今回は、愛媛県の島旅に出かけました。いつものように今回の島々の概略を書いておきます。
大島 八幡浜港から14kmの海上にあり、接続した大島・山王島・地大島を合わせて大島と呼ばれている。急斜面が多く、標高167mの三能山が最高峰。島内の各所で「地震の化石」とも呼ばれるシュードタキライトを観察できる数少ない場所としても知られている。河川らしきものはなく、集落は海岸部に細長く連なり密集している。山には巨大なドングリの木や亜熱帯植物が茂り、海辺にはハマユウの花が咲く。亜熱帯植物アコウの自生分布では愛媛県の北限とされている。天慶の乱(939年)の藤原純友の支塞があったと伝えられており、漢文9年(1669)の開島とともに若宮神社が建設されて以来3世紀半余りが経過している。自然を生かした漁業とミカン栽培が中心だ。
竹ケ島 津島町の西約10km、宇和海にある周囲3kmの小島。東北にある高島とは砂州でつながっている。地形は急峻で平地が少ない。わずかに1集落31世帯が立地している。元禄13年(1700)に開拓されたと伝えられ、大正7年に住民が土地を買い取るまでは宇和島の大庄屋・赤松家の所有だったという。母屋と呼ばれる家が7軒あり、もともとは日振島からの分家だとか、兵庫の淡路島からの移住によるなど諸説がある。年間を通じて温暖な気候で豊かな海に囲まれていることから、水産業を主として発展してきた。今では昭和38年に母貝養殖を開始した真珠産業の好況下で、ほとんどの世帯が真珠関連産業に従事している。
九島 宇和島港の入口に位置する島。本土からは最短390mしか離れていない。蛤・百之浦・本九島の3集落があり、江戸時代には対岸本土の集落とともに九島浦を形成、明治以降も昭和9年に宇和島に編入するまで九島村として独立していた。海抜320mの頂上まで耕された段々畑は平均勾配40°と急で、ほとんどが柑橘類の果樹園。気候は温暖、降水量にも恵まれている。産業の中心は漁業で、ハマチ・タイ・ヒラメの養殖と小型まき網が盛んである。本土との公共交通機関はえひめ南汽船のフェリーしかなく、九島架橋の建設が期待されている。島名の由来は、宇和島市遊子から数えて9番目の島にあたるので名付けられたという説があるが、定かでない。
(嘉島) 宇和島の西方20km、蒋渕半島から戸島を経て3.5kmに位置する島。島の全域が足摺宇和海国立公園内に含まれる。島の北西部は海食崖となっている。最高点は121m。島の春日神社の縁起によると、勧請は景雲3年(769)といわれている。急傾斜地に段々畑が開かれていたが、ほとんどが荒地となっている。漁業、なかでもハマチ養殖が産業の中心。昔は「加島」と呼ばれていたが、戸数の増加を喜んで、嘉島となったとされる。
(戸島) 宇和島の西方約20km、蒋渕から最短1.1kmにある島。大部分は急峻な山地で、河川らしい川はない。全島が足摺宇和海国立公園内に含まれる。本浦、小内浦、郡の3地区に分かれている。本浦には良港があり、昔から水産業が盛ん。近年では養殖に力を入れ、なかでもハマチ養殖が全国でも有数の生産高を誇る。昔は「渡島」と呼ばれていたが、戸数が増加したのに伴って戸島と称されるようになったとのこと。明治22年に嘉島を含めて戸島村となり、昭和33年の5カ損村合併で宇和海村、49年に宇和島市に編入された。昭和25年には人口2,794人を数えていた。一時は厳しい過疎に悩まされていたが、近年Uターンもみられるようになった。
鹿島 西海町の西端、鹿島の瀬戸をはさんで沖合600mの宇和海に浮かぶ島。江戸時代は一般の人の入島が禁じられた藩主伊達家の狩猟地だった。昭和46年に海中公園の第1号の指定を受けている。海水浴場・キャンプ場・海食洞などがあり、夏には多くの人でにぎわう。海中公園探索の半水中船も就航しており、人気を呼んでいる。
大島(高知県) 高知県と愛媛県の県境、宿毛湾内の片島港の南側に位置する島。16世紀後半に田畑が開かれ始めたが、元和元年(1615)に浜田久兵衛が本格的な開発に着手し、同3年に14軒が移り住み、翌年大島浦として認められた。本土と陸つづきになった片島と長さ50mの大島橋で結ばれている。県立自然公園に指定されており、咸陽島などのみどころがある。島内には桜の植樹がすすんでおり、現在、1万本の桜を植樹している。島の周辺には魚類の養殖場が点在している。
( )付の島は、渡島済の島である。
出典:(財)日本離島センター発行の「
日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から