若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

本郷界隈から御茶ノ水散策

2009年02月21日 | 電車でおでかけ




妻と二人で東京にでかけました。

吹上駅から上野駅まで高崎線でちょうど1時間です。

本郷界隈から御茶ノ水付近まで歩くことにしました。

最初に上野駅から不忍池を通って旧岩崎邸庭園に行きました。







ここは三菱財閥岩崎家本邸として明治29年に完成しました。

かって1万5千坪を超える敷地に20棟以上の建物がありましたが現存するのは洋館・和館・撞球室の3棟のみです。

洋館は木造2階建て・地下室付きの本格的なヨーロッパ式邸宅で、英国人ジョサイア・コンドルの設計です。

イギリス・ルネサンス様式が取り入れられています。







木造ゴシック様式の撞球室(ビリヤード室)です。

校倉造の外観はスイスの山小屋風で洋館と同じくジョサイア・コンドルの設計です。

洋館の地下室とは地下通路で結ばれています。







旧岩崎邸庭園から春日通りを歩いてすぐのところに湯島天神があります。

ちょうど「湯島天神梅まつり」の真っ最中でした。







梅の花がかくも見事に咲いており、受験シーズンとも相まってたくさんの参拝客でごった返していました。







湯島天神から春日通りを本郷に向かう途中、春日局の菩提寺「麟祥院」に立ち寄り、春日局の墓に参拝してきました。

文京区「春日」の地名は春日局が乳母として使えた3代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し昔は春日殿町とよばれていたそうです。








本郷三丁目交差点を右に折れ国道17号線を北に進むと東京大学の赤門にやってきました。

この赤門は旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門であり、1827年に第13代藩主前田斉泰が第11代将軍徳川家斉の第21女、溶姫を迎える際に造られたそうです。







赤門を入って銀杏並木と素晴らしいゴシック様式の校舎を見ながら歩いていくと有名な三四郎池に出ました。

三四郎池の正式名称は、「育徳園心字池」というそうです。

この池は、江戸時代は加賀藩邸の庭園の一部だったそうですが、明治に入って東京大学に移管され、後に夏目漱石の小説『三四郎』にちなんで、「三四郎池」と呼ばれるようになったそうです。








法文2号館アーケードです。

法文1号館と法文2号館は安田講堂を突き当たりとする道を挟んで左右対称に設計されており、通りに直角に両建物を横切って古風なアーケードが設けられています。

列柱には古代ギリシャ風の彫刻が刻まれ、現代では考えられない贅沢な造りです。

もう・・・さすが東大!!という感じですね。








東京大学のシンボル「安田講堂」です。

時計を見ると12時を過ぎていたので安田講堂前広場の地下にある中央食堂で昼食をとりました。

安いし美味いし・・・超エリートたちが静かに食事をしているドーム状の構造が素敵らしく「ここが家の近くであれば毎日でも来たいわ・・」というほど妻はお気に入りのようでした。(笑)









東大を出て国道17号線を御茶ノ水方面にもどり湯島聖堂、聖橋を渡ってニコライ堂を写真に収めました。

ニコライ堂の名で知られる東京復活大聖堂教会は、ギリシャ正教とも呼ばれる正教会の教会です。

主イイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ語読み)の復活を記念した聖堂ですが、ロシアから正教伝道のために来日し日本に骨を埋められた亜使徒聖ニコライがその建立にあたったことから「ニコライ堂」の名で知られています。








最後に神田明神に参拝して妻恋坂から池之端一丁目を通り不忍池に戻りました。

午前10時頃から昼食をはさんで4時間余、ちょうど良いウォーキングでした。

心地よい疲れと喉が渇いたので上野駅構内の「ドトール珈琲店」でコーヒーを飲んで帰路に着きました。




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日光街道ー幸手宿ー志手橋から荒宿まで歩く

2009年02月15日 | ウォーキング





今日は日光街道で江戸から6番目の宿・幸手に妻と二人ででかけました。









志手橋を渡ると幸手宿で、右馬之助町、久喜町、仲町、荒宿からなっています。

いずれも宿場の古い面影を残しています。









関東大震災前まで上庄の屋号で醤油醸造業を営んでいた岸本家です。

妻入り一部蔵造りの母屋の端正な姿が道に面しています。









幸手宿は日光街道と日光御成街道が合流する宿場町として栄え江戸川や権現堂川を使った舟運も盛んだったようです。








永文商店は旧商家造りの酒店ですが、家の中にトロッコのレールがあるのには驚きました。








旧街道の道路の歩道の所から、トロッコのレールが見えます。

奥の倉庫迄まっすぐにレールが延びています。

現在でも、品物を運ぶ際に利用するそうです。








奥行きが広い平井家です。

戦前までは「味噌屋」という屋号の米穀商であったそうです。









飯村医院です。










白木綿を東京に出荷し大正期から薬局を始めた角田屋の関家です。

間口の狭い、奥行きの深い町家を残しています。










荒宿から国道4号線を越えて幸手権現堂桜提まで足を伸ばし10時から2時間余り、妻と二人で幸手宿を歩きまわりました。

今日も暑かったですね。

妻はそろそろ花粉症も始まったようです。










お腹も空いたし初夏並みの暑さで少しグロッキー気味になったので、国道4号線沿いの「夢庵」で昼食を食べ、帰路に着きました。




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日光街道ー春日部宿ー粕壁

2009年02月08日 | ウォーキング





春日部駅には大宮・岩槻~野田・柏・船橋を結ぶ東武野田線と北千住・浅草~東武動物公園・館林・太田を結ぶ東武伊勢崎線が乗り入れています。

歩行者は駅舎に自由通路がないので駅から約200m南にある水族館風の地下道を通って東口と西口間を行き来しなければなりません。

駅東口は西口と違って電柱が地下に埋め込まれており、そのぶんすっきりとした感じはします。









駅東口から公園橋通りを北に歩き最初の信号を左折して北西側に進むと最勝院(さいしょういん)が見えてきます。

正式には新義真言宗智山派の寺院「花林山最勝院慈恩寺」というそうです。

近くには妙楽院、成就院、玉蔵院、普門院など寺院があり、古く寺町と呼ばれた面影を残しています。

境内が広く、その昔、大相撲の地方巡業やサーカス、村芝居の興行などにも利用されたそうです。









最勝院から旧日光街道(かすかべ大通り)を東に歩くと、粕壁宿の面影を残す古い街並みが見えてきます。

慶長年間創業の米穀屋・永嶋庄兵衛商店です。

今も米穀業を営んでいるそうです。









土蔵建築の「はまじま美術館」です。

昭和の後期には美術館として公開されていたとのことです。

この土蔵は、文庫蔵として旧家・濱島家に伝わる美術品(主に掛軸)などの家財が保管されていたとか。

階下は、畳敷きの蔵座敷として利用されていたそうです。










古利根川にかかる古利根公園橋は公園の機能をミックスした面白い橋です。

「光と風邪」をテーマに、麦わら帽子をイメージしたモニュメントで、藤棚もあり、夜はライトアップされるそうです。









古利根公園橋にある「千住馬車鉄道レリーフ」です。

明治26年2月から明治30年3月まで千住茶釜橋(現荒川河川敷)~粕壁(現最勝院前)間をレールの上をはしる客車や貨車を馬に引かせて運行する千住馬車鉄道という鉄道会社があったそうです。

乗車定員は12人で、6人が向かい合わせに座り、馭者と車掌が同乗し、千住~粕壁間の約40キロメートルを3時間かかって運行していたそうです。

運賃は千住~粕壁間29銭で、当時としてはかなり高額で、よほどの金持ちぐらいしか乗れなかったそうです。










古利根公園橋から旧日光街道に戻る道沿いにある「田村荒物店」の裏側です。

土蔵が残っています。

宿場町の特徴である、間口が狭く後ろに長い敷地であるのがよく分かります。











田村家の本家前には右手に道標と左手に懐かしい郵便ポストがありました。

道標には、「西南いハつき(岩槻)」「北日光」「東江戸」「右乃方陸羽みち」と刻まれています。










今日の散策の最後は春日部市郷土資料館です。

江戸時代の粕壁宿推定模型が展示されていました。

江戸時代の終わりごろには粕壁宿には3,700人余の人々が住み、773軒の家々が軒を連ねていたそうです。

宿場町では通行者に馬や人を提供したり、本陣・脇本陣や旅籠など宿泊施設が整えられました。

参勤交代の大名や松尾芭蕉などの多くの旅人が日光街道を通り、粕壁宿で休泊したのです。












郷土資料館を出ると2時を過ぎていました。

ロビンソン百貨店近くに「馬車道」というファミレスがあったので、そこに入り遅い昼食をとって帰路に着きました。




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日光街道ー春日部宿ー駅西口

2009年02月07日 | ウォーキング





すっかり春めいてきた今日(2月7日)、妻と二人で春日部市にやってきました。

春日部市役所からのスタートです。









市役所通りを西に向かって歩き始めました。

風もなく最高のウォーキング日和です。

雷電神社にはもう梅の花が咲いていました。

雷電神社を過ぎると東武野田線の踏み切りを渡ります。









春日部稲荷神社は、寛元年間(1243~1247)に、春日部実景が京都伏見稲荷を勧請したものだそうです。

春日部氏の屋敷神であったと伝えられています。

「家族みんなの健康を・・・・」とお祈りしてきました。

この年になると願いはこれだけです。









春日部八幡神社の境内に続く林の中の稲荷神社横の東端には、通称「浅間山」と呼ばれる高さ8.2m、周囲二百メートルにも及ぶ富士塚があります。

この富士塚は、江戸時代に隆盛を極めた「富士講」による信仰の対象として築かれたものだそうです。

4合目、5合目・・・と一気に富士山を駆け登りましたが妻にはかないませんでした。(笑)










東武野田線八木崎駅前です。

東武野田線は当初、野田市駅から柏駅まで醤油を運ぶ貨物輸送のために作られたそうです。

今は埼玉県の大宮駅から千葉県の柏駅を経て船橋駅までを結ぶ東武鉄道の鉄道路線です。








春日部市中央公民館でトイレ休憩。

公民館では受験生が一生懸命勉強していました。

妻はここで春日部市の地図をもらってきました。

公民館前にはこんな可愛い銅像がありました。









市役所通りに戻り、西口駅前大通りを歩いて春日部駅に向かいます。

イトーヨーカ堂や大塚家具のショールームのそばを通りぬけて駅西口に到着。

駅西口から水族館のようなトンネルをくぐり抜けると東口に出ました。

いよいよ粕壁宿の散策です。




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日光街道ー草加宿ー草加駅東口エリア

2009年02月03日 | ウォーキング





札場河岸公園から草加六丁目橋を渡って信号を右折。

「おせん公園」を少し歩くと「神明宮」です。

元和(1615年~1624年)の初め、一人の村人が宅地内に自然石を神体とする小社を建てたのが始まりで、1713年草加宿組9ヶ村の希望により宿の総鎮守として現在地に移されたそうです。










旧日光街道六丁目の古い町屋建築を見ながら歩くと東福寺の参道入口です。

東福寺は草加宿を開宿したという大川 図書が創建し、僧賢宥が開山した寺です。

山門、鐘楼、本堂外陣欄間は市指定文化財です。










「おせん茶屋」は旧日光街道の宿場の雰囲気を漂わせる小公園です。

茶店風の休憩所や高札を模した掲示板などがあります。

草加せんべいの元祖とされる「おせんさん」にちなんで名づけられたそうです。











「藤城家」です。

明治初期の建築で米屋さんだったそうです。

町屋建築として貴重な建物です。










草加駅から一番通り商店街を歩くと歴史民族資料館に着きました。

ここは草加小学校西校舎を改修したものだそうです。

収蔵品には、丸木船(縄文時代)、土器(古墳時代)、古文書、板碑(鎌倉時代)、農具、大川家復元模型などがあります










2階には明治時代から現代までの雛人形が展示されていました。

3歳になる孫娘も今頃は雛人形に囲まれているかな・・・・。











歴史民族資料館で今日の予定コースを終えたので、もと来た道を戻ります。









草加松原遊歩道に戻り、百代橋近くにある「ガスト」で昼食を食べました。

今日も妻と二人、水入らずの楽しい一日でした。




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