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妻と二人で愛車プリウスに乗って、4月12日(木)から一泊で神奈川県の大磯・湯河原方面へ出かけました。
先ずは大磯城山公園内にある「旧吉田茂邸」を見て歩きました。
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この門はサンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられたもので、別名「講和条約門」とも言われています。
軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから「兜門」と呼ばれます。
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昭和36年頃に完成した日本庭園は、中心となる心字池を邸宅の正面に配置した、池泉回遊式の庭園です。
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「七賢堂」はかつて七賢人(岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允・伊藤博文・西園寺公望・吉田茂)の写真が祀られていました。
元々、明治36年に伊藤博文が、明治維新の元勲のうちの4人(岩倉・大久保・三条・木戸)を祀った四賢堂を自身の邸宅「滄浪閣」に建てたものでした。
伊藤博文の死後、婦人により伊藤博文を加えた5人が祀られ、「五賢堂」となり、昭和35年に吉田茂邸に移設され、昭和37年に吉田茂が西園寺公望を合祀し、吉田茂の死後、昭和43年に佐藤栄作の名によって吉田茂が合祀され、「七賢堂」となりました。
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言うまでもなく、吉田茂(明治11年~昭和42年)は、戦前に外務官僚として諸外国での領事、書記官、大使などを歴任し、戦後は通算5期(6年2ヶ月)に渡って内閣総理大臣を務めた戦後の代表的な政治家です。
また、池田勇人や佐藤栄作など、多くの後進を育ててきたことでも知られ、本邸は彼ら「吉田門下生」がよく訪れていた場所でもあります。
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吉田茂銅像は昭和58年に建立されました。
日米講和条約締結の地、サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けていると言われています。
銅像付近からは眺望が良く、富士山、伊豆半島、相模湾、房総半島などが一望できます。
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旧吉田茂邸は、もとは明治17年(1884) に吉田茂の養父・吉田健三が土地を購入し、別荘を建てたのがはじまりです。
養父亡きあと吉田茂が邸宅を引き継ぎました。
昭和20 年(1945) より大磯の邸宅を本邸とし、晩年を過ごしました。
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玄関ホールから右手に進むと「楓の間」と名付けられた応接間になっており、暖炉を中心に、ソファーが配されています。
焼失前はこの部屋に執務机も置かれていたそうです。
昭和54年には、この部屋で、大平首相とカーター大統領が日米首脳会談を行ったという歴史の舞台でもあります。
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応接間に隣接する浴室には、大磯の船大工が関わったという舟形の浴槽が配されていました。
様式は欧米スタイルですが すべてが木造なのです。
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応接間棟の二階から降りて展示・休憩室を通り抜けて建物の反対側に進むと新館があります。
吉田茂はかねてから自宅を海外からの賓客を迎えるための迎賓館とする思いを持っており、昭和30年代に増改築を行いました。
写真は、アールデコ調の「ローズルーム」と呼ばれる食堂です。
この部屋の特徴的な壁を覆うレザーは、建設当初は子羊の皮が使われていたそうです。
新しく赴任した外交官補を家に招待し、この食堂でもてなすこともあったそうです。
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新館二階には金の間・銀の間と呼ばれる二つの部屋があります。
名前の由来はそれぞれ金と銀の装飾で統一されていることだそうです。
「金の間」は賓客をもてなす応接間で、海外の首相や皇族の方々がお見えになったそうです。
窓から太平洋や箱根さらに富士山を望める眺望の素晴らしい部屋です。
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「銀の間」は寝室兼書斎として使っていたところです。
金の間に比べやや落ち着いた雰囲気のこの部屋は、吉田茂が最後の時をむかえたところです。
ワンマン宰相とも言われましたが、戦後の日本の復興に力を尽くした政治家が生涯を終えた部屋です。
日本国憲法の制定にあたって第九条の戦争放棄について議論がなされ、「戦争一般ではなく侵略戦争の放棄とすべきではないか」と言う意見もあったそうですが、吉田首相は「多くの戦争が防衛の名のもとでの侵略戦争であった」と述べ、「正当防衛を認めることは戦争を誘発することになりかねないので、戦争放棄には例外がない」と答弁したと言います。
誰かに聞かせてあげたい話ですよね。
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