振り返ると大多府燈籠堂が大きく見えました。

(大多府燈籠堂)
自然研究路を進んで行きましたが、道がよく分からなくなりました。時間的なこともあり、戻り途中から集落の方へ向かうことにして、来た道を戻りました。しかし、中々、集落への道がわからず、大分戻って、やっと、下る道がわかりました。下の方に集落が見えて、ホッとしました。

(下の方に集落が)
戻ってきて、狭い道を歩いていきました。

(狭い道を)
鉄筋2階建ての建物がありました。なんの建物でしょうか。その横に火の見櫓のようなものもありました。

(鉄筋2階建ての建物)
港の近くに戻ってくると消防団の倉庫がありました。

(消防団の倉庫)
チャーター船を予約していて、待っていると「元禄防波堤」が見えました。この防波堤は、元禄年間、岡山藩主池田綱政の命で津田永忠が閑谷学校の石塀の技術をもって造ったもので、諸藩の参勤交代の寄港地として賑わったようです。

(元禄防波堤)
(写真撮影:2013.07)

(大多府燈籠堂)
自然研究路を進んで行きましたが、道がよく分からなくなりました。時間的なこともあり、戻り途中から集落の方へ向かうことにして、来た道を戻りました。しかし、中々、集落への道がわからず、大分戻って、やっと、下る道がわかりました。下の方に集落が見えて、ホッとしました。

(下の方に集落が)
戻ってきて、狭い道を歩いていきました。

(狭い道を)
鉄筋2階建ての建物がありました。なんの建物でしょうか。その横に火の見櫓のようなものもありました。

(鉄筋2階建ての建物)
港の近くに戻ってくると消防団の倉庫がありました。

(消防団の倉庫)
チャーター船を予約していて、待っていると「元禄防波堤」が見えました。この防波堤は、元禄年間、岡山藩主池田綱政の命で津田永忠が閑谷学校の石塀の技術をもって造ったもので、諸藩の参勤交代の寄港地として賑わったようです。

(元禄防波堤)
(写真撮影:2013.07)
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