08.10.03~10.06に
慶良間諸島へ出掛けてきました。
その時のことを投稿します。
まず、最初に出掛けた島々の概要を投稿します。
座間味(ザマミ)島
那覇市の西約40km、慶良間諸島のほぼ中心にある島。古座間味貝塚からは住居跡をはじめ黒曜石・ゴホウラ貝、九州の縄文晩期の土器片などが出土している。住民は古くから海洋思想に富み、数多くの優秀な船乗りを輩出してきた。また、古くから海上交通の要衝であり、唐船貿易の中継地として重要な役割を果たしてきた。現在でも、座間味島・阿嘉島・渡嘉敷島で囲まれた内海は、東シナ海・太平洋を航行する船が台風を避けるための避難港として利用している。以前は「ケラマ節」として有名なカツオ漁業が盛んだったが、今では美しい海を求めて全国から多くの人たちが訪れ、ダイビングなどのマリンスポーツの島として人気が定着している。また、近年はホエールウオッチングの島として脚光を浴びている。沖縄戦での米軍最初の上陸地で、激戦地のひとつになった島でもある。
渡嘉敷(トカシキ)島
那覇の西海上30km、慶良間諸島の東端にある島。島内からは先史時代の遺跡が発見されている。古くから聖地・御獄の多い島として知られていた。17世紀半ばには中国と沖縄本島とを行き来する船の監視のために、座間味島・渡名喜島・久米島などと並び烽火台が配置された。また、慶良間の他の島々と同じく優秀な船乗りを輩出してきた島でもある。第2次世界大戦末期には激しい空襲と艦砲射撃を受け、米軍上陸後、約半数の住民が「集団自決」した。現在、島にはビロウやモクマオウが生い茂り、白い砂浜が広がるなど、南国の自然が美しい。海洋専門家の調査では水深50~60mにおよぶ海の透明度は世界屈指と称賛され、国内有数のダイビングポイントともなっている。12月末~3月にかけてザトウクジラが島の周囲を回遊して、ホエールウォッチングでにぎわいをみせる。周辺海域は沖縄県でも有数の好漁場で小規模ながら一本釣り・はえ縄などが営まれている。
阿嘉(アカ)島
座間味港の南西約3kmにある。座間味村の有人島3島の中で2番目に大きな島。東部の低地に貝塚があることから、古くから人が居住していたと考えられる。また、琉球王朝時代の佐久原城跡がある。集落は南に面し、島の北側には美しい白い砂浜「ニシハマビーチ」があり、ダイビングのポイントとして定評がある。ダイビングなどで島に移る人もいて、人口は過去5年間で約40人増えている。平成10年6月、慶留間島との間に阿嘉大橋が完成、阿嘉島・慶留間島と空港のある外地島がひとつになった。
外地(フカジ)島(無人島)
阿嘉島・阿嘉地区の南東約2kmにある島。面積0.83km2・周囲約4.6km・標高76m。沖縄海洋国定公園に含まれる。島の中央には、800mの滑走路を持つ慶良間空港(昭和57年供用開始)があり、那覇空港との間に小型機が就航している。北の慶留間島とは慶留間橋によってつながれ、さらに北の阿嘉島へも阿嘉大橋で連絡している。ちなみにこの島にはウミガメが産卵にやってくる。
慶留間(ゲルマ)島
阿嘉島の南約200mにある。座間味村内の3つの有人島の中で一番小さい島。ケラマジカが生息し、保護区に指定されている。唯一の集落は唐船時代に船乗りの里として発達したところで、当時の船頭屋敷・高良家が今も往時の様子を伝えている。第2次世界大戦末期には、米軍の上陸後2日目に島の住民の過半数が集団自決したという歴史がある。空港のある隣の外地島と橋で結ばれており、さらに平成10年6月には阿嘉島との間に総延長530mの阿嘉大橋が完成した。
安慶名敷(アゲナシク)島(無人島)
座間味島・座間味地区の南西約1.2km、座間味港の目の前にある無人島。周囲約2.1km・面積0.10km2・標高42m。沖縄海洋国定公園に含まれる。アギナシクジマともいう。環礁が取り囲み、岩がちな砂浜に覆われている。特に南部は裾礁が発達し、クワァギナシク(小安慶名敷)と呼ばれる3つの千枚岩による岩礁群が見もの。風化により造られた千枚岩の洞窟などもある。丘陵地にはコウライシバやソテツが茂り、砂浜にはハマゴウ・ハマグルマ・クサトベラなどが生える。戦後まもなくまで、座間味島の住民がイモの栽培などを営んでいた。ヤギも放牧されたことがある。工作を止めた後も、旧暦3月3日の浜下りの日には潮干狩りなどに訪れている。座間味港からも非常に近く、島の北部には広い砂浜もあることから、夏のシーズン中には海洋レジャー客でにぎわう。潮流もあまり強くなく、シュノーケリング・ダイビングも楽しめる。座間味港から渡船で数分。
渡名喜(トナキ)島
那覇の北西58kmにある島。渡名喜村は沖縄県で2番目に人口の少ない村でもある。渡名喜県立自然公園に指定されている。北に粟国島、南に慶良間諸島、西に久米島を望み、これらの島々を結んだ三角形のほぼ中央に位置する。もともと南北2つの島だったが、両島の間に砂が堆積し、南北に山地を持つ1つの島になったといわれている。島内からは渡名喜東貝塚・西底原遺跡・アンジェーラ遺跡、グスク時代の渡名喜里遺跡が発見されている。古くは「戸無島」と称されていた。中国と沖縄本島を結ぶ航路上にあったことから、17世紀には久米島・渡嘉敷島などと並び、行き交う船の監視・通報のための施設である烽火台が大本田山に配置された。20世紀に入るとカツオ漁業を主産業とし、南方諸島へ移住する人も多かったが、近年は一本釣りなどの沿岸漁業が盛んになっている。農業ではモチキビの生産が有名。琉球王朝時代の農地公平配分制度である「地割制」
(ユシー)の影響で、今なお短冊形の農地区分が残る。集落もフクギに囲まれた美しい景観と赤瓦や石垣などの伝統様式をよく残しており、平成12年には集落全体が「重要伝統的建造物群保存地区」(重伝建)に選定された。
出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド
SHIMADAS シマダス」から