岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

地表を這う風に揺らぎ岩肌に咲く白い小旗/リンゴ園となった草山は私の春の日の翳り

2008-04-04 06:57:24 | Weblog
(今日の写真は「地表を這う風に揺らぎ岩肌に咲く白い小旗」と形容されるミヤマハタザオ(深山旗竿)である。これはアブラナ科ヤマハタザオ属の多年草で、花名の由来は、深い山地に生えるハタザオということだが、「ハタザオ」とは、茎の先に咲く白い花を「旗」、細く伸びた茎を「竿」に見立てものである。
 北海道から本州の中部地方にかけて分布し、山地から高山にかけての砂礫地や岩場に生える。

 秋が始まっている季節になっていた。その日は「堰堤」と「沢」、つまり、「堰堤」の建設がいかに、本来の「沢」の機能を変質・破壊し、それに伴い植物などの「自然生態系」を壊してしまうものかをということを、実際に「目」で確認する「観察会」であった。
 その沢には、白くて巨大な堰堤がすでに十四基以上敷設されていた。その異様な景観は巨大な堰堤が沢を埋めつくすというものだった。
 参加者と一緒に下流の第一基目から上流の最後の堰堤を目指して、歩きながら一つ一つその周囲を含めて観察していった。

 …「堰堤」とは、土砂をせきとめるための堤防、ダムである。この巨大な構築物は、相当な底面的基礎部分を必要とするはずだ。上部に堰堤を造る時に出た土石を下部の堰堤前面に埋めている。道路は堰堤をじかに土台にして、道路という「土石流」が堰堤を越えて、「土石をせきとめる」堰堤の心臓部が駐車場として使われている。…何のための建設だったのだろうか。

 とうとう「行者小屋」まで登ってきた。そこは谷の中に広がる狭い平坦地である。
その小屋の横の日が当たる岩場で、堰堤観察という視点から解放されたみんなの目に、白い四弁の小花が飛び込んできた。背丈は30cm、アブラナ科の花ではあるが、黄花のヤマガラシ属ではない。
 白い小花を基準にして、思いめぐらす。ナズナ属か、タネツケバナ属のオオバタネツケバナか、コンロンソウか、イヌナズナ属のエゾイヌナズナか、イヌガラシ属でもない、もちろん葉の形状からワサビ属でもない。
 …となれば、残るはヤマハタザオ属であることは間違いがない。この花の脇に直立する形で種をつけたものがあった。種にはくびれがないのだ。
 そうすると、これは葉には粗い鋸歯があり、萼片は楕円形で、粗い毛が有るハクサンハタザオではないし、ヤマハタザオやイワハタザオでもない。
 何と、これは私にとって岩木山で、その時初めて出会った花であったのだ。数年ぶりの「感動」、まるで「新発見」の喜びであった。

 それにしても、この花は何なのだろう。大体、この仲間の花期は6月から8月なのである。その日はすでに9月の上旬だった。花期がずれている。一体これは何という「ハタザオ」なのだろう。
 花は白色で小さく、まばらについている。背の高さに比して茎が細く、風にあおられて頼りなげになびいているが、地味で気づく人は多くはない。だが、その日の参加者は「自然観察」に秀でた人たちが多い。たちまち、しかも目敏く見つけて、盛んに「この花何ですか」と訊いてくる。即答出来ないことがもどかしい。
 「う~ん、ハタザオの仲間ですね。何なのかよく分かりません」としか答えられない自分が情けない。しかし、心の底では「初めての出会い」に感涙していたのだ。

 残りは葉の特徴からの同定しかない。茎の葉は線状の披針形で裂けていない。鋸歯もない。葉の両面は無毛だし、全体に毛が少ない、などをしっかり観察する。真上と側面からも写真に納めた。
 帰宅してから図鑑と見比べながら調べてみよう。何だかわくわくする。そのような思いの中で、この花「ハタザオ」を見つめていたら、駄作だが次の一首が浮かんだ。

 「柔らかな微風にゆれてハタザオがここを我が地と久しく立てる」

 ところで、開花期がどうして1ヶ月も遅れたのだろうか。その理由は、その場所にあった。そこは沢の底部ではあるが、小高くなっている平坦地だ。冬は雪の吹き溜まりとなり、積雪が多い。しかも、春先の雪解け水の「流れ」に晒されない場所でもある。だから、雪解けが遅いのだ。尾根筋の雪が溶けても、この場所はまだ雪が残っている。遅い雪解けは、遅い春となり、次いで季節の推移も順次、遅れていく。
 尾根筋の風衝地では6~8月に咲くのだろうが、ここでは9月の中旬でもまだ咲いているのである。
 さて、この花はうまく受粉して「子孫」を残せるのだろうか。少し不安になってしまった。

   ●● リンゴ園となった草山は私の春の日の翳り(その1) ●●

 タウン誌・月刊「弘前」から依頼されて書いた原稿用紙3枚の表記の文が、その今月(4月)号に載っている。今日と明日に分けて掲載しよう。

 昨日、出版社「水星舎」に出かけた。社(舎)長のH氏が「(リンゴ園となった草山は私の春の日の翳りを)読みましたよ。いつもの評論文的な文体ではありませんね。小説のようですね」と言ってくれた。驚いた。さすがである。私が意図したことを読み取っていたからだ。

 青春時代とは誰でも「翳り」を持っている。多感であればあるほど「翳り」は大きく深く強いはずだ。時には、大きな「翳り」の陰に埋没して、本人が気がつかない別の翳りもあるようなのだ。

 …私が中学生のころは、一寸と足を伸ばすと直ぐ傍に里山があり「草山」が沢山あった。
家並みの直ぐ裏が雑木林だった。里山が今のようにリンゴ園や杉の植林地になっていなかった。雑木林の沢水も清らかで、沢ガニがたくさんいた。産卵期に雌ガニはキイチゴの実によく似た美しい卵を抱いていたものだ。樹間には山ブドウやフジの太い蔓が垂れ下がり、それにぶらさがって私たちは樹木から樹木へと移動を始める。一人一人が野生児「ターザン」になっていた。
 秋になると、よくミズナラに櫓を組んで、仲間だけの「砦」を造り、家を抜け出して、そこで一晩を明かした。天体を交えた自然との四六時を、風のそよぎ、獣の声と足音、鳥のさえずりと共に過ごす週末だった。もちろん、ハシバミ、栗、ヤマブドウ、アケビなどの「採集」に勤しんだ。その雑木林を登り切ったなだらかな場所が山頂で、春にはオキナグサの咲く草山が開けていた。中学生の私は、その草山にかなり頻繁に出かけていた。
 学校の帰り、時には「授業をさぼって」出かけたこともある。一人の時もあったが同級生のK君と一緒のことが多かった。K君とは3年間ずっと同じクラスだったし、部活も同じ柔道部だった。K君とは、私が弘前の全日制高校を中退して北海道に渡るまでの一年生の2ヶ月間に数回、この草山に登った。(続く)