(今日の写真はキンポウゲ科オキナグサ属の多年草「オキナグサ(翁草)」である。花名の由来は花の後に出来る長いひげを持つ種が翁のヒゲに似ていることとそれを白髪頭に見立てたことによるのである。本州、四国、九州のほとんどの都道府県に自生する。
花は4月から5月に咲き、花茎の先に一輪ずつつける。鐘形の花は、はじめ下向きに咲くが、やがて上向きになる。萼片は6枚。内側は暗紫色だが、外側は白毛に覆われている。 葉の表面はほとんど無毛。根出葉や花茎にも長い白毛を密生し、全体的に白い毛で覆われている。
花の後、球状に多数の種子がつき、長さ3mmほどの種子の先から、3~5cmの長い花柱が伸びて灰白色の羽毛を密生する。
名前の由来となった白いひげ(絮)は、末部に種を着けて、風に吹かれて飛んでいく。
残った数本のひげは花床(禿げた頭)に残るひげ(白髪)そのものである。翁、つまり、「おじいさん草」というわけである。
…私には、岩木山ではめったに見られなくなってしまった「ある花に会いたい」という思いがあった。そこで脇道に逸れて進んだ。
少なくとも五十年前は、今や住宅地となってしまった弘前市内の笹森山でも、まるで原っぱに「敷かれる」ほどに咲いていたものだ。
そして、ひげをたくさん集めてそれを丸めてボールなどを作って遊んだものだった。 まったく「珍しい」花ではなかったのだ。笹森山のみならず、山地の日当たりのいい草原や雑木林の縁に、自生していたものである。
草原自体、岩木山には少ないので絶対量は少なかったが、かつては山麓の草原には確実に咲いていたものだ。
それがどうだろう。とにかくたった一カ所だけ、しかもなかなか増えてくれず毎年二、三本しか咲いてくれないのである。咲く時期になると私の心は落ち着かない。今年は「ある」だろうか。
確かに、今、目の前に咲いている「ひねこびた」ような翁草は、昨年と同じ場所に咲いていた。これは「ある場所」でひそっりとわずかに二輪だけ咲いていたものだ。
その後、もう一カ所咲いている場所を発見したが、そこも多くはない。
青森県には、オキナグサを意味不明のものも含めて…ウバカシラ、オジノヒゲ、オンバカシラ、カワラヂッコ、キヅネノフデ、ジッコノフゲ、シラガアダマ、ツブツケ、ババノシラガ、ボンボラ、ヤツレグサ、ンバカシラなど五十を越える呼び名があるそうだ。
これは、それだけどこにでも咲いていた花であることと、多くの人々から親しまれていたことの証明にもなるだろう。
ゆえに、俳句や短歌にも多く登場する。
・土の香のなにかたのしきおきなぐさ(飯田蛇笏)
…土にしっかりと根を張って、土に生かされ土に生きる植物の母、土壌への感謝。それあいまって共生の関係がほほえましい。その風情が楽しさになったのか。写生に心情を融合した秀句だろう。
・淵べりの枯生におそく咲きいでてくれない冴ゆる翁草の花(半田良平)
…川淵の冬枯れがまだ残っている(春の到来が遅い)ところでようやく、おきなぐさが咲き始めた。なんと鮮やかに紅に冴えわたる花ではないか、という歌意でどうだろう。
歌人の斎藤茂吉は特に好きだったようでこのオキナグサを歌題にしたものが沢山ある。
・白頭翁(おきなぐさ)ここにひともとあな哀し蕾ぞ見ゆる山のべにして(斉藤茂吉)
…山辺で一本のおきなぐさのしかも蕾を目にとめた。ああ、もの悲しくも、なんとなく心惹かれる、という解釈でいいだろう。。
オキナグサが減少した大きな理由は、園芸目的の採集があげられる。美しくかつ珍しい植物の多くが、このような「採集の対象」になっているのである。
もう一つの理由は、オキナグサが生育していた「草地」が「管理放棄により別の植生へと遷移」したことや、「草地」そのものの「開発によって自生地」が少なくなったことである。鰺ヶ沢ゴルフ場は、もともと草原でオキナグサは沢山生えていた。そこも今や、「普通の人」は入れない。
同じ草地に咲くキキョウも同じ運命をたどり、岩木山からはほぼ絶滅した花の一種である。
●● 花の名前は漢字で覚えよう(1)●●
陸奥新報に『岩木山の花々』を書いていた頃のことだから数年前の話しだ。読者から『マルバマンサク(丸葉金縷梅)寒空の一点早春に誘う綾錦』というキャプションを持つ…「ふと何やら色彩が目に飛び込んだ。微動だにしない寒空の一点、早春に誘(いざな)う綾錦、マンサクだ。しかし、全層雪崩の爆風はこのか細い枝に咲く花を震わしたかも知れない。」という文章の「マンサクを金縷梅と漢字表現したこと』についての問い合わせと見解が寄せられた。簡単に言うと『なぜ「万作」という漢字を用いないのか」ということであった。
※漢字は知識や感性に広がりと深まりをもたらす※
漢字は意味を持つ文字であり、仮名はひらかな・カタカナ両方とも音声表記であって意味を持たない。
このことから、漢字の方が頭は使うが論理的には覚えやすいし、知識や感性に広がりと深まりを与えてくれるように思える。
また、書き手にとっては漢字の持つ意味以上の意味を出したり、持たせるために漢字を選ぶことがあるものだ。
その例として、または意味から花に接する一助として、これから書く文を読んでほしいと思う。(明日に続く)
花は4月から5月に咲き、花茎の先に一輪ずつつける。鐘形の花は、はじめ下向きに咲くが、やがて上向きになる。萼片は6枚。内側は暗紫色だが、外側は白毛に覆われている。 葉の表面はほとんど無毛。根出葉や花茎にも長い白毛を密生し、全体的に白い毛で覆われている。
花の後、球状に多数の種子がつき、長さ3mmほどの種子の先から、3~5cmの長い花柱が伸びて灰白色の羽毛を密生する。
名前の由来となった白いひげ(絮)は、末部に種を着けて、風に吹かれて飛んでいく。
残った数本のひげは花床(禿げた頭)に残るひげ(白髪)そのものである。翁、つまり、「おじいさん草」というわけである。
…私には、岩木山ではめったに見られなくなってしまった「ある花に会いたい」という思いがあった。そこで脇道に逸れて進んだ。
少なくとも五十年前は、今や住宅地となってしまった弘前市内の笹森山でも、まるで原っぱに「敷かれる」ほどに咲いていたものだ。
そして、ひげをたくさん集めてそれを丸めてボールなどを作って遊んだものだった。 まったく「珍しい」花ではなかったのだ。笹森山のみならず、山地の日当たりのいい草原や雑木林の縁に、自生していたものである。
草原自体、岩木山には少ないので絶対量は少なかったが、かつては山麓の草原には確実に咲いていたものだ。
それがどうだろう。とにかくたった一カ所だけ、しかもなかなか増えてくれず毎年二、三本しか咲いてくれないのである。咲く時期になると私の心は落ち着かない。今年は「ある」だろうか。
確かに、今、目の前に咲いている「ひねこびた」ような翁草は、昨年と同じ場所に咲いていた。これは「ある場所」でひそっりとわずかに二輪だけ咲いていたものだ。
その後、もう一カ所咲いている場所を発見したが、そこも多くはない。
青森県には、オキナグサを意味不明のものも含めて…ウバカシラ、オジノヒゲ、オンバカシラ、カワラヂッコ、キヅネノフデ、ジッコノフゲ、シラガアダマ、ツブツケ、ババノシラガ、ボンボラ、ヤツレグサ、ンバカシラなど五十を越える呼び名があるそうだ。
これは、それだけどこにでも咲いていた花であることと、多くの人々から親しまれていたことの証明にもなるだろう。
ゆえに、俳句や短歌にも多く登場する。
・土の香のなにかたのしきおきなぐさ(飯田蛇笏)
…土にしっかりと根を張って、土に生かされ土に生きる植物の母、土壌への感謝。それあいまって共生の関係がほほえましい。その風情が楽しさになったのか。写生に心情を融合した秀句だろう。
・淵べりの枯生におそく咲きいでてくれない冴ゆる翁草の花(半田良平)
…川淵の冬枯れがまだ残っている(春の到来が遅い)ところでようやく、おきなぐさが咲き始めた。なんと鮮やかに紅に冴えわたる花ではないか、という歌意でどうだろう。
歌人の斎藤茂吉は特に好きだったようでこのオキナグサを歌題にしたものが沢山ある。
・白頭翁(おきなぐさ)ここにひともとあな哀し蕾ぞ見ゆる山のべにして(斉藤茂吉)
…山辺で一本のおきなぐさのしかも蕾を目にとめた。ああ、もの悲しくも、なんとなく心惹かれる、という解釈でいいだろう。。
オキナグサが減少した大きな理由は、園芸目的の採集があげられる。美しくかつ珍しい植物の多くが、このような「採集の対象」になっているのである。
もう一つの理由は、オキナグサが生育していた「草地」が「管理放棄により別の植生へと遷移」したことや、「草地」そのものの「開発によって自生地」が少なくなったことである。鰺ヶ沢ゴルフ場は、もともと草原でオキナグサは沢山生えていた。そこも今や、「普通の人」は入れない。
同じ草地に咲くキキョウも同じ運命をたどり、岩木山からはほぼ絶滅した花の一種である。
●● 花の名前は漢字で覚えよう(1)●●
陸奥新報に『岩木山の花々』を書いていた頃のことだから数年前の話しだ。読者から『マルバマンサク(丸葉金縷梅)寒空の一点早春に誘う綾錦』というキャプションを持つ…「ふと何やら色彩が目に飛び込んだ。微動だにしない寒空の一点、早春に誘(いざな)う綾錦、マンサクだ。しかし、全層雪崩の爆風はこのか細い枝に咲く花を震わしたかも知れない。」という文章の「マンサクを金縷梅と漢字表現したこと』についての問い合わせと見解が寄せられた。簡単に言うと『なぜ「万作」という漢字を用いないのか」ということであった。
※漢字は知識や感性に広がりと深まりをもたらす※
漢字は意味を持つ文字であり、仮名はひらかな・カタカナ両方とも音声表記であって意味を持たない。
このことから、漢字の方が頭は使うが論理的には覚えやすいし、知識や感性に広がりと深まりを与えてくれるように思える。
また、書き手にとっては漢字の持つ意味以上の意味を出したり、持たせるために漢字を選ぶことがあるものだ。
その例として、または意味から花に接する一助として、これから書く文を読んでほしいと思う。(明日に続く)