若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

北海道3泊4日の旅ーその2-札幌

2015年06月25日 | 旅行


6月16日(火)北海道旅行の2日目は函館から特急北斗に乗って札幌へ行きました。

平日にもかかわらず指定席、自由席ともに満車で1時間以上並んでやっと自由席を確保できました。

札幌駅には14時過ぎに着いたのでお腹もペコペコです。



札幌での昼食は何と言っても札幌ラーメンと言うことで、札幌駅前エスタ10Fのラーメン共和国にある「吉山商店」で「焙煎ごま味噌ラーメン」を食べました。

この店の人気No.1だけあって2種類の白味噌と練りゴマをラードで香ばしく焼き上げ風味を出したトンコツベースの味噌ラーメンは最高でした!!。



お腹も満腹になった二人は駅から5分のホテルに荷物を預けて散策開始です。

最初に行ったのが札幌観光の定番中の定番のひとつである「札幌市時計台」です。

「時計台の正面のビル2階にテラスがあり、そこが撮影ポイントになっているのよ!」という妻のご託宣にしたがって、その場所から撮りました。

「日本三大がっかり名所」のひとつにあげられているそうですが、そんなことはありません。

100年以上の間、この場所で札幌の発展を見守ってきた時計台は威風堂々、立派なものです。

きっと時計台が有名すぎて、訪れる人の期待が大きすぎるのかもしれませんね。



大通りに出ると左手に見えるのが「さっぽろテレビ塔」です。

昭和31年完成以来、半世紀以上にわたって札幌の発展を見届けるランドマーク的存在となっており地上約90mの展望台からは、季節ごとに表情を変える大通公園の美しい風景やイベントの様子が楽しめ、天気がよければ石狩平野や日本海も見渡せるそうです。



大通り公園は普段はのんびりとした憩いの場所ですが、北海道を代表するイベントの会場です。

春はライラックまつり、夏はYOSAKOIソーラン祭りやビアガーデン、秋には北海道の食が集合するオータムフェスト、冬は世界的なイベントに発展した雪まつりと、季節ごとに楽しめるそうです。



北3条通から西方面を望むと、突き当たりに堂々とした姿の「北海道庁旧本庁舎」が見えてきます。

「赤れんが庁舎」の愛称で知られる煉瓦づくりの建物で、明治21年に建てられたアメリカ風ネオ・バロック様式の建築です。

内部には道立文書館、歴代長官・知事が執務した記念室などがあり、建物は国の重要文化財に指定されています。



札幌市内散策の大トリは何と言っても「北海道大学」でしょう。

「北海道大学」は、日本初の学士授与機関として明治9年に設立された札幌農学校を直接の母体とする大学です。

札幌農学校初代教頭であるウィリアム・スミス・クラーク(マサチューセッツ農科大学前学長)が、米国帰国にあたり札幌近くの島松(恵庭市)で馬上から叫んだという「Boys, be ambitious.」(少年よ、大志を抱け)は、現在でも北海道大学のモットーとして受け継がれています。



北大の正門から2、3分歩くと、気持ちの良さそうな広い芝生広場が正面に見えてきます。

「中央ローン」と呼ばれているこの芝生広場は、公園のような緑溢れる北大の札幌キャンパスを象徴する場所であり、観光客にも大変人気のある所だそうです。



中央ローン北西角に設置される「クラーク像」は代表的な青銅製の胸像で、市内にあるクラーク像の中では最も古いものです。

羊ヶ丘展望台に全身像が建立される以前は大学構内にあるこの胸像が有名で、多くの観光客が訪れておりました。

しかし次第に観光客が観光バスで訪れることが多くなり、大学の研究活動に支障が出るとして観光バスの入場を禁止したため、札幌観光協会では羊ヶ丘展望台に新たにクラーク像を建立したということだそうです。



札幌農学校から東北帝国大学農科大学を経て、独立の帝国大学への道を歩んでいた頃、当時の古河財閥の寄付によっていくつかの教室が作られました。

その一つの林学教室が、明治42年に建設された「古河記念講堂」です。

随所に見られる、欄間や扉などに「林」の文字をデザインした装飾が目を引きます。

壁の白さがひときわ映える洋風の建物が、大学構内でドッシリとした風格を見せています。



最後は北大のシンボルとして絶大な人気のある「ポプラ並木」です。

長い歴史があり観光客にも馴染みのあるポプラ並木ですが、2004年9月に北海道へ上陸した台風18号により、ポプラ並木の約4割にあたる27本のポプラが倒壊しました。

一時的にポプラ並木はその存続も危ぶまれましたが、札幌市民や全国からの寄附金により若木が植樹されるなど立派に再生され、現在は全長250メートル、計72本からなる並木道になっています。

なおこれ以外にも是非撮りたかった「札幌農学校第二農場」と「総合博物館」は、残念ながら耐震改修工事のため、中へ入ることも外からカメラに収めることも出来ませんでした。



北海道3泊4日の旅ーその1-浪漫・函館

2015年06月20日 | 旅行


6月15日(月)~6月18日(木)妻と二人で北海道へ旅行に行ってきました。

大宮駅6時58分発の新幹線と新青森発10時17分の特急スーパー白鳥に乗って函館には12時22分に到着です。



「先ずは腹ごしらえ」と言うことで、朝市どんぶり横丁の「馬子とやすべ」という店で「朝市五色丼」を食べました。

ウニとイクラと甘エビとサーモンに蟹またはホタテを選びます。

妻は写真右のホタテを、私は写真左の蟹を選びました。



美味い朝市五色丼を食べて気を良くした二人は、バスに乗って元町方面へ向かいました。

「十字街」で降りて、有名な「八幡坂(はちまんざか)」の敷き詰められた石畳を昇ります。

振り返ると眼下にはハッと息を飲むような青い海と函館港です。



八幡坂を昇りきったところが北島三郎の母校である函館西高校ですが、左折すると右手に見えるのが「函館ハリストス正教会」です。

名前のハリストスとはキリストのことで、江戸末期、ロシア主教ニコライによって日本で初めてロシア正教が伝導され、ロシアの領事館及び礼拝堂として建てられた教会です。

異国情緒漂うエキゾチックな町並みを形作る洋風建築物の代表格と言えるもので国の重要文化財に指定されています。

白壁と緑屋根の外観に加え、美しい音色を奏でる鐘があることも有名で、市民には「ガンガン寺」の愛称で親しまれているそうです。

外壁の塗り直しということで足場が設置されていたのが残念でなりません。



ハリストス正教会のすぐ下にある、荘厳なゴシック建築の教会が「カトリック元町教会」です。

赤い屋根と風見鶏がエキゾチックな雰囲気を漂わせています。

江戸末期にフランスの宣教師が仮聖堂として建てたのが始まりで横浜の山手教会、長崎の大浦天主堂と同様に古い歴史を持っています。



高い所が大好きな妻が「早く函館山に昇りたい・・・」と言い始めたので、ロープウェイに乗って、函館山の山頂展望台へ。

函館山から眺める昼景は、世界一とも言われる夜景に負けず劣らずの絶景でした。



展望台からロープウェイで降りて再び元町教会群にもどり「函館聖ヨハネ教会」を訪ねました。

明治7年、イギリスの宣教師デニングが来函し伝道を始め、その4年後に建てられた聖堂です。

北海道の聖公会では最も古い歴史を持つ教会で現在の建物は昭和54年に改築されたもので、上から見ても十字の形をしたモダンなデザインになっています。



八幡坂を横切って「ソフトクリーム通り」を歩いて行くと、「基坂(もといざか)」の正面にどっしりと構えている立派な建物が「旧函館区公会堂」です。

「旧函館区公会堂」は、明治43年に建てられた左右対称のコロニアルスタイルとブルーグレーとイエローの色が特徴的な美しい建物です。

当時としては最もモダンな建物であった公会堂は、今なお基坂の下から見上げる華麗な姿から、元町のランドマークと呼ばれているそうです。



江戸時代「御殿坂」と呼ばれた基坂を下ると、右手に見えるレトロな建物が「旧イギリス領事館」。

国際貿易港として江戸末期の安政6年に開港した函館で、同年にイギリス領事館も設置されました。

現在は領事館として20年間使用していた建物を復元し、開港記念館として一般公開されています。



13日(土)の「旅サラダ」というテレビ番組で女優の星由里子さんがここの1階のティールームでアフタヌーンティーセットを召しあがられていたのですが、ミーハーな私たちは同じ窓際の席で、本場英国のケーキセットを頂きました。



「元町エリア」の次は「ベイエリア」の赤レンガ倉庫群です。

見晴らしの良い「日和坂(ひよりざか)」をのんびり下って函館の波止場を歩きました。

「金森赤レンガ倉庫」には、函館土産はもちろん、おしゃれな雑貨やグッズを扱うショップが多数入っています。

隣接する「はこだて海鮮市場」では鮮魚をはじめ加工品や珍味、銘菓までが勢ぞろいです。



函館散策の最後は「五稜郭」です。

路面電車に乗って函館駅から15分ほど、電車から降りて歩いて10分ほどで「五稜郭公園」に到着です。

「五稜郭」は北方防備の目的で造られた、日本初のフランス築城方式の星型要塞で国の特別史跡に指定されています。

幕軍と官軍の最期の戦いである箱館戦争の舞台となったことでも有名です。

五稜郭タワーの展望台からは五稜郭の美しい星形と函館市街や函館山を見ることができます。

「特別史跡五稜郭」の美しさと壮大さに満喫した私たちは再び路面電車に乗り、今夜の宿泊先である「湯の川温泉」に向かいました。


郡山市麓山通りを見て歩く

2015年06月09日 | ドライブ


5月8日(金)妻と二人で愛車プリウスに乗って福島県郡山市の麓山(はやま)通りの建物を見て歩きました。

開成山公園の駐車場に車を停めて麓山通りを駅方面に歩きます。

最初に行ったのが「こおりやま文学の森」の中にある「久米正雄記念館」です。

(写真は同じく「こおりやま文学の森」にある「郡山市文学資料館」)



昭和5年に鎌倉の二階堂に建てられた久米正雄邸は、正面から見ると白壁の完全な洋風ですが、廊下を渡りひとたび裏に回れば純和風の部屋がならぶという当時としては非常にモダンな和洋折衷の造りをした建物です。

久米はここを終の棲家として作家生活の後半をここで過ごしたそうです。



次に行ったのが「郡山公会堂」です。

レトロな時計台のある「郡山公会堂」は大正建築の代表的な建物で、大正13年の市制施行を記念して建てられました。

オランダデン・ハーグの平和宮、および大阪市の大阪市中央公会堂がモデルと伝えられています。

東日本大震災で被害を受け、修復工事で立ち入り禁止の見られない状態でしたが、今は修復工事も終了していました。



「21世紀記念公園」を通り抜けると「合同庁舎」が見えて来ました。

「合同庁舎」は昭和5年に旧郡山市役所として建てられた近代建築で、現在では少なくなった当時の役所建築として非常に貴重な存在で、映画などの撮影にも使われたことがあります。



細沼町にあってなかなか探し出せなかったのが、この「日本基督教団細沼教会礼拝堂」です。

市中心部の官庁街近くにあり,東北伝道の拠点として建てられたと伝わる礼拝堂です。

縦長の突き出し窓の上のトレーサリーと,緩やかな放物線状の天井が特徴的で、通り角地に面してバトルメント付3階建塔屋を配し,街路景観における礼拝堂の象徴性を高めています。



次にこれも探すのに苦労した「金透記念館」。

坂の上にある郡山で最も歴史のある金透小学校のグランド北側にあります。

明治6年に盛隆舎として開校した郡山尋常小学校が、増大する児童を収容する為に明治9年におよそ1年の歳月をかけて完成させた和洋折衷校舎です。

完成直後の明治9年には明治天皇の東北巡幸に際して2階東端の礼法室が休息所として使用されました。

その後、老朽化により解体され昭和53年に鉄筋コンクリートで復元、正面上下の玄関だけが原型のごく一部として残されているようです。




「麓山通り見て歩き」もいよいよ大詰め。

開成山公園駐車場に戻り、公園を通り越した所に「安積開拓発祥の地・郡山市開成館」があります。

観覧料は65歳以上の私には無料です。(笑)

入ってすぐ左手に見えるのが「安積開拓官舎-旧立岩一郎邸」です。

明治12年に郡山に赴任し、開拓出張所長となった立岩一郎が使用し、のちに払い下げを受けたものです。

明治天皇行幸の際に随行した岩倉具視や、安積疏水の通水式に訪れた明治政府高官の伊藤博文、松方正義が宿泊したと伝えられています。



その右隣に建つのが「安積開拓入植者住宅-旧小山家」です。

明治15年に松山から移住した「愛媛松山開墾」15戸の中の1戸で、当時の開拓者の代表的な住宅の形を今に残すものです。

不毛の大地に挑んだ開拓者たちの厳しい生活の様子を、現在に伝えています。



その裏手に建つのが「安積開拓入植者住宅-旧坪内家」です。

明治14年に鳥取から移住した「鳥取開墾社」の副頭取・坪内元興(つぼうちもとおき)の住宅です。

坪内家には、明治政府の黒田清隆、三島通庸などの高官が安積開拓の視察をした際に休憩したことが、当時の文書に記されています。



最後は「開成館」です。

明治7年に区会所(郡役所の前身)として建築され、安積開拓の核である「福島県開拓掛」の事務所が置かれた擬洋風建築(西洋風に似せた建物)です。

明治9年、14年の明治天皇東北行幸の際には、行在所(あんざいしょ、天皇の宿泊所)や昼食会場として使用されました。

現在は安積開拓や安積疏水の開さくに関する資料等を展示公開しています。

最後にもうひとつ載せたいところがあったのですが、時間の都合で今回は行けませんでした。

「安積歴史博物館」です。

初孫が生まれた時に訪れた写真が私のホームページ「お気に入りの街ー郡山市」にありますので載せておきます。

早いもので、その孫も小学校6年生になりました。



郡山市麓山通りを見て歩いた私たちは翌9日は爺婆にもどり、孫たちの運動会での頑張りに声援を送りました。



群馬県甘楽郡小幡の城下町風情を巡る

2015年06月05日 | ドライブ


5月3日(日)妻と二人で愛車プリウスに乗って、群馬県甘楽郡甘楽町小幡の城下町を歩いてきました。

「道の駅 甘楽」に車を停めて小幡の城下町風情を巡るコースです。

「道の駅 甘楽」では四季折々の新鮮な農産物や土産の販売を行なっており、食堂では特産のきじ肉、もちきびを使った名物桃太郎ごはんの各種定食や上州和牛のすき焼き定食等が大の人気で「40分~50分待ち」も珍しくありません。



江戸時代に名主を務めた松井家を移築復元した草葺き住宅が、「道の駅 甘楽」に隣接しています。

木造、草葺き、平屋建て、寄棟造りで、農家造りとして古い建築手法をとどめています。



「道の駅 甘楽」を出て坂道を昇り、小幡の交差点を左折して歩きます。

甘楽町を南北に流れる「雄川堰」はおよそ400年前に構築されたものと推測され、古くから住民の生活用水や非常用水、下流の水田のかんがい用水として利用されてきました。

日本名水100選に選ばれています。



雄川堰沿いに明治中期に建築された養蚕農家群が建ち並び、風情ある町並みを形成しています。

養蚕農家の建物は、天窓設けた屋根に特徴があり、敷地は奥行きの長い短冊形となっています。

4月上旬の桜まつりの時期には、その景観の美しさに多くの観光客が訪れるそうです。



南に戻って西側の路地を少し入ったところに「宝泉寺」がありました。

七福神のひとつである恵比寿さまを祀っています。

参道には石造の薬師様が安置されていて昭和51年に重要文化財に指定されています。



雄川堰(桜並木)に戻って南下すると今度は東側に「小幡八幡宮」がありました。

「小幡八幡宮」は、小幡織田家3代 信昌の時代に創建された神社で、応仁天皇をご祭神とした素朴で味わい深い神社です。

神社は、小高い場所に拝殿が建ち、拝殿した石段の両脇に組まれた石垣が歴史と風情を感じさせてくれます。



再び雄川堰に戻って小幡の交差点を更に南に歩くと、左手に昔の映画にでも出てきそうな古民家がのれんを下げていました。

「お休み処 信州屋」です。

信州屋は平成25年4月に往時のたたずまいを残したまま改修し、無料休憩所・観光案内所として甦りました。

旧家は明治後期に信州から移住した家族が建て、質店「信州屋」を開業し、その後、薬や雑貨など幅広く商ったそうです。



大手門の交差点の右手に見える赤レンガの建物は「甘楽町歴史民俗資料館(旧甘楽社小幡組倉庫)」です。

生糸などを保管するために大正15年に建設されたレンガ倉庫で、近代化遺産とぐんま絹遺産に認定されています。

現在は町の歴史民俗資料館として利用されており、養蚕資料や道具、小幡氏紋付赤備具足、円空の木彫仏像などが展示されています。



歴史民俗資料館から200mほど南下して右手に折れると道幅14mの「中小路」という武家屋敷地区に入ります。

甘楽町は、織田信長の次男・信雄から8代(152年)にわたり織田氏が統治した土地で、織田家ゆかりの城下町として当時の面影を残しています。



小幡の武家屋敷の中でも、昔の様子を最も残しているのが、小幡藩勘定奉行「高橋家」の屋敷と庭園です。

長屋門の形式や蔵の築年等に明治以降の民家建築の影響も覗えますが、白壁と板塀が城下町らしい風情のある町並みを見せています。



「松平家大奥」の庭園です。

大奥といっても2万石の小幡では、奥方と何人かの腰元だけでした。

庭園は江戸後期に造られ、静の庭(流れのない池)と言われる大奥にふさわしい落ち着いた感じの庭園です。



旧陣屋の中小路に面して造られた山田家の「喰い違い郭」です。

戦の時の防衛上のために造られたとか。

また、下級武士が上級武士に出会うのを避けるため隠れたともいわれています。



以上で今日の城下町風情巡りを終え、御殿前通りから「せせらぎの道」を歩いて愛車プリウスと昼食の待つ「道の駅 甘楽」に戻りました。