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昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

秘島・竹ケ島にも渡る宇和島諸島6島めぐり3日間 28回目

2014-05-08 04:30:00 | 37瀬戸内海・愛媛県
門をくぐると大きな樹がありました。注連飾りも巻かれていました。


(大きな樹が)

その左側の階段を登っていくと拝殿に着きました。


(拝殿)

ここにも太い注連飾りが飾ってありました。


(太い注連飾り)


(拝殿内)

社務所横には、「牛鬼」が飾られていました。


(牛鬼)

境内には、大きな絵馬が飾られていました。


(大きな絵馬)
(写真撮影:2014.01)

秘島・竹ケ島にも渡る宇和島諸島6島めぐり3日間 27回目

2014-05-07 04:30:00 | 37瀬戸内海・愛媛県
高速道路の法面には、まだ雪が残っていました。


(残雪が)

時間があるので、宇和島に着いて、和霊神社へ向かいました。


(和霊神社へ)

「漁業を中心に広く産業の神として、中四国で崇められている和霊信仰。その総本山といえるのが、この和霊神社です。祭神である山家清兵衛(やんべせえべえ)は、米沢の生まれ。伊達秀宗の元で、産業の拡充、民政の安定に手腕を発揮した清兵衛ですが、元和6年(1620)凶刃に倒れました。その後この事件に関与した者が相次いで海難や落雷で変死したため、人々は清兵衛の怨霊だと恐れ、その霊を城北の地にまつりました。それが和霊神社の始まりです。」とインターネットを検索すると書かれていました。


(和霊神社)

門には、太い注連飾りが飾られていました。


(太い注連飾り)

ここには、日本一が3つあるとのことでした。日本一の大鳥居(ミカゲ石づくり 昭和13年建立)、日本一の於多福面、日本一の鼻高面です。大鳥居は、3つ上の写真にあります。


(日本一の於多福面)


(日本一の鼻高面)
(写真撮影:2014.01)

秘島・竹ケ島にも渡る宇和島諸島6島めぐり3日間 26回目

2014-05-06 04:30:00 | 37瀬戸内海・愛媛県
八幡浜港へ戻ります。途中、島影が見えました。佐島だと思います。無人島です。


(佐島)

今度は、九州からのフェリーが並走する姿が見えました。


(九州からのフェリー)

八幡浜港に到着して、今度は、宿泊場所のある宇和島へ向かいました。藁が家の形に積み上げられていました。最近は、機械で刈られるので、こういうものはあまり見かけませんね。


(宇和島へ)

道路と並行して走っている予讃線の電車が走ってきました。3両もつながっていました。


(予讃線の電車)

走っている道路脇に「新鮮市場」と書かれた建物がありました。地産地消の野菜などが売られているようですね。


(新鮮市場)

途中から高速道路で宇和島へ向かいました。


(高速道路で)

秘島・竹ケ島にも渡る宇和島諸島6島めぐり3日間 7回目

2014-04-17 04:30:00 | 37瀬戸内海・愛媛県
ここには、江戸時代の町並の幅員、家並等が忠実に残されています。


(家並みの風景)

伝統工芸品が飾られていました。


(伝統工芸品)

地産地消の野菜や柑橘類が売られているお店もありました。


(地産地消のお店)

神社に大きな灯籠がありました。今も火が点けられているのでしょうか。時間がなく、神社には行けませんでした。


(大きな灯籠)

素晴らしい門構えの老舗の料亭がありました。どんな人が使われるのでしょうか。


(老舗の料亭)

「大洲まちの駅 あさもや」に戻ってきて、八幡浜港へ向かいました。


(「大洲まちの駅 あさもや」)
(写真撮影:2014.01)

秘島・竹ケ島にも渡る宇和島諸島6島めぐり3日間 6回目

2014-04-16 04:30:00 | 37瀬戸内海・愛媛県
懐かしい井戸ポンプや赤い丸いポストがありました。


(井戸ポンプや赤い丸いポスト)

この一角は、「おはなはん通り」と言われているようです。名前は昭和41年のNHK朝のテレビドラマ「おはなはん」のロケが行われたことから由来しているようです。明治から大正の建物が残る「明治の家並み」があります。




(蔵屋敷)

きれいな側溝もあり、魚が泳いでいました。


(きれいな側溝)

「おはなはん通り 休憩所」と書かれた看板がありました。


(おはなはん通り 休憩所)

中を見ると「おはなはん」撮影時の色々なものが飾られていました。


(「おはなはん」撮影時の色々なもの)
(写真撮影:2014.01)

秘島・竹ケ島にも渡る宇和島諸島6島めぐり3日間 5回目

2014-04-15 04:30:00 | 37瀬戸内海・愛媛県
各所で残雪が見られました。


(各所で残雪)

大洲料金所で高速道路を下りました。


(大洲料金所)

トイレ休憩を兼ねて道の駅に向かいました。途中、市内循環のバスが走っていました。最近、各所で運行されていますね。


(市内循環のバス)

着いたのは、「大洲まちの駅 あさもや」でした。


(大洲まちの駅 あさもや)

周囲の案内板がありました。しかし、大洲城へ行く時間がないので、近くを歩くことにしました。


(周囲の案内板)

歩き始めると横に教会がありました。


(教会)
(写真撮影:2014.01)

秘島・竹ケ島にも渡る宇和島諸島6島めぐり3日間 4回目

2014-04-14 04:30:00 | 37瀬戸内海・愛媛県
1時間半くらいのフライトで松山空港に着きました。久しぶりの松山空港です。


(松山空港)

ツアー客、9名の確認を終え、松山空港を出発しました。しかし、9名の中には、知り合いはいませんでした。参加者同士では、挨拶されている方方もいましたので、島旅仲間も世代交代がされているようです。


(松山空港出発)

今回は、9名ということで、ジャンボタクシーでの移動でした。


(ジャンボタクシーでの移動)

前日に雪が降ったとのことで、このジャンボタクシーは宇和島から来たようで、高速道路が閉鎖されていて、一般道で来たと言っていました。とりあえず、一般道で八幡浜へ向かうことにしました。


(一般道で八幡浜へ)

一般道を走っていると「高速道路閉鎖解除」という掲示がされていたので、高速道路に入ることになりました。


(高速道路へ)

高速道路を走っていると山間部の山影には雪が残っていました。


(山間部の山影には雪が)
(写真撮影:2014.01)

秘島・竹ケ島にも渡る宇和島諸島6島めぐり3日間 3回目

2014-04-13 04:30:00 | 37瀬戸内海・愛媛県
乗った飛行機は、「B787-8型」でした。初めて乗りました。


(B787-8型)

団体ツアーなので、座席は、一番後ろでした。余裕があったので、窓側の席に移動しました。


(機内)

窓を見ると日よけのシャッターがありませんでした。


(日よけのシャッターがない)

丸いボタンが着いていて、上が白く、下が黒くなっていました。


(丸いボタン)

黒いボタンを押すと窓ガラスはドンドン暗くなっていきました。白いボタンを押すと明るくなりました。


(窓ガラスは暗く)

順調に飛行機は飛んでいました。ひと寝入りしました。


(順調に飛行)
(写真撮影:2014.01)

秘島・竹ケ島にも渡る宇和島諸島6島めぐり3日間 2回目

2014-04-12 04:30:00 | 37瀬戸内海・愛媛県
今回は、クラブツーリズムのツアーに参加しての島旅です。集合時間が早くて、前泊か、バスか、早くタクシーで始発駅に行くか色々と考えましたが、タクシーで始発駅に行く方が一番確実だと考えて、タクシー会社に予約の電話を入れたところ、その会社では早朝タクシーの配車をやめたのとこと。仕方がないので、家内に頼んで早く自宅を出て、始発駅から電車に乗り、浜松町は、ご覧の時間となりました。


(浜松町)

ツアーの集合場所は、1番時計の下でした。


(1番時計)

早く出たつもりでしたが、私が最後でした。早速、資料とバッチをもらい、搭乗検査場に向かいました。


(搭乗検査場)

飛行機は、7:20発の松山行です。


(松山行)

駐機場には、飛行機が着いていました。


(駐機場)

雲間から太陽が昇ってきていました。少し朝焼けています。


(雲間から太陽が)
(写真撮影:2014.01)

秘島・竹ケ島にも渡る宇和島諸島6島めぐり3日間 1回目

2014-04-11 04:30:00 | 37瀬戸内海・愛媛県
今回は、愛媛県の島旅に出かけました。いつものように今回の島々の概略を書いておきます。

大島 八幡浜港から14kmの海上にあり、接続した大島・山王島・地大島を合わせて大島と呼ばれている。急斜面が多く、標高167mの三能山が最高峰。島内の各所で「地震の化石」とも呼ばれるシュードタキライトを観察できる数少ない場所としても知られている。河川らしきものはなく、集落は海岸部に細長く連なり密集している。山には巨大なドングリの木や亜熱帯植物が茂り、海辺にはハマユウの花が咲く。亜熱帯植物アコウの自生分布では愛媛県の北限とされている。天慶の乱(939年)の藤原純友の支塞があったと伝えられており、漢文9年(1669)の開島とともに若宮神社が建設されて以来3世紀半余りが経過している。自然を生かした漁業とミカン栽培が中心だ。


竹ケ島 津島町の西約10km、宇和海にある周囲3kmの小島。東北にある高島とは砂州でつながっている。地形は急峻で平地が少ない。わずかに1集落31世帯が立地している。元禄13年(1700)に開拓されたと伝えられ、大正7年に住民が土地を買い取るまでは宇和島の大庄屋・赤松家の所有だったという。母屋と呼ばれる家が7軒あり、もともとは日振島からの分家だとか、兵庫の淡路島からの移住によるなど諸説がある。年間を通じて温暖な気候で豊かな海に囲まれていることから、水産業を主として発展してきた。今では昭和38年に母貝養殖を開始した真珠産業の好況下で、ほとんどの世帯が真珠関連産業に従事している。


九島 宇和島港の入口に位置する島。本土からは最短390mしか離れていない。蛤・百之浦・本九島の3集落があり、江戸時代には対岸本土の集落とともに九島浦を形成、明治以降も昭和9年に宇和島に編入するまで九島村として独立していた。海抜320mの頂上まで耕された段々畑は平均勾配40°と急で、ほとんどが柑橘類の果樹園。気候は温暖、降水量にも恵まれている。産業の中心は漁業で、ハマチ・タイ・ヒラメの養殖と小型まき網が盛んである。本土との公共交通機関はえひめ南汽船のフェリーしかなく、九島架橋の建設が期待されている。島名の由来は、宇和島市遊子から数えて9番目の島にあたるので名付けられたという説があるが、定かでない。


(嘉島) 宇和島の西方20km、蒋渕半島から戸島を経て3.5kmに位置する島。島の全域が足摺宇和海国立公園内に含まれる。島の北西部は海食崖となっている。最高点は121m。島の春日神社の縁起によると、勧請は景雲3年(769)といわれている。急傾斜地に段々畑が開かれていたが、ほとんどが荒地となっている。漁業、なかでもハマチ養殖が産業の中心。昔は「加島」と呼ばれていたが、戸数の増加を喜んで、嘉島となったとされる。

(戸島) 宇和島の西方約20km、蒋渕から最短1.1kmにある島。大部分は急峻な山地で、河川らしい川はない。全島が足摺宇和海国立公園内に含まれる。本浦、小内浦、郡の3地区に分かれている。本浦には良港があり、昔から水産業が盛ん。近年では養殖に力を入れ、なかでもハマチ養殖が全国でも有数の生産高を誇る。昔は「渡島」と呼ばれていたが、戸数が増加したのに伴って戸島と称されるようになったとのこと。明治22年に嘉島を含めて戸島村となり、昭和33年の5カ損村合併で宇和海村、49年に宇和島市に編入された。昭和25年には人口2,794人を数えていた。一時は厳しい過疎に悩まされていたが、近年Uターンもみられるようになった。


鹿島 西海町の西端、鹿島の瀬戸をはさんで沖合600mの宇和海に浮かぶ島。江戸時代は一般の人の入島が禁じられた藩主伊達家の狩猟地だった。昭和46年に海中公園の第1号の指定を受けている。海水浴場・キャンプ場・海食洞などがあり、夏には多くの人でにぎわう。海中公園探索の半水中船も就航しており、人気を呼んでいる。


大島(高知県) 高知県と愛媛県の県境、宿毛湾内の片島港の南側に位置する島。16世紀後半に田畑が開かれ始めたが、元和元年(1615)に浜田久兵衛が本格的な開発に着手し、同3年に14軒が移り住み、翌年大島浦として認められた。本土と陸つづきになった片島と長さ50mの大島橋で結ばれている。県立自然公園に指定されており、咸陽島などのみどころがある。島内には桜の植樹がすすんでおり、現在、1万本の桜を植樹している。島の周辺には魚類の養殖場が点在している。


( )付の島は、渡島済の島である。

出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から