今回も、最初に渡島した島の概要を投稿します。
((向島(尾道市)) 尾道市と幅200~500mの尾道水道をはさんだ向島の東部に位置する。昭和43年尾道大橋開通により、尾道と陸路でつながった。昭和45年尾道市と合併。江戸時代から製塩業が営まれていたが、その塩田跡は現在、住宅地や工業用地として姿を変えている。また、近代は造船のまちとして大小多くの造船所がある。
(向島(向島町)) 尾道の南、尾道水道をはさんで向かい合う向島の西半分を占める町。尾道大橋架橋で昭和43年に尾道市と結ばれ、昭和58年には因島大橋が完成し、島という感覚の持てない環境にある。また、温暖な気候と美しい瀬戸内海の風景に恵まれ、この温暖な気候を利用した洋ランは中四国でも有数の産地として高い評価を得ている。町の南にはシンボルデある国立公園高見山(標高283m)があり、頂上展望台からの眺望はすばらしく、瀬戸の島々を眼下におさめて四国連峰を望み、内海随一の景勝地として知られている。
(因島) 広島県の東南部、瀬戸内海のほぼ中央に位置する島。温暖な気候と日照に恵まれた自然条件のもとで柑橘の栽培が営まれ、かつては造船業も盛んで、"造船とミカンの島"として発展した。昭和58年、向島との間に因島大橋が開通し、尾道大橋と通じて本土と結ばれ、平成11年には「しまなみ街道」が全通して四国ともつながった。因島は室町・戦国の時代に活躍した村上水軍の本拠地で、村上水軍にまつわる数々の品や伝統行事が受け継がれており、毎年8月には島をあげての祭"因島・水軍ふる里まつり"が催される。また、因島が生んだ天才棋士・本因坊秀策にちなみ、全国で初めて囲碁を「市技」に制定、プロ棋士のタイトル戦招致や囲碁まつりの開催など「囲碁のまちづくり」が進められ、全国から碁愛好家が多く訪れている。
(生口島(因島市)) 広島県三原市から南へ約12kmの海上にある生口島の東南部に位置する。平坦部は、少なく山は急峻である。以前は、原村と洲江村が統合した東生口村として独立していたが、昭和28年に因島市に合併した。平成3年12月に本州四国連絡橋「生口橋」が開通し、因島と結ばれ、尾道から陸路でつながった。江戸時代には製塩業と回船業が盛んで、回船業は、北前までも進出していた。地元の職場は少なく、多くの人が因島などへ通勤している。
(生口島(戸田町)) 三原市の南東約12km、芸予諸島の中心に位置する島。標高約472mの観音山など、島の中央を東西に走る山並みが分水嶺となっている。気候は温暖で山裾には柑橘の樹園地広がっている。古くは製塩・海運業が盛んで、物資の集散地として栄えた。現在は、柑橘栽培・造船・観光とバランスのとれた産業構成となっている。とくにミカンとレモンは全国でも有数の産地として知られる。将来に向けて、島の個性を文化・芸術に位置づけ、島という特性を生かしながら住んで良く訪れて楽しい瀬戸田を目標像として、まちづくりに邁進している。
(大三島) 瀬戸内海芸予諸島のほぼ中央に浮かぶ。花崗岩質の急傾斜地帯がほとんどを占め、わずかな平坦地が点在する。島には大山祇神社が鎮座しており、その門前町として発展した。大山祇神社には数々の武将たちが戦勝祈願と戦勝のお礼に奉納した甲冑や刀剣類などがあり、現在も国宝・重要文化財をはじめ数多く残っている。産業は、農業が主体で、温暖な気候と潮風に育てられた柑橘は甘く有名。古くから本州・四国・九州を鎮守する日本総鎮守の神の島として御島(三島)と呼ばれることから島名がつけられたという。
(伯方島) 瀬戸内海中央部に位置する芸予諸島の一部。今治市と尾道市とのほぼ中間にある。海峡には大三島と伯方島にはさまれた急流の「鼻栗瀬戸」、伯方島と鵜島にはさまれた「船折瀬戸」(えひめの自然100選)があり、その景観も最高。島の歴史は古く、叶浦などの縄文遺跡、宝股山の弥生高地遺跡などがある。また、南北朝時代から戦国時代末期にかけて、村上水軍の支配下となり、各所に城砦が築かれた。かつては「塩田と機帆船」の町として知られたが、「造船・海運・ミカン」の町へ変貌して、近年では、クルマエビ、ヒラメの養殖、稚魚の生産、ミカンに代わる花き栽培、縫製業や自然塩「伯方の塩」「調理の塩」の生産などが盛んになっている。平成11年5月、「しまなみ海道」が開通、今治・尾道から車で行けるようになった。
(大島) 今治市の北東海上約7km、瀬戸内海中央部にある島。南西は山岳部で吉海町に隣接している。標高382mの念仏山を中心に15度~20度の急傾斜の産地が多く、耕地はその周辺に散在している。瀬戸内海特有の寡雨地帯に属し、比較的温和で年平均温度16℃、降水量1129mmと各種農作物の栽培に好適で、とくに柑橘の栽培が盛んだ。また、北西山岳部は良質の花崗岩(大島石)の産地となっている。
(岩城島(いわぎしま)) 瀬戸内海のほぼ中央、広島県生口島の南に位置する。島内からは縄文土器が出土、妙見山などには巨石信仰の跡を残している。古くは藻塩を焼く製塩の姿が歌に詠まれ、歌枕の島として都びとに名を知られた。平安末期からは石清水八幡領、室町時代には水軍の本拠地として名をなし、近世には松山藩主の参勤交代の島本陣が設けられ海上交通の要衝として繁栄してきた。中央にそびえる積善山には3,000本のサクラが植えられ、展望台からは大自然のパノラマが楽しめる。美しい自然と恵まれた景観を生かし、"豊かな自然と豊かな村民生活(人)が調和したまちづくり"に取り組んでいる。また、太陽と潮風に育まれた島の特産品(レモンほか)を宅配する「青いレモンの島友の会」制度で、島をPRしている。
白石島 笠岡港から約16km、笠岡諸島の中では比較的本土に近い島。花崗岩の地肌が遠くから白く雪をかぶったように見えることから白石島と呼ばれるようになったといわれている。江戸時代には備後鞆と備前下津井を通る内海の地乗り(沿岸)航路の中継地として栄えた。備後福山藩時代に港奥の干拓が行われたため、笠岡諸島のなかで最も平地が多い島となっている。主産業は漁業で、底引網や定置網、ノリ養殖などが営まれている。また年間2万人以上が訪れる観光の島としても知られ、巨岩・奇岩の間を縫って島の7つの峰を結ぶ遊歩道は、山頂で視界が360度開け、瀬戸内海が一望できる。島には、国の文化財指定を受けているものが3つある。優雅で美しい盆踊りで重要無形民俗文化財の「白石踊」、「鎧岩」と呼ばれる天然記念物の奇岩、すばらしい眺めの「名勝」だ。近年、国際交流の場として若い外国人が散策する光景がみられるようになってきている。
真鍋島 笠岡港から約31kmにある島。年間を通して霜の降りない温暖な気候で、秋から冬にかけて穏やかな斜面の畑は、寒菊などの花でいっぱいになる。西行法師の「山家集」に詠まれており、民俗行事もいくつか残っていて歴史を今に伝える島である。島名は、真南辺の島、つまり備中国小田郡の南端にある島という意味で、のちに真鍋の字をあてたと考えられている。平安時代末期に藤原氏の一族が水軍の根拠地を置いて真鍋氏を名乗り、全盛期には付近の字島をことごとく配下に収めていたという。島の中央を歩くと源平合戦で平家方に属した真鍋氏の城跡や供養のために建てたと伝えられる石造宝塔など史跡に出合う。本浦と岩坪の2つに集落があり、港の背後に民家が密集している。港には石積みの堤防があり、のどかん漁村の佇まいを残している島として、岡山県の「ふるさと村」に指定されており、「瀬戸内少年野球団」など映画やドラマのロケ地としても有名だ。近年、島の住民有志による産品開発や積極的な情報発信など手づくりの島おこしが注目を集めている。
(本島) 昭和9年、国立公園として第1次指定を受けた瀬戸内海国立公園の中にあって、備讃海域に点在する塩飽諸島の中心島。秀吉以来、自治権を安堵されていた人名制度の中心島で、人名から選出された4人の年寄によって政治が行われ、江戸時代は天領として明治維新まで人名の自治が続いた。年寄衆が政務を執った塩飽勤番所をはじめ、歴史・文化財の宝庫として有名で、笠島地区ではNPO法人「笠島まち並保存協力会」を設立して町並み保存を進めている。瀬戸大橋完成後は、橋を横に見ながらハイキング・サイクリングなども盛んになり、若い人からお年寄りまで楽しめる。良好な漁場に恵まれ、水揚げされる瀬戸内の新鮮な魚は、訪れる人の大きな魅力となっている。
女木島 高松市の北約4kmに浮かぶ島。北部が円錐形、南部は穏やかな溶岩台地になっており、中央部の東西側に集落がある。就業者は、第1次産業が半数強、次いで第3次産業が4割弱。島の中腹に巨大な洞窟があることから、別名「鬼ケ島」と呼ばれ多数の観光客で賑わう。白砂青松に恵まれた美しい島なので、夏には海水浴客も多い。源平合戦で那須与一が射た扇のこわれた残りが流れついた、ということから「めぎ(めげた=こわれたの意」という島名がついたともいう。
男木島 高松市の北7.5km、女木島の北1kmに浮かぶ島。平坦地が少なく、南西部の斜面に階段状に集落がつくられている。過疎化と高齢化が急速に進んでおり、空き家の増加がめだつが、昭和32年の映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台にもなった美しい島。源平合戦で那須与一が射た扇が流れついたことから「おぎ(おおぎ)」という島名がつけられたともいう。近年では海洋レジャー交流の島として知られ、若者たちが多く通うようになってきた。
赤穂根島 岩城島の南約0.3km、燧灘にある無人島。瀬戸内海の無人島の中では最大規模を誇る。面積2.09km2・標高159m。南には津波島、東には佐島がある。近代に入ってから無人島化したといわれている。かつて地元では「むかいじ」と呼んでいた。急峻な丘陵性の島で、島内に標高が100mを越えるピークが3つある。岩城島の住民が稲作と果樹栽培を営んでおり、岩城港~竹の浦間を出耕作用の船が不定期運航している。平成15年度から県畜産試験場が耕作放棄地の荒廃防止対策として和牛を放牧する実証実験を実施している。なお、平成13年9月から住民登録人口2人を数えている。
津波島 岩城島の南約1.8km、燧灘にある南北に細長い島。面積0.45km2・標高88m。北には赤穂根島、西には伯方島がある。昭和初期までは4世帯が生活していた。周辺は鯛の一本釣り漁場で、津波漁港も整備されている。また岩城島の住民が果樹栽培などの季節耕作を営んでいる。昭和61年から国土庁のコミュニティーアイランド推進事業により、多目的広場・テニスコート・キャンプ場・レストハウス・遊歩道・給水施設などの整備が進められた。特に夏の観光シーズンにはキャンプや海水浴客などで賑わう。島内には公衆電話も置かれている。
鵜島 越智大島の北東海上約1.5kmに位置する。室町時代に足利義満がひとつがいの鵜を下賜し、海に放すと鵜が繁殖したことから島名がつけられたという。島内からは水軍の兵糧奉行所、北浜造船所などの遺構が見つかっており、能島とともに村勝水軍にとって重要な役割を果たしていたと考えられている。かつては佐島村(現弓削町)の支配下におかれていたが、近世期には織田信長の末孫と伝えられる織田(おりた)信義が、「獅子狩」の功をもって今治藩主の藤堂高孝吉よりこの島を拝領し、代々島の組頭役を務めていた。現在は、柑橘農業が主体の島だが、過疎化と高齢化が目立つ。また、大島・伯方島への島外通勤もあり、兼業農家が多くなっている。
(能島) 大島の東約0.3km、鵜島の西約0.1kmにある無人島。面積0.02km2・標高31m。瀬戸内海国立公園に含まれている。越智大島とは宮窪瀬戸、鵜島とは荒神瀬戸、北にある伯方島とは船折瀬戸によって隔てられている。燧灘から斎灘へと芸予の島々を航行する最短の経路上にあり、海上交通の要衝に位置する。周辺海域は、潮流が早い上に流れも変わりやすい難所であることから、中世期には村上水軍の拠点・能島城があった。のちに村上水軍は能島・来島・因島に分立したが、能島家の祖である村上山城守雅房以来、能島城は能島村上氏の根城となった。能島城跡には本丸・二の丸・三の丸・出丸の跡が残っており、岩礁には桟橋跡を示す柱穴が見られるほか、隣の鯛崎島との間に橋が架けられていたとの伝承もある。
( )表示の島は、以前に渡島済。
出典:(財)日本離島センター発行の「
日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から