2005.9.22~25に出かけた少し古い島旅ですが、皆さん、あまり行かれていないと思いますので、投稿します。
現在は、状況が変わっているかもしれませんが、楽しみにしてください。
いつものように忽那諸島で渡島した島々の情報を書きます。
今回、津和地島、怒和島、二神島、中島、野忽那島、睦月島、興居(ごご)島、釣(つる)島と二子島(無人島)と計9島に渡島しました。
津和地島 忽那諸島西端に位置し、西隣の山口県周防大島の諸島とはわずか700mを隔てるだけの県境の地。急傾斜地は森林、傾斜地は柑橘園、砂地の平地はタマネギ畑と、地形によって土地利用が分かれている。江戸時代中期、西廻り廻船が盛んになると、瀬戸内海有数の風待ち・潮待ち港として栄えた。また、朝鮮通信使などの外交使節や幕府御用船、参勤交代の大名が寄港、接待所として松山藩の「御茶屋」が置かれていた。現在の島は、農業と漁業で支えられており、農業は柑橘が中心だが、畑作はタマネギ・スイカも栽培している。漁業は、タコやタイが水揚げの中心になっている。
怒和島 忽那諸島の西部にある島。2つの集落が島の東西に分かれている。北部の平地に畑が広がっているほか、急傾斜地を除く島全体に柑橘が植えられている。もともとの集落は島の北岸・宮ノ浦にあったが、いつのころからか、現在の上怒和・元怒和の2集落に分かれた。平成12年12月から始まった怒和島宮浦遺跡の発掘調査で中世の集石遺構や奈良~平安期の供献土器が発見され、藤原純友に関係する遺跡ではないかともいわれる。昭和34年までは神和村(怒和島・津和地島・二神島)の役場が置かれていた。産業の中心は柑橘栽培であるが、わずかにタマネギやスイカも作られている。近年ミカン価格の低迷により、ヒラメ養殖が始まり、島の経済の新しい柱として期待されている。
二神島 忽那諸島の南西端にある東西に細長い島。急傾斜地を除くと柑橘園がほとんどを占めている。もとは、島に松が多かったため「松島」と呼ばれていた。二神家系図によると室町時代に長門国から豊田氏が移り住んで二神氏を称し、領主になったという。現在は、漁業と農業の島で、周囲の好漁場からタイやタコなどが水揚げされている。農業生産は柑橘に特化しており、収入の柱となっている。
中島 忽那諸島中最大の島で忽那諸島の中心でもある。島のかなりの面積が柑橘園となっており、初夏には島全体がミカンの香りに包まれる。古くは奈良時代の文献に法隆寺領の荘園「骨奈嶋」と見え、平安時代には牛馬牧が置かれ、「忽那嶋」と記されている。その後、豪族忽那氏の本拠地となった。南北朝時代には忽那氏は最盛期を迎え、西瀬戸に勢力を張ったものの、豊臣秀吉の天下統一とともに歴史から姿を消した。その後は、商品作物の島となり、主力作物もショウガ、除虫菊、タマネギと移り変わった。近年は日本一の伊予柑産地として柑橘の島となっている。現在ではトライアスロンの島としても知られている。
野忽那島 忽那諸島東端にあり、四国本土にもっとも近い島。北西向きの湾の奥に集落があり、背後の平地がそのまま東側海岸に続く地形となっている。大正から昭和20年代かけては反物の行商で活況を呈していたが、現在は半農半漁の島となっている。農業は柑橘栽培に特化しており、ミカンの価格が島の経済を大きく左右している。最近は「シーサイド留学」の島として、全国に知られている。
睦月島 忽那諸島東部にあり、羽根を広げたような形の島。東側尾根は変成岩の急傾斜地で、西側は花崗岩で崩れやすく、傾斜は比較的ゆるやか。急傾斜地を除く一面に柑橘園が広がっている。かつては「行商の島」として全国に伊予絣などの反物を売り歩く人が多く、50隻の帆船を持って港もたいへん賑わいをみせたが、現在は柑橘の島となっている。明治22年から昭和35年まで睦野村の役場が置かれていた。「むづき」という島名の由来は、戦いに敗れた武士がこの島に落ちのびてきたとき、空に月が出ていなかった(無月)からとも、火災が続いたので「無須喜」を改めたともいわれている。
興居(ごご)島、松山市の西約2kmにある島。小千御子(おじおおじ)の母・和気姫命(わけひめのみこと)を埋葬したことから母居島と呼ばれていたが、元禄12年(1699)に現在の興居島に改称されたといわれる。瀬戸内海国立公園の中にあり、温暖な気候に恵まれ、周りの海は魚介類も豊富。果物の島と呼ばれるように、ミカンの開花期には全島花一色になる。忽那水軍の島だった歴史もあり、毎年10月6日の秋祭りに演じられる「船踊り」は県指定無形文化財で、毎年4月20・21日2日間にわたる「島四国」という八十八か所巡りも有名だ。最近では、海水浴場はもちろんヨット・釣り・サイクリングなど、観光・レジャーの島としても新たな脚光を浴びている。
釣(つる)島 興居島の西約2kmにある小島。興居島とその北約4kmにある睦月島の間の海峡は釣島水道と呼ばれ、斎灘と伊予灘を結ぶ交通の要衝であることから、水道西側出口に位置するこの島は明治6年愛媛県で最初の灯台が建設されている。北端の砂嘴に集落がある。平坦地は少なく、海岸からすぐに傾斜地となっているが、果樹栽培の耕地に恵まれている。島の産業は伊予柑などの柑橘栽培とタコ壺など農漁業がすべて。とくに伊予柑、タコは極めて良質で、市場では高値で取引されている。元治元年(1854)、興居島の由良から5人が移住して以来約140年、限られた土地で住民は独自の豊かな地域社会を形成し、生活を維持している。現在も島の後継者は育っている。
二子島(無人島) 詳細なし
出典:(財)日本離島センター発行の「
日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から