伴大納言絵巻
出光美術館で、「国宝 伴大納言絵巻展 ―新たな発見、深まる謎―」が2006年10月7日(土)~11月5日(日)に開催されます。(全巻展示は、最初と最後の2週のみです。つまり10/7-10/15, 10/31-11/5のみ。10/10は除く。今回は10時から17時まで、金曜日は19時まで)上巻は、開館40周年記念 出光美術館名品展Iにて拝見しました。(記録はこちら)。今回は、全巻展示ということで、「思いっきり味わいつくす伴大納言絵巻」*1で、予習をしました。
プロデューサと作者
後白河院の求めに応じて、宮廷絵師常盤光長が作成か?
後白河院(1127-1192)は、昨年(2005年)のNHK大河ドラマでの平幹二朗のイメージがあまりにも強く、政治家としては源頼朝をして「日本国第一の大天狗」と言わしめた通りと思い込んでしまっていたが、この夏の京都への旅で、随分修正させられた。
鳥羽天皇の第四皇子。皇位継承順位は低く、激しい継承争いのなか幸運にも即位。そんなわけで、はじめから帝王学は受けてはいないでしょう。院政は「内裏から離れた仙洞御所を根拠としながら、熊野や厳島までしばしば足を運び、ひとびとと自由に接触する開かれた王という側面をになっていた」*3という面もあるようで、院政後は、政治にはそれほど関わらずに済んだようだ。信仰に厚く(蓮華王院本堂を平清盛に作らせ、神護寺の文覚四十五箇条起請文を許可した。)、遊びごとを好み、今様(当時の流行歌)を集成して「梁塵秘抄」を編纂したほか、「年中行事絵巻」など多くの絵巻物を作らせた。こちらの方が本当の後白河院かもしれない。
『平治物語』によれば「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり、「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と父・鳥羽法皇に酷評されていたというが、逆に天下のプロデューサであったようだ。
常盤光長について:常磐源二光長が仕えていた藤原隆信の母は、美福門院の女房加賀。
(藤原隆信(1142-1205)は似絵の名手で、神護寺所蔵の国宝・源頼朝像・平重盛像・藤原光能像などの肖像画は『神護寺略記』に隆信の作と伝えらる。父は長門守藤原為経。母は若狭守藤原親忠女。母の再婚相手である藤原俊成に育てられる(歌人・藤原定家は異父弟にあたる)。子に似絵画家の藤原信実がいる。)
小松茂美氏は、光長と為業(歌人で「大鏡」の作者にも擬せられる。出家して寂念と名乗る)・隆信一族の関係を次のように推定している。とのこと。*3
「その隆信に、絵心の火を注いだのは、いったいたれなのか。また、その芽生えはいつであったのだろうか。まったく根もない茎に花が咲くであろうか。為業の家臣たる絵師常磐源二光長こそ、若き日の隆信に絵の手ほどきを伝授したのではなかろうか。と、私の空想はめぐるのである」(小松茂美氏「日本絵巻聚稿」、中央公論社、1989年)
後白河院の母は待賢門院ですが、美福門院も同時期に女院となっている時代があります。(おまけ:後白河院の時代と身の上をご覧ください)このように女性が競う時代があると文化が花開くのでは、という気もするわけで、そのサロンの中で、似絵や絵巻物が生まれ、その伝統を受け継いだのが、後白河院ではなかったと思ってしまうわけです。院政期の文化という用語が、文化史では使われることが多いようですが、言いえて妙です。
伝来
もっとも古い記録は後崇光院(1372-1456)の『看聞御記』。嘉吉元年(1141)4月26日付で若狭国松永荘 (福井県小浜市周辺) 新八幡宮にあり、後花園天皇にご覧にいれたと記される。
松永荘から若狭国小浜藩主酒井忠勝に献上。酒井家所有に。
1983年に出光美術館の所蔵に
登場人物*1
清和天皇
太政大臣 藤原良房(804-872)。当時摂政。藤原北家の藤原冬嗣の二男。歴史的には、嵯峨天皇の皇女源潔姫を妻とし、妹の順子を女御として権勢を振るう。承和の変、応天門の変(貞観8年(866年))を経て、その後の藤原氏の地位を確立した。
左大臣 源信(みなもとのまこと)。伴善男に目の敵にされていた。
右大臣 藤原良相(ふじわらのよしみ)。良房の弟。政治的には有望な男。伴善男と対立関係になかったらしい。
大納言 伴善男(とものよしお)(809-868)。俊才でつぎつぎに出世する。野心家できれもの。源信を陥れようと画策する。
各巻の内容
【上巻】31.5×827cm 詞書なし 866年閏3月10日放火された応天門に向かう群衆。応天門の燃え上がる水墨と丹、朱による迫真の炎の描写。風上で炎を高みの見物うをする官人と検非違使の様子。「すやり霞」。放火の首謀者と思しき、たたずむ公卿。(紙の継ぎ目)。清和天皇に火事について奏上する藤原良房。それを盗み聞く藤原良相。
【中巻】31.5×849cm 詞書(13C《宇治拾遺物語》巻十「伴大納言応天門をやく事」に同じ) 左大臣源信の屋敷に馳せつける赦免の使い 「すやり霞」 まだ赦免を知らず、祈り続ける左大臣源信。屋敷内の女房の悲嘆 赦免をしって喜ぶ女房 詞書 棟割長屋での子どものけんかから火事の真相が暴露(異時同図法)
【下巻】31.5×918cm 静まる棟割長屋 紅葉の木々 伴大納言の取調べ 詞書 検非違使一向が伴大納言の逮捕に向かう。沈痛な面持ちの老家人。伴納言の屋敷では、悲しみの女房たち、泣き崩れる家来たち、連行される伴大納言。
見所
「すやり霞」(なにもかかれていない空気の塊)による場面転換、遠近感、時間経過の技法。伴大納言絵詞では、かすれているので、注目しないとよく判らない。
「異時同図法」同一人物の異なる時間の場面を1つの画面に描く図法。動画を見ているようにする効果がある。伴大納言絵詞では、子供の喧嘩の場面で用いられている。
炎の表現:青不動(京都 青蓮院)、平治物語絵巻 三条殿夜討の巻(ボストン美術館)、地獄草子 雲火霧(東博所蔵)などにならぶ炎の表現。
表情の百科全書。人物をかたどる線は短く、肥痩に富んでいる。豊かな表情、筋肉の動きが微妙に細かく表現されている。
対比:上巻:混乱した群集と高みの貴族たち。中巻:源信の屋敷の悲嘆 赦免をしって喜ぶ女房。下巻の逮捕に向かう緊張した検非違使たちと、逮捕後の余裕の検非違使たち。
遊び:上巻、尻をかく公卿。中巻:シースルーの女房。
謎:上巻のたたずむ公卿はだれか(通説は伴大納言)。公卿の横の継ぎ目は、詞書削除のためか。良房の体が剥落しているのは何故か。赦免の使者の頭中将が切り取られているのは何故か。詞書の最後には「(伴善男は)いかに悔しかったのだろうか」とある。応天門の変の真相は。そして、最大の謎は、プロデューサは何を意図していたのか。
深まる謎 上巻の剥落のひどかった良房の装束の文様や色彩が光学的調査によって、明らかになり、それが連行される伴大納言と装束と非常に近いことが判明しました。それはいったい何を意味しているのか。絵巻の興味はつきることはありません。とのこと。詞書では、「(伴善男は)いかに悔しかったのだろうか」と書いておいて、良房こそが連行されるべき真犯人だといっているのは、ほとんど明らかでしょう。いやだからこそ、伴大納言の顔が最後に書かれていないのでしょう。犯人は闇だというメッセージです。
P.S.後白河院の母は待賢門院で、閑院流藤原氏の出身であり、藤原北家ではありません。逆に継母である美福門院(藤原北家出身)に対しては特殊な感情をいだいていたのではと、身の上(おまけ:後白河院の時代と身の上を参照)からは想像に難くない。後白河院がプロデューサとしたら、藤原北家批判的な内容を含むとしても、不思議はありません。
参考
*1
*2 詳細画像:http://kikyo.nichibun.ac.jp/emakimono/。国際日本文化研究センターの絵巻物データベース
*3 如月さん「院政期社会の言語構造を探る」
*4
如月さんは、こちらの本を引用していました。
おまけ:後白河院の時代と身の上
後白河院の母である待賢門院璋子(1101-45)(閑院流藤原氏の出身)は、白河院(1053-1029)とその寵姫・祇園女御に養われた。父方の従弟鳥羽天皇(1103-56)に1117年12月に入内、中宮となり、5月に後の崇徳天皇(1119-64)を出産。(つまり白河法皇の落胤)。璋子は後に後白河院を生む。
白河天皇は、1107年に鳥羽天皇に譲位した院政を振るっていたが、1123年にはさらに崇徳天皇に譲位させた白河法皇となり権勢を振った。天下の三不如意「(賀茂川(鴨川)の水・双六の賽(・山法師(比叡山の僧兵)」だけと嘆いたという故事があるほど。また、平清盛(1118-1181)も白河院の落胤とする噂も広く信じられている。(吉川英二原作、溝口健二監督の映画新・平家物語(1955)(詳細はgoo 映画)をNHK-BSで先月見たばかり)
鳥羽上皇は、崇徳天皇を疎んじていたが、白河法皇の亡き後、美福門院得子(1117-60)(藤原北家末茂流)が子を生むと、崇徳天皇に退位を強要し、1142年に近衛天皇を三歳で即位させる。このため、後白河院の母である待賢門院璋子は落飾。(待賢門院の逆修供養ための写経が 法華経(久能寺経)(以前の説明)。
しかし、美福門院得子の子の近衛天皇は、1155年に夭折。崇徳上皇の子である重仁親王が次期天皇の有力候補であったが、このとき、「近衛が若死にしたのは崇徳の呪詛のせいだ」という風説が流れる。美福門院は激怒。鳥羽法皇は、近臣藤原信西(藤原通憲)の推す自分の第四皇子である後白河天皇を即位させる。
鳥羽崩御の直後である1156年、崇徳上皇はクーデタを起こしたが失敗に終わる。保元の乱。さらに1159年に平治の乱が起こり、信西は殺される。このクーデターは平清盛によって鎮圧され、後の平氏政権の基礎が固まった。(これが「平治物語絵巻」として絵巻物になりました。(信西巻の記録はこちら)、六波羅行幸巻の記録はこちら))
出光美術館で、「国宝 伴大納言絵巻展 ―新たな発見、深まる謎―」が2006年10月7日(土)~11月5日(日)に開催されます。(全巻展示は、最初と最後の2週のみです。つまり10/7-10/15, 10/31-11/5のみ。10/10は除く。今回は10時から17時まで、金曜日は19時まで)上巻は、開館40周年記念 出光美術館名品展Iにて拝見しました。(記録はこちら)。今回は、全巻展示ということで、「思いっきり味わいつくす伴大納言絵巻」*1で、予習をしました。
プロデューサと作者
後白河院の求めに応じて、宮廷絵師常盤光長が作成か?
鳥羽天皇の第四皇子。皇位継承順位は低く、激しい継承争いのなか幸運にも即位。そんなわけで、はじめから帝王学は受けてはいないでしょう。院政は「内裏から離れた仙洞御所を根拠としながら、熊野や厳島までしばしば足を運び、ひとびとと自由に接触する開かれた王という側面をになっていた」*3という面もあるようで、院政後は、政治にはそれほど関わらずに済んだようだ。信仰に厚く(蓮華王院本堂を平清盛に作らせ、神護寺の文覚四十五箇条起請文を許可した。)、遊びごとを好み、今様(当時の流行歌)を集成して「梁塵秘抄」を編纂したほか、「年中行事絵巻」など多くの絵巻物を作らせた。こちらの方が本当の後白河院かもしれない。
『平治物語』によれば「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり、「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と父・鳥羽法皇に酷評されていたというが、逆に天下のプロデューサであったようだ。
(藤原隆信(1142-1205)は似絵の名手で、神護寺所蔵の国宝・源頼朝像・平重盛像・藤原光能像などの肖像画は『神護寺略記』に隆信の作と伝えらる。父は長門守藤原為経。母は若狭守藤原親忠女。母の再婚相手である藤原俊成に育てられる(歌人・藤原定家は異父弟にあたる)。子に似絵画家の藤原信実がいる。)
小松茂美氏は、光長と為業(歌人で「大鏡」の作者にも擬せられる。出家して寂念と名乗る)・隆信一族の関係を次のように推定している。とのこと。*3
「その隆信に、絵心の火を注いだのは、いったいたれなのか。また、その芽生えはいつであったのだろうか。まったく根もない茎に花が咲くであろうか。為業の家臣たる絵師常磐源二光長こそ、若き日の隆信に絵の手ほどきを伝授したのではなかろうか。と、私の空想はめぐるのである」(小松茂美氏「日本絵巻聚稿」、中央公論社、1989年)
後白河院の母は待賢門院ですが、美福門院も同時期に女院となっている時代があります。(おまけ:後白河院の時代と身の上をご覧ください)このように女性が競う時代があると文化が花開くのでは、という気もするわけで、そのサロンの中で、似絵や絵巻物が生まれ、その伝統を受け継いだのが、後白河院ではなかったと思ってしまうわけです。院政期の文化という用語が、文化史では使われることが多いようですが、言いえて妙です。
伝来
登場人物*1
各巻の内容
【上巻】31.5×827cm 詞書なし 866年閏3月10日放火された応天門に向かう群衆。応天門の燃え上がる水墨と丹、朱による迫真の炎の描写。風上で炎を高みの見物うをする官人と検非違使の様子。「すやり霞」。放火の首謀者と思しき、たたずむ公卿。(紙の継ぎ目)。清和天皇に火事について奏上する藤原良房。それを盗み聞く藤原良相。
【中巻】31.5×849cm 詞書(13C《宇治拾遺物語》巻十「伴大納言応天門をやく事」に同じ) 左大臣源信の屋敷に馳せつける赦免の使い 「すやり霞」 まだ赦免を知らず、祈り続ける左大臣源信。屋敷内の女房の悲嘆 赦免をしって喜ぶ女房 詞書 棟割長屋での子どものけんかから火事の真相が暴露(異時同図法)
【下巻】31.5×918cm 静まる棟割長屋 紅葉の木々 伴大納言の取調べ 詞書 検非違使一向が伴大納言の逮捕に向かう。沈痛な面持ちの老家人。伴納言の屋敷では、悲しみの女房たち、泣き崩れる家来たち、連行される伴大納言。
見所
P.S.後白河院の母は待賢門院で、閑院流藤原氏の出身であり、藤原北家ではありません。逆に継母である美福門院(藤原北家出身)に対しては特殊な感情をいだいていたのではと、身の上(おまけ:後白河院の時代と身の上を参照)からは想像に難くない。後白河院がプロデューサとしたら、藤原北家批判的な内容を含むとしても、不思議はありません。
参考
*1
思いっきり味わいつくす伴大納言絵巻小学館このアイテムの詳細を見る |
*2 詳細画像:http://kikyo.nichibun.ac.jp/emakimono/。国際日本文化研究センターの絵巻物データベース
*3 如月さん「院政期社会の言語構造を探る」
*4
謎解き 伴大納言絵巻小学館このアイテムの詳細を見る |
おまけ:後白河院の時代と身の上
後白河院の母である待賢門院璋子(1101-45)(閑院流藤原氏の出身)は、白河院(1053-1029)とその寵姫・祇園女御に養われた。父方の従弟鳥羽天皇(1103-56)に1117年12月に入内、中宮となり、5月に後の崇徳天皇(1119-64)を出産。(つまり白河法皇の落胤)。璋子は後に後白河院を生む。
白河天皇は、1107年に鳥羽天皇に譲位した院政を振るっていたが、1123年にはさらに崇徳天皇に譲位させた白河法皇となり権勢を振った。天下の三不如意「(賀茂川(鴨川)の水・双六の賽(・山法師(比叡山の僧兵)」だけと嘆いたという故事があるほど。また、平清盛(1118-1181)も白河院の落胤とする噂も広く信じられている。(吉川英二原作、溝口健二監督の映画新・平家物語(1955)(詳細はgoo 映画)をNHK-BSで先月見たばかり)
鳥羽上皇は、崇徳天皇を疎んじていたが、白河法皇の亡き後、美福門院得子(1117-60)(藤原北家末茂流)が子を生むと、崇徳天皇に退位を強要し、1142年に近衛天皇を三歳で即位させる。このため、後白河院の母である待賢門院璋子は落飾。(待賢門院の逆修供養ための写経が 法華経(久能寺経)(以前の説明)。
しかし、美福門院得子の子の近衛天皇は、1155年に夭折。崇徳上皇の子である重仁親王が次期天皇の有力候補であったが、このとき、「近衛が若死にしたのは崇徳の呪詛のせいだ」という風説が流れる。美福門院は激怒。鳥羽法皇は、近臣藤原信西(藤原通憲)の推す自分の第四皇子である後白河天皇を即位させる。
鳥羽崩御の直後である1156年、崇徳上皇はクーデタを起こしたが失敗に終わる。保元の乱。さらに1159年に平治の乱が起こり、信西は殺される。このクーデターは平清盛によって鎮圧され、後の平氏政権の基礎が固まった。(これが「平治物語絵巻」として絵巻物になりました。(信西巻の記録はこちら)、六波羅行幸巻の記録はこちら))