接する。明治初年に塩田が開かれた。大正末期には10戸50人を数えている。昭和8年に、東対岸の喜兵衛島との間に築堤され、喜兵衛島養殖場が設立された。産業は漁業が中心で、近年とくにハマチ・ノリ養殖による多角経営化を進めている。
喜兵衛島 直島・獅子渡ノ鼻の北東約2.3kmにある花崗岩の無人島。面積0.17km2・標高45m。瀬戸内海国立公園に含まれる。屏風七島の一つで、古くは几帳島と書いた。島名は鈴木喜兵衛という武士が布陣後この島に居住したことにちなむという。すぐ西にある屏風島との間に細切れの防波堤が組まれ、魚の養殖が営まれている。戦後まもなく100人以上の住民が暮らしていた。島の東側では採石も行われていた。昭和29年から続けられた岡山大学の調査によって、16基の横穴式古墳群が発見され、また南東と北西の浜の2カ所に大規模な製塩遺跡があることが明らかになり、古代製塩業の実態解明に大きな影響を与えた。昭和54年に国の史跡指定を受けている。
牛ケ首島 直島港の北5.8kmの海上にある。岡山県玉野市との間は約1kmともっとも岡山県に近く、経済的にも玉野市の影響が大きい。横穴式古墳などが数基ある。明治9年に塩田が造成されるまでは無人島だった。戦後は直島製錬所の物資を運ぶ、海運業が盛んだったこともある。人口は減少の一途をたどり、近年まで老人世帯2世帯が農業と漁業を営んでいたが、現在は島を離れている。直島と備前胸上の海峡で争いがあり、直島高原勢が牛頭大王神の幟を船の舳先に立て、備前勢と戦ったことから「牛が首」と呼ぶようになったという。
豊島(てしま) 瀬戸内海の東部、小豆島の西3.7kmの海上にある。中央部にそびえる壇山(340m)が最高点で海岸沿いと丘陵地に6がつくられている。豊島石の加工技術を基盤とした石材加工業が盛んで、また、農・水産物の供給地としても重要な地位を占めている。わが国福祉界の草分け的存在である賀川豊彦が力を入れた福祉施設として乳児院、特別養護老人ホーム、精神薄弱者更生施設があり、「福祉の島」と呼ばれるゆえんとなっている。古来から稲作が盛んで豊かなことから豊島と名付けられた。昭和50年代後半から不法投棄された全国最大級の産業廃棄物問題が全国的な注目を集めていたが、平成21年に県と住民の間の公害調停が最終合意に達し、これをバネに新しい島づくりが動き出している。
小豊島(おでしま) 瀬戸内海東部小豆島の西1.6kmの海上にある。島の最高峰・水門ノ尾の北西部に集落がある。3~400年前に石工が定住をはじめ、のちに農漁業が営まれるようになった。温暖寡雨の瀬戸内海気候に属し、産業は畜産業(肉用牛)が中心で、他に漁業が営まれている。現在の島々の中では、畜産で生計を立てる島は珍しい。
寺島 直島北端の製錬所のすぐ北側にある無人島。面積0.23km2・標高84m。瀬戸内海国立公園に含まれる。北側を除いて、風戸の湾に包まれるように位置している。古くから採石場として利用され、島内には樹木をほとんど見ることができない。また、犬石・唐船石などとして知られる石が多い。直島との間にある寺島水道は常に潮流が東から西への片潮で、「汐通し」と呼ばれていた。戦後まもなくまで10人以上の住民が暮らしていた。
尾高島 直島の南約0.2kmにある花崗岩の無人島。面積0.03km2・標高21m。瀬戸内海国立公園に含まれる。崇徳上皇が鷹狩りをしたことからこの名がつけられ、尾鷹島とも記される。ウバメガシ・クロマツ・ツツジ・ヤマモモ・オオバヤシャブシ・カシなどに覆われている。北側に小さな波止場があり、チヌ(クロダイ)・メバル・アイナメなどの釣り場として知られている。
出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から
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