大内九段が引退されましたね。
また一人、昭和の大棋士が土俵を去りました。
お会いしたことはありませんが、
小生としてはとても影響を受けた方です。
大内九段といいますと、振り飛車穴熊の代名詞のように
表されることが多いですが、小生としては、
ツノ銀中飛車の名手だと思っています。
今時、ツノ銀中飛車では、居飛車穴熊に組まれて
なかなか勝てないのですが、それでも未だに
小生は指しています。
一番印象に残っているうのは、勝負に対する姿勢です。
「踏み込むか踏み込まざるか迷った時、
常に踏み込む順を選択する」
そういう将棋だったと思います。
将棋に限らず、仕事もそういう姿勢で取り組んでいると、
なんて言うんでしょうね「鋭く」なって行きますね。
ケンカ早い江戸っ子気質が魅力でもありました。
<大内 延介九段プロフィール>
1941年東京・港区生まれ。故土居市太郎名誉名人門下で、63年四段、72年順位戦A級入りし、八段、84年九段。この間、75年の第1期棋王戦で初タイトルに輝いたほか、全日本プロトーナメント、NHK杯戦など棋戦優勝は8回を数え、激しい攻めの棋風は、「大内怒涛流」の異名がある。75年の第34期名人戦では当時全盛期にあった中原誠名人を土俵際まで追い詰めながら、最後の寄せを誤り名人の座を逃した1局は有名。長年日本将棋連盟の運営に携わり、専務理事、常任理事などを歴任。将棋文化を後世に伝えるための将棋博物館の開設を提唱している。弟子の育成にも熱心で、門下には塚田泰明九段、鈴木大介八段をはじめ6人の棋士と藤森奈津子女流三段がいる。北陸先端科学技術大学院大学教授の飯田弘之六段は一番弟子。
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そういう将棋だったと思います。
将棋に限らず、仕事もそういう姿勢で取り組んでいると、
なんて言うんでしょうね「鋭く」なって行きますね。
ケンカ早い江戸っ子気質が魅力でもありました。
<大内 延介九段プロフィール>
1941年東京・港区生まれ。故土居市太郎名誉名人門下で、63年四段、72年順位戦A級入りし、八段、84年九段。この間、75年の第1期棋王戦で初タイトルに輝いたほか、全日本プロトーナメント、NHK杯戦など棋戦優勝は8回を数え、激しい攻めの棋風は、「大内怒涛流」の異名がある。75年の第34期名人戦では当時全盛期にあった中原誠名人を土俵際まで追い詰めながら、最後の寄せを誤り名人の座を逃した1局は有名。長年日本将棋連盟の運営に携わり、専務理事、常任理事などを歴任。将棋文化を後世に伝えるための将棋博物館の開設を提唱している。弟子の育成にも熱心で、門下には塚田泰明九段、鈴木大介八段をはじめ6人の棋士と藤森奈津子女流三段がいる。北陸先端科学技術大学院大学教授の飯田弘之六段は一番弟子。
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