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昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

広島県・山口県への島旅 6回目

2015-12-03 04:30:00 | 29瀬戸内海・広島県
竹原港が遠くなっていきます。


(竹原港が遠く)

色々なフェリーが行きかいます。


(色々なフェリー)

色々なフェリーが来ます。どこからどこへ行くのかよく分かりません。


(色々なフェリー)

また、違ったフェリーが来ました。


(また、違ったフェリー)

異様な姿の島が見えてきました。


(異様な姿の島)

この島がこれから行こうとしている島。契島(ちぎりじま)です。


(契島)
(写真撮影:2015.09)

広島県・山口県への島旅 5回目

2015-12-02 04:30:00 | 29瀬戸内海・広島県
桟橋にフェリーが接岸していました。


(フェリーが接岸)

フェリーに搭乗するため進みました。


(フェリーに搭乗)

フェリーは桟橋を離れていきました。


(フェリーは桟橋を離れて)

船内を散策して見ました。椅子席もありました。


(船内の椅子席)

カーペットが敷かれたスペースもありました。


(カーペットが敷かれたスペース)

たくさんの車が積み込まれていました。


(たくさんの車)
(写真撮影:2015.09)

広島県・山口県への島旅 4回目

2015-12-01 04:30:00 | 29瀬戸内海・広島県
リムジンバスと思っていたら、やって来たのは、ワンボックスカーのタクシーでした。4人が乗り込みました。


(ワンボックスカーのタクシー)

外を見ていると石州瓦の屋根の家をたくさん見ることができました。


(石州瓦の屋根の家)

竹原駅経由で、30分ほどで竹原港に着きました。これから大崎上島経由で契島へ向かいます。契島は、会社所有の島なので、事前に会社にお願いしましたが、駄目ということで、このルートになりました。


(竹原港)

時刻表を見ると近い時間の出発便は、垂水港行きです。白水港行は1時間ほどここで待つことになりますので、どうするかを考えて、垂水港行きに乗船することにしました。話しを聞くと垂水港と白水港は、距離的に2.0km弱とのことで、歩くことにしました。


(時刻表)

出航までに少し時間がありましたので、隣の「海の駅」で昼食を買いました。


(隣の「海の駅」)

壁に、「たまゆら 卒業写真」と書かれたポスターが貼られていました。映画の宣伝のようです。広島県の瀬戸内を舞台に女子高生たちの日常を描いた人気アニメ「たまゆら」の完結編のようです。


(「たまゆら 卒業写真」と書かれたポスター)
(写真撮影:2015.09)

広島県・山口県への島旅 3回目

2015-11-30 04:30:00 | 29瀬戸内海・広島県
飛行機を見ていたら、丁度、エンブレム問題が起きていた時で、飛行機のエンブレムも元に戻されていました。


(元に戻されたエンブレム)

外を眺めていると霞んだ東京スカイツリーが眺められました。



(霞んだ東京スカイツリー)

搭乗して、雨の中を滑走路へ向かい、離陸しました。最近は、飛行機の中からのビデオ撮影もOKになりました。


(上空から)

空路表示がディスプレーに出ていましたが、この飛行機は富士山の北側を飛行しています。富士山が見たくて、右側窓の席を予約したのに、残念です。



(空路表示がディスプレーに)

ひと眠りしていたら、広島空港に着陸しました。



(広島空港に着陸)

ここからリムジンバスで竹原に向かいます。



(リムジンバスで竹原に)
(写真撮影:2015.09)

広島県・山口県への島旅 2回目

2015-11-29 04:30:00 | 29瀬戸内海・広島県
最近、最寄りの駅からの始発が少し早くなり、また、上野東京ラインにもなって、羽田空港へ向かうのに楽になりました。モノレールに乗り、羽田空港へ向かいました。


(浜松町)

「愛にきて うどん県」と書かれたにぎやかなポスターが貼られていました。来月、香川県の島々へ行きます。「愛って」きます。(笑)


(「愛にきて うどん県」)

羽田空港第2ターミナル駅です。久しぶりでしたが、階段にこのような絵が描かれているのですね。


(羽田空港第2ターミナル駅の階段)

羽田空港第2ターミナルに着きました。


(羽田空港)

出発便の電光掲示板です。乗る飛行機は、まだ時間的に余裕があるようで、右側に掲示されていました。


(出発便の電光掲示板)

しかし、すぐに搭乗手続きをして、空港内に入りました。


(空港内)
(写真撮影:2015.09)

広島県・山口県への島旅 1回目

2015-11-28 04:30:00 | 29瀬戸内海・広島県
今回は、広島県・山口県への島旅に出かけました。
いつものように出向いた島々の概要を書いておきます

宇品島は、広島市街地の南、宇品港にある架橋島。周囲約4Km、標高52m。瀬戸内海国立公園に含まれる。本土側とは暁橋で結ばれている。古くは牛奈島・氏名島とも記されている。島名の由来は、臥牛の形から「牛の島」、あるいは江の内(広島湾)にある「内の島」が転訛したという説がある。近世的には仁保島村に属し、「広島藩御覚書帖」では広島藩領内浦島船繋15ヵ所の1つにあげられ、「芸藩志拾遺」では「山方出張所」が置かれて薪の流通集散地となっていたと記されている。現在も江戸期に灯台の役割を果たした石灯籠が島内の住吉神社そばに残る。明治17年、広島県令千田貞暁により宇品築港が始められ、同22年の完成時には本土と陸続きとなった。日清戦争時に宇品港が軍事輸送基地となった以後、陸軍の輸送補給拠点の一部となり、現在でも島内には兵器支廠倉庫跡や高射砲台跡、船舶部隊地下司令部壕跡などが残る。明治37年、仁保村から広島市へ編入、元宇品町となっている。明治以降埋め立てが進んだ島の東側はホテルや屋内スノーボード場、倉庫群、マリーナなどがあるが、西側は伐採が禁止されたことで遺された原生林(国有林)に覆われる元宇品公園となっている。シイやツバキなどをはじめ、樹齢200年を超えるクスノキの大木がある。かつて水族館や海水浴場があった西海岸を散策する市民も多く、休日には潮干狩りや釣りなどを楽しむ家族連れなどでにぎわう。ほかにも島内には室町時代の作といわれる観音寺の阿弥陀仏(市指定文化財)や第37代横綱安芸ノ海の墓、昭和23年開校の元宇品小学校、南端には昭和25年初点の宇品灯台がある。平成16年1月末現在の住民登録人口は1,673人。


(宇品島)

契島は、竹原市の南約4kmの瀬戸内海にある小島。島全体が東邦亜鉛(株)契島精錬所の所有地となっている。明治32年に銅の精錬所が建設され、昭和10年には硫酸工場も造られた。戦後は昭和25年に東邦亜鉛によって鉛精錬工場として再出発している。精錬所の建設後、南北2つに分かれていた島を、それぞれの山を崩して1つの島につないだといわれている。島名の由来も2島にちぎられたように見えたからという説がある。現在、北部と南部が居住区で中央には工場が建っている。このため、居住できる人は会社関係者のみで、部外者の立ち入りは会社の許可が必要。夜、島を遠くから眺めると軍艦が浮かんでいるように見え、別名「軍艦島」とも呼ばれている。第2次大戦中には空爆を受けたこともある。現在、この精錬所の鉛の生産量は東洋一を誇っている。

(契島)

鹿島は、倉橋島の南端、江戸時代風待ち・潮待ちの港として栄えた鹿老渡の沖合に浮かび、山口・愛媛両県に面し、人の住む島としては広島県最南端にあたる。住民の定住は幕末の文久年間(1861~64)頃のことで、それまでは倉橋島室尾・本浦・尾立地区の採草地や出作りの場だった。明治に入り、イワシ網漁とタコツボ漁の隆盛で一気に人口が増加した。昭和50年に鹿島大橋が架かり、倉橋島を経て本土呉市と通じている。丘陵が起伏し、平地が少ないが、美しい自然に恵まれている。

(鹿島)

平郡島(へいぐんとう)  柳井市の南約20Kmの伊予灘に浮かぶ東西に細長い島。標高468mの深山が最高点で急傾斜地が多く、農耕地は段々畑になっている。集落は島の東端の北岸と西部の南の入江にある。気候は温暖で夏季には風が強い。農漁業が主で、とくにタコ漁でとれた「平郡ダコ」は美味で、関西方面へも送られている。島の周囲は魚種が豊富で多くの釣り客が訪れ、山麓にはキジが放鳥してあり、猟期には県内外からハンターが訪れる。鎌倉時代に木曽義仲の子・平群丸がこの地に住み着いたのが、島名の起こりとされている。

(平郡島)

向島は、防府市の南海岸、三田尻新田から幅0.1Kmほどの狭い水道を挟んで位置する地塁状の架橋島。面積8.09Km2、標高354m。島名の由来は、周防国府の向いにあるためという。ほぼ中央部にある錦山は防府平野を望む絶好の展望地で、周防灘から九州までが遠望できる。北部の飯ノ山には野島―三田尻間をつなぐ狼煙場が置かれた。かつては風間島(風避けの島)とも呼ばれている三田尻湾口の島だったが、元禄12年(1699)に始まった毛利藩の大開作(湾内干拓)により、のちに播州赤穂に次ぐ塩田地帯となった三田尻六カ所浜の一角・新田地区と至近距離で相対することになった。北岸に沿って郷ケ崎・中村・本村・小田(こだ)の集落があり、なかでも郷ケ崎は小型底引き網を中心に刺し網、一本釣り、蛸壺などの漁業がさかんで、イカ・エビ・カレイの漁獲が多く周防有数の漁業基地である。島の北西から南西部に水田や段々畑が拓かれ、近年はミカンの栽培が盛んとなり、山麓では乳用牛飼育されている。大正7年、日本専売公社の製塩工場が置かれ、塩田廃止とともに昭和35年には葉タバコの加工工場に変わったが、同44年に本土側埋立地へ移転、跡地は運動公園となっている。三田尻との間には郷ケ崎と西の辰ケ鼻の2カ所に渡船があったが、昭和25年、中村と対岸の問屋口との間に満潮時には中央部が90度回転して大型船舶も運航できる可動橋「錦橋」が完成した。食料となる果実が多いためホンドタヌキが生息、大正15年に「向島タヌキ生息地」として国の天然記念物に指定されたが、指定当時は2万頭といわれた生息数も、野犬の増加などにより近年50頭以下にまで減少している。ほかにも島内には郷ケ崎に厳島神社、中村に向島小学校の寒桜(市指定天然記念物)、本村に浄土真宗本願寺派如金山西福寺、南西端の田ノ浦海岸に海水浴場・キャンブ場があり、JR防府駅前から防長バス(小田港行き)が1日5便出ている。平成16年2月末現在の住民登録人口は1,816人。

(向島)

出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から


今回行った島の人口を記載しておきます。

宇品島 1,539人、契島 42人、鹿島 324人、平郡島 419人、向島 1,521人

出典:(財)日本離島センター発行の「島々の日本」から (平成22年国勢調査(確定値)など)

しまなみ海道・笠岡塩飽諸島 瀬戸内海12島めぐり3日間 4回目

2012-09-06 04:30:00 | 29瀬戸内海・広島県
尾道の市街地や千光寺山などが見えてきました。


(尾道の市街地や千光寺山)

新尾道大橋を渡り終えると向島です。


(向島)

向島の市街地や造船所のクレーンや尾道の山々が見えています。


(市街地や造船所のクレーン)

バスは、向島南ICを下り、立花海岸に向かいました。


(向島南ICを下り)

立花海岸では、写真タイムとして、下車しました。


(立花海岸)

その上を因島大橋が通っています。


(因島大橋)
(写真撮影:2012.06)

しまなみ海道・笠岡塩飽諸島 瀬戸内海12島めぐり3日間 3回目

2012-09-05 04:30:00 | 29瀬戸内海・広島県
広島空港に着きました。この空港も久し振りでした。


(広島空港)

添乗員さんが持っているツアー名のところへ集まりました。島旅だと10名程度なのに、今回は、30数名いました。その分、料金が安いのです。


(添乗員さんが持っているツアー名のところへ)

ガイドさんの案内で、向かったバスは、大型のバスでした。申し込みが早かったのか、前の方の席に座れました。乗車確認が終わり、広島空港を出発しました。


(広島空港を出発)

高速道路に乗り、尾道方面へ向かいました。


(尾道方面へ)

さらに、しまなみ海道の方へバスは、向かいました。


(しまなみ海道の方へ)

1つ目の橋、新尾道大橋が見えてきました。


(新尾道大橋が)
(写真撮影:2012.06)

しまなみ海道・笠岡塩飽諸島 瀬戸内海12島めぐり3日間 2回目

2012-09-04 04:30:00 | 29瀬戸内海・広島県
今回の島旅は、専門の島旅ツアーでなく、一般参加の島旅ツアーでした。12島となっていますが、実際には、未渡島の島は、4島だけでしたが、費用が専門の島旅ツアーの半額で行けましたので、応募しました。そこで、1日、離団して、チャーター船でいくつかの島を回る計画を立てました。仲間に話をすると参加するとのことで、チャーター船の費用は、半分になりした。今回の集合時間は、早く、最寄の駅の始発では間に合わないので、私鉄の駅まで出向き、羽田空港に向かいました。モノレールの浜松町駅の時間を見られても分かりますね。


(モノレールの浜松町駅)

1台見送って、空港快速に乗ることにしました。


(1台見送って)

東京スカイツリーが見えました。丁度、飛行機が上昇していました。


(東京スカイツリー)

第2ターミナルビルです。こういうところから搭乗階へ行くのです。


(第2ターミナルビル)

集合場所へ向かいました。いつもの場所の第1時計台の下で、手続きをして、手荷物チェックを受けて、搭乗口に向かいました。


(集合場所)

7:50発の飛行機で、広島空港へ向かいました。


(搭乗口)
(写真撮影:2012.06)

しまなみ海道・笠岡塩飽諸島 瀬戸内海12島めぐり3日間 1回目

2012-09-03 04:30:00 | 29瀬戸内海・広島県
今回も、最初に渡島した島の概要を投稿します。

((向島(尾道市)) 尾道市と幅200~500mの尾道水道をはさんだ向島の東部に位置する。昭和43年尾道大橋開通により、尾道と陸路でつながった。昭和45年尾道市と合併。江戸時代から製塩業が営まれていたが、その塩田跡は現在、住宅地や工業用地として姿を変えている。また、近代は造船のまちとして大小多くの造船所がある。

(向島(向島町)) 尾道の南、尾道水道をはさんで向かい合う向島の西半分を占める町。尾道大橋架橋で昭和43年に尾道市と結ばれ、昭和58年には因島大橋が完成し、島という感覚の持てない環境にある。また、温暖な気候と美しい瀬戸内海の風景に恵まれ、この温暖な気候を利用した洋ランは中四国でも有数の産地として高い評価を得ている。町の南にはシンボルデある国立公園高見山(標高283m)があり、頂上展望台からの眺望はすばらしく、瀬戸の島々を眼下におさめて四国連峰を望み、内海随一の景勝地として知られている。

(因島) 広島県の東南部、瀬戸内海のほぼ中央に位置する島。温暖な気候と日照に恵まれた自然条件のもとで柑橘の栽培が営まれ、かつては造船業も盛んで、"造船とミカンの島"として発展した。昭和58年、向島との間に因島大橋が開通し、尾道大橋と通じて本土と結ばれ、平成11年には「しまなみ街道」が全通して四国ともつながった。因島は室町・戦国の時代に活躍した村上水軍の本拠地で、村上水軍にまつわる数々の品や伝統行事が受け継がれており、毎年8月には島をあげての祭"因島・水軍ふる里まつり"が催される。また、因島が生んだ天才棋士・本因坊秀策にちなみ、全国で初めて囲碁を「市技」に制定、プロ棋士のタイトル戦招致や囲碁まつりの開催など「囲碁のまちづくり」が進められ、全国から碁愛好家が多く訪れている。

(生口島(因島市)) 広島県三原市から南へ約12kmの海上にある生口島の東南部に位置する。平坦部は、少なく山は急峻である。以前は、原村と洲江村が統合した東生口村として独立していたが、昭和28年に因島市に合併した。平成3年12月に本州四国連絡橋「生口橋」が開通し、因島と結ばれ、尾道から陸路でつながった。江戸時代には製塩業と回船業が盛んで、回船業は、北前までも進出していた。地元の職場は少なく、多くの人が因島などへ通勤している。

(生口島(戸田町)) 三原市の南東約12km、芸予諸島の中心に位置する島。標高約472mの観音山など、島の中央を東西に走る山並みが分水嶺となっている。気候は温暖で山裾には柑橘の樹園地広がっている。古くは製塩・海運業が盛んで、物資の集散地として栄えた。現在は、柑橘栽培・造船・観光とバランスのとれた産業構成となっている。とくにミカンとレモンは全国でも有数の産地として知られる。将来に向けて、島の個性を文化・芸術に位置づけ、島という特性を生かしながら住んで良く訪れて楽しい瀬戸田を目標像として、まちづくりに邁進している。

(大三島) 瀬戸内海芸予諸島のほぼ中央に浮かぶ。花崗岩質の急傾斜地帯がほとんどを占め、わずかな平坦地が点在する。島には大山祇神社が鎮座しており、その門前町として発展した。大山祇神社には数々の武将たちが戦勝祈願と戦勝のお礼に奉納した甲冑や刀剣類などがあり、現在も国宝・重要文化財をはじめ数多く残っている。産業は、農業が主体で、温暖な気候と潮風に育てられた柑橘は甘く有名。古くから本州・四国・九州を鎮守する日本総鎮守の神の島として御島(三島)と呼ばれることから島名がつけられたという。

(伯方島) 瀬戸内海中央部に位置する芸予諸島の一部。今治市と尾道市とのほぼ中間にある。海峡には大三島と伯方島にはさまれた急流の「鼻栗瀬戸」、伯方島と鵜島にはさまれた「船折瀬戸」(えひめの自然100選)があり、その景観も最高。島の歴史は古く、叶浦などの縄文遺跡、宝股山の弥生高地遺跡などがある。また、南北朝時代から戦国時代末期にかけて、村上水軍の支配下となり、各所に城砦が築かれた。かつては「塩田と機帆船」の町として知られたが、「造船・海運・ミカン」の町へ変貌して、近年では、クルマエビ、ヒラメの養殖、稚魚の生産、ミカンに代わる花き栽培、縫製業や自然塩「伯方の塩」「調理の塩」の生産などが盛んになっている。平成11年5月、「しまなみ海道」が開通、今治・尾道から車で行けるようになった。

(大島) 今治市の北東海上約7km、瀬戸内海中央部にある島。南西は山岳部で吉海町に隣接している。標高382mの念仏山を中心に15度~20度の急傾斜の産地が多く、耕地はその周辺に散在している。瀬戸内海特有の寡雨地帯に属し、比較的温和で年平均温度16℃、降水量1129mmと各種農作物の栽培に好適で、とくに柑橘の栽培が盛んだ。また、北西山岳部は良質の花崗岩(大島石)の産地となっている。

(岩城島(いわぎしま)) 瀬戸内海のほぼ中央、広島県生口島の南に位置する。島内からは縄文土器が出土、妙見山などには巨石信仰の跡を残している。古くは藻塩を焼く製塩の姿が歌に詠まれ、歌枕の島として都びとに名を知られた。平安末期からは石清水八幡領、室町時代には水軍の本拠地として名をなし、近世には松山藩主の参勤交代の島本陣が設けられ海上交通の要衝として繁栄してきた。中央にそびえる積善山には3,000本のサクラが植えられ、展望台からは大自然のパノラマが楽しめる。美しい自然と恵まれた景観を生かし、"豊かな自然と豊かな村民生活(人)が調和したまちづくり"に取り組んでいる。また、太陽と潮風に育まれた島の特産品(レモンほか)を宅配する「青いレモンの島友の会」制度で、島をPRしている。

白石島 笠岡港から約16km、笠岡諸島の中では比較的本土に近い島。花崗岩の地肌が遠くから白く雪をかぶったように見えることから白石島と呼ばれるようになったといわれている。江戸時代には備後鞆と備前下津井を通る内海の地乗り(沿岸)航路の中継地として栄えた。備後福山藩時代に港奥の干拓が行われたため、笠岡諸島のなかで最も平地が多い島となっている。主産業は漁業で、底引網や定置網、ノリ養殖などが営まれている。また年間2万人以上が訪れる観光の島としても知られ、巨岩・奇岩の間を縫って島の7つの峰を結ぶ遊歩道は、山頂で視界が360度開け、瀬戸内海が一望できる。島には、国の文化財指定を受けているものが3つある。優雅で美しい盆踊りで重要無形民俗文化財の「白石踊」、「鎧岩」と呼ばれる天然記念物の奇岩、すばらしい眺めの「名勝」だ。近年、国際交流の場として若い外国人が散策する光景がみられるようになってきている。

真鍋島 笠岡港から約31kmにある島。年間を通して霜の降りない温暖な気候で、秋から冬にかけて穏やかな斜面の畑は、寒菊などの花でいっぱいになる。西行法師の「山家集」に詠まれており、民俗行事もいくつか残っていて歴史を今に伝える島である。島名は、真南辺の島、つまり備中国小田郡の南端にある島という意味で、のちに真鍋の字をあてたと考えられている。平安時代末期に藤原氏の一族が水軍の根拠地を置いて真鍋氏を名乗り、全盛期には付近の字島をことごとく配下に収めていたという。島の中央を歩くと源平合戦で平家方に属した真鍋氏の城跡や供養のために建てたと伝えられる石造宝塔など史跡に出合う。本浦と岩坪の2つに集落があり、港の背後に民家が密集している。港には石積みの堤防があり、のどかん漁村の佇まいを残している島として、岡山県の「ふるさと村」に指定されており、「瀬戸内少年野球団」など映画やドラマのロケ地としても有名だ。近年、島の住民有志による産品開発や積極的な情報発信など手づくりの島おこしが注目を集めている。

(本島) 昭和9年、国立公園として第1次指定を受けた瀬戸内海国立公園の中にあって、備讃海域に点在する塩飽諸島の中心島。秀吉以来、自治権を安堵されていた人名制度の中心島で、人名から選出された4人の年寄によって政治が行われ、江戸時代は天領として明治維新まで人名の自治が続いた。年寄衆が政務を執った塩飽勤番所をはじめ、歴史・文化財の宝庫として有名で、笠島地区ではNPO法人「笠島まち並保存協力会」を設立して町並み保存を進めている。瀬戸大橋完成後は、橋を横に見ながらハイキング・サイクリングなども盛んになり、若い人からお年寄りまで楽しめる。良好な漁場に恵まれ、水揚げされる瀬戸内の新鮮な魚は、訪れる人の大きな魅力となっている。

女木島 高松市の北約4kmに浮かぶ島。北部が円錐形、南部は穏やかな溶岩台地になっており、中央部の東西側に集落がある。就業者は、第1次産業が半数強、次いで第3次産業が4割弱。島の中腹に巨大な洞窟があることから、別名「鬼ケ島」と呼ばれ多数の観光客で賑わう。白砂青松に恵まれた美しい島なので、夏には海水浴客も多い。源平合戦で那須与一が射た扇のこわれた残りが流れついた、ということから「めぎ(めげた=こわれたの意」という島名がついたともいう。

男木島 高松市の北7.5km、女木島の北1kmに浮かぶ島。平坦地が少なく、南西部の斜面に階段状に集落がつくられている。過疎化と高齢化が急速に進んでおり、空き家の増加がめだつが、昭和32年の映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台にもなった美しい島。源平合戦で那須与一が射た扇が流れついたことから「おぎ(おおぎ)」という島名がつけられたともいう。近年では海洋レジャー交流の島として知られ、若者たちが多く通うようになってきた。

赤穂根島 岩城島の南約0.3km、燧灘にある無人島。瀬戸内海の無人島の中では最大規模を誇る。面積2.09km2・標高159m。南には津波島、東には佐島がある。近代に入ってから無人島化したといわれている。かつて地元では「むかいじ」と呼んでいた。急峻な丘陵性の島で、島内に標高が100mを越えるピークが3つある。岩城島の住民が稲作と果樹栽培を営んでおり、岩城港~竹の浦間を出耕作用の船が不定期運航している。平成15年度から県畜産試験場が耕作放棄地の荒廃防止対策として和牛を放牧する実証実験を実施している。なお、平成13年9月から住民登録人口2人を数えている。

津波島 岩城島の南約1.8km、燧灘にある南北に細長い島。面積0.45km2・標高88m。北には赤穂根島、西には伯方島がある。昭和初期までは4世帯が生活していた。周辺は鯛の一本釣り漁場で、津波漁港も整備されている。また岩城島の住民が果樹栽培などの季節耕作を営んでいる。昭和61年から国土庁のコミュニティーアイランド推進事業により、多目的広場・テニスコート・キャンプ場・レストハウス・遊歩道・給水施設などの整備が進められた。特に夏の観光シーズンにはキャンプや海水浴客などで賑わう。島内には公衆電話も置かれている。

鵜島 越智大島の北東海上約1.5kmに位置する。室町時代に足利義満がひとつがいの鵜を下賜し、海に放すと鵜が繁殖したことから島名がつけられたという。島内からは水軍の兵糧奉行所、北浜造船所などの遺構が見つかっており、能島とともに村勝水軍にとって重要な役割を果たしていたと考えられている。かつては佐島村(現弓削町)の支配下におかれていたが、近世期には織田信長の末孫と伝えられる織田(おりた)信義が、「獅子狩」の功をもって今治藩主の藤堂高孝吉よりこの島を拝領し、代々島の組頭役を務めていた。現在は、柑橘農業が主体の島だが、過疎化と高齢化が目立つ。また、大島・伯方島への島外通勤もあり、兼業農家が多くなっている。

(能島) 大島の東約0.3km、鵜島の西約0.1kmにある無人島。面積0.02km2・標高31m。瀬戸内海国立公園に含まれている。越智大島とは宮窪瀬戸、鵜島とは荒神瀬戸、北にある伯方島とは船折瀬戸によって隔てられている。燧灘から斎灘へと芸予の島々を航行する最短の経路上にあり、海上交通の要衝に位置する。周辺海域は、潮流が早い上に流れも変わりやすい難所であることから、中世期には村上水軍の拠点・能島城があった。のちに村上水軍は能島・来島・因島に分立したが、能島家の祖である村上山城守雅房以来、能島城は能島村上氏の根城となった。能島城跡には本丸・二の丸・三の丸・出丸の跡が残っており、岩礁には桟橋跡を示す柱穴が見られるほか、隣の鯛崎島との間に橋が架けられていたとの伝承もある。

( )表示の島は、以前に渡島済。

出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から