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昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

いってみんとわからんけん! 忽那(くつな)諸島 渡り歩き4日間 8回目

2010-04-27 04:30:00 | 43瀬戸内海・愛媛県・忽那諸島
二子島には直接、船を付けるところがなく、上陸に際しては、裸足になり、上陸しました。きれいな砂浜が続いていました。


(二子島へ上陸)


(きれいな砂浜)

岩場へ行って何かを探す人もいました。


(何かを探す人)

沖をタンカーやフェリーが航行していました。


(沖を航行するタンカー)


(沖を航行するフェリー)

津和地島へ戻り、島内散策を開始しました。


(島内散策を開始)
(写真撮影:2005.9)

いってみんとわからんけん! 忽那(くつな)諸島 渡り歩き4日間 7回目

2010-04-26 04:30:00 | 43瀬戸内海・愛媛県・忽那諸島
休息後、2班に分かれて、島内散策と二子島への散策に出かけました。私は、宿の船で二子島へ向かうことにしました。近くの桟橋へ向かいました。そこの船倉には、大きなサバが泳いでいました。美味しそうですね。


(近くの桟橋)


(サバが泳ぐ船倉)

港にある防波堤には、カモメが同じ方向を向いて止まっていました。


(同じ方向のカモメ)


(宿の船)


(二子島)

二子島へ向かう船から左手に、怒和島が見えました。


(怒和島)
(写真撮影:2005.9)

いってみんとわからんけん! 忽那(くつな)諸島 渡り歩き4日間 6回目

2010-04-25 04:30:00 | 43瀬戸内海・愛媛県・忽那諸島
宿から荷物を引き取りに車が来ていましたので、荷物をそれに乗せて宿まで歩くことにしました。


(荷物を車に)

静かな屋並みが続いていました。ほとんど人影を見ることはありませんでした。その中に小さなお堂がありました。


(静かな屋並み)


(小さなお堂)

不思議な形の車が止まっていました。何を運ぶのでしょうか。農産物でしょうか。海で採れたものでしょうか。周りには、たくさんの車が駐車していました。通勤用の車でしょうか。船で本土へ通勤している感じです。


(不思議な形の車)

たくさんの漁船が係留されていました。どんな漁をしているのでしょうか。


(たくさんの漁船が係留)

どこの港でも見られる家で食べると思われる一夜干しがありました。美味しそうで食べたくなりました。


(一夜干し用ネット)

今夜、泊る旅館に着きました。荷物を部屋に運び、くつろぎました。


(今夜、泊る旅館)
(写真撮影:2005.9)

いってみんとわからんけん! 忽那(くつな)諸島 渡り歩き4日間 5回目

2010-04-24 04:30:00 | 43瀬戸内海・愛媛県・忽那諸島
添乗員さんが乗船手続きをしている間に、桟橋に向かいました。そこには、定期船が接岸していました。


(桟橋へ)


(定期船が接岸)

行き先を見ると何島かを回る定期船でした。


(行き先)

乗船が終わると定期船は出発しました。穏やかな海を進んで行きました。


(乗船が終わると)


(穏やかな海を)

津和地島に到着して、下船しました。


(津和地島に到着)

直ぐに、定期船は、次の島へ向けて出発していきました。


(次の島へ)
(写真撮影:2005.9)

いってみんとわからんけん! 忽那(くつな)諸島 渡り歩き4日間 4回目

2010-04-23 04:30:00 | 43瀬戸内海・愛媛県・忽那諸島
高浜港へ向かい、バスで移動しました。静かな瀬戸内海を見ながら、海岸線を走りました。


(静かな海岸線)

高浜港へ着きました。少し時間があったので、その周りを散策していると、丁度、電車が高浜駅に着きました。


(高浜駅)


(到着した電車)

電車から降りた乗客の中にも港へ向かう人もいました。発券売り場には、人が並んでいました。


(人が並ぶ発券売り場)

津和地島へは、日に3本の船が運航されていました。


(船の時刻表)

航路図があり、忽那諸島の位置関係がよく分かりました。


(忽那諸島の位置関係)
(写真撮影:2005.9)

いってみんとわからんけん! 忽那(くつな)諸島 渡り歩き4日間 3回目

2010-04-22 04:30:00 | 43瀬戸内海・愛媛県・忽那諸島
伊予かすり会館の入口には、伊予かすりの創始者として知られる鍵谷カナの像がありました。


(鍵谷カナの像)

伊予絣の起こりについては様々な説がありますが、一説によるとカナが農家のワラ屋根の葺き替えのときに、そこで見かけた押竹を縛った跡のまだら模様に心ひかれ、これを繊維に応用して織ったものがその始まりとされています。
伊予かすり会館内には、糸車・民具・地機。伊村式整経機など伊予絣に関するものを多く展示しています。










(伊予かすり会館内)
(写真撮影:2005.9)

いってみんとわからんけん! 忽那(くつな)諸島 渡り歩き4日間 2回目

2010-04-21 04:30:00 | 43瀬戸内海・愛媛県・忽那諸島
今回の添乗員さんは、その年に入社して、島旅事務局に配属になって、島旅としては、初めての添乗のことでした。この後、連続して、10数回、続いて一緒に島旅に出かけました。仲間からは、狙って申し込んでいるのではないかと言われましたが、募集時には、そのようなことは何も書かれていませんので、偶然だと思います。羽田空港に集まると8人のお客さんでしたが、内、6名は、常連さんでした。この頃は、知り合いのリピーターが多くいました。


(羽田空港)

搭乗口が1番と一番端でした。大分歩きました。外を見てもあまり見慣れない風景でした。


(搭乗口が1番)


(あまり見慣れない風景)

飛行機が向かったのは、高松空港でした。久しぶりの空港でした。




(高松空港)

時間調整のため、伊予かすり会館へ向かいました。


(伊予かすり会館)
(写真撮影:2005.9)

いってみんとわからんけん! 忽那(くつな)諸島 渡り歩き4日間 1回目

2010-04-20 04:30:00 | 43瀬戸内海・愛媛県・忽那諸島
2005.9.22~25に出かけた少し古い島旅ですが、皆さん、あまり行かれていないと思いますので、投稿します。
現在は、状況が変わっているかもしれませんが、楽しみにしてください。

いつものように忽那諸島で渡島した島々の情報を書きます。

今回、津和地島、怒和島、二神島、中島、野忽那島、睦月島、興居(ごご)島、釣(つる)島と二子島(無人島)と計9島に渡島しました。

津和地島 忽那諸島西端に位置し、西隣の山口県周防大島の諸島とはわずか700mを隔てるだけの県境の地。急傾斜地は森林、傾斜地は柑橘園、砂地の平地はタマネギ畑と、地形によって土地利用が分かれている。江戸時代中期、西廻り廻船が盛んになると、瀬戸内海有数の風待ち・潮待ち港として栄えた。また、朝鮮通信使などの外交使節や幕府御用船、参勤交代の大名が寄港、接待所として松山藩の「御茶屋」が置かれていた。現在の島は、農業と漁業で支えられており、農業は柑橘が中心だが、畑作はタマネギ・スイカも栽培している。漁業は、タコやタイが水揚げの中心になっている。

怒和島 忽那諸島の西部にある島。2つの集落が島の東西に分かれている。北部の平地に畑が広がっているほか、急傾斜地を除く島全体に柑橘が植えられている。もともとの集落は島の北岸・宮ノ浦にあったが、いつのころからか、現在の上怒和・元怒和の2集落に分かれた。平成12年12月から始まった怒和島宮浦遺跡の発掘調査で中世の集石遺構や奈良~平安期の供献土器が発見され、藤原純友に関係する遺跡ではないかともいわれる。昭和34年までは神和村(怒和島・津和地島・二神島)の役場が置かれていた。産業の中心は柑橘栽培であるが、わずかにタマネギやスイカも作られている。近年ミカン価格の低迷により、ヒラメ養殖が始まり、島の経済の新しい柱として期待されている。

二神島 忽那諸島の南西端にある東西に細長い島。急傾斜地を除くと柑橘園がほとんどを占めている。もとは、島に松が多かったため「松島」と呼ばれていた。二神家系図によると室町時代に長門国から豊田氏が移り住んで二神氏を称し、領主になったという。現在は、漁業と農業の島で、周囲の好漁場からタイやタコなどが水揚げされている。農業生産は柑橘に特化しており、収入の柱となっている。

中島 忽那諸島中最大の島で忽那諸島の中心でもある。島のかなりの面積が柑橘園となっており、初夏には島全体がミカンの香りに包まれる。古くは奈良時代の文献に法隆寺領の荘園「骨奈嶋」と見え、平安時代には牛馬牧が置かれ、「忽那嶋」と記されている。その後、豪族忽那氏の本拠地となった。南北朝時代には忽那氏は最盛期を迎え、西瀬戸に勢力を張ったものの、豊臣秀吉の天下統一とともに歴史から姿を消した。その後は、商品作物の島となり、主力作物もショウガ、除虫菊、タマネギと移り変わった。近年は日本一の伊予柑産地として柑橘の島となっている。現在ではトライアスロンの島としても知られている。

野忽那島 忽那諸島東端にあり、四国本土にもっとも近い島。北西向きの湾の奥に集落があり、背後の平地がそのまま東側海岸に続く地形となっている。大正から昭和20年代かけては反物の行商で活況を呈していたが、現在は半農半漁の島となっている。農業は柑橘栽培に特化しており、ミカンの価格が島の経済を大きく左右している。最近は「シーサイド留学」の島として、全国に知られている。

睦月島 忽那諸島東部にあり、羽根を広げたような形の島。東側尾根は変成岩の急傾斜地で、西側は花崗岩で崩れやすく、傾斜は比較的ゆるやか。急傾斜地を除く一面に柑橘園が広がっている。かつては「行商の島」として全国に伊予絣などの反物を売り歩く人が多く、50隻の帆船を持って港もたいへん賑わいをみせたが、現在は柑橘の島となっている。明治22年から昭和35年まで睦野村の役場が置かれていた。「むづき」という島名の由来は、戦いに敗れた武士がこの島に落ちのびてきたとき、空に月が出ていなかった(無月)からとも、火災が続いたので「無須喜」を改めたともいわれている。

興居(ごご)島、松山市の西約2kmにある島。小千御子(おじおおじ)の母・和気姫命(わけひめのみこと)を埋葬したことから母居島と呼ばれていたが、元禄12年(1699)に現在の興居島に改称されたといわれる。瀬戸内海国立公園の中にあり、温暖な気候に恵まれ、周りの海は魚介類も豊富。果物の島と呼ばれるように、ミカンの開花期には全島花一色になる。忽那水軍の島だった歴史もあり、毎年10月6日の秋祭りに演じられる「船踊り」は県指定無形文化財で、毎年4月20・21日2日間にわたる「島四国」という八十八か所巡りも有名だ。最近では、海水浴場はもちろんヨット・釣り・サイクリングなど、観光・レジャーの島としても新たな脚光を浴びている。

釣(つる)島 興居島の西約2kmにある小島。興居島とその北約4kmにある睦月島の間の海峡は釣島水道と呼ばれ、斎灘と伊予灘を結ぶ交通の要衝であることから、水道西側出口に位置するこの島は明治6年愛媛県で最初の灯台が建設されている。北端の砂嘴に集落がある。平坦地は少なく、海岸からすぐに傾斜地となっているが、果樹栽培の耕地に恵まれている。島の産業は伊予柑などの柑橘栽培とタコ壺など農漁業がすべて。とくに伊予柑、タコは極めて良質で、市場では高値で取引されている。元治元年(1854)、興居島の由良から5人が移住して以来約140年、限られた土地で住民は独自の豊かな地域社会を形成し、生活を維持している。現在も島の後継者は育っている。

二子島(無人島) 詳細なし

出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から