若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

関門海峡と萩・津和野の旅ー2日目ー世界遺産・萩を自転車で走る①

2015年10月31日 | 旅行


翌日(10月20日)は下関駅10時21分発の山陰本線に乗って東萩駅へ向かいました。

ところが・・・長門駅12時57分発の乗り継ぎ電車がこの日は運転しておらず、長門駅で何と・・・2時間余も待ちぼうけをくらい、結局、東萩駅には予定よりも2時間弱遅れの15時21分に着きました。

駅前のレンタサイクル店で自転車を借り「17時30分で閉店ですからね・・」という店員の言葉を背に、大急ぎで「萩城跡」に直行しました。

萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれています。

平成18年に「日本100名城」に選ばれ、今年の7月には「明治日本の産業革命遺産」の「萩城下町」として、世界遺産に登録されました。



萩城の二の丸南門の南100mには「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(あさもうりけ)」があります。

厚狭毛利家は、毛利元就の5男元秋を祖とし、毛利氏の萩移封後、厚狭(現山陽小野田市)に知行地を与えられたことから、このように呼称され、8371石余りを領しました。

萩に現存する武家屋敷のなかでも最大の規模を誇り、国の重要文化財に指定されています。



さあ、これから萩城下町の中心部に向かいます。

萩博物館の横を通り抜け外堀を渡り「御成道」で自転車を止めました。

御成道に面して藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、横町には、それぞれの名が残されています。

まぶしいほどの白いなまこ壁の美しいこの横町は「菊屋横町」で「日本の道百選」の一つに選ばれています。



菊屋横町を南に進むと右手に「高杉晋作誕生地」左手に「高杉晋作立志像」が見えてきます。

立志像は「晋作広場」に、平成22年10月に建立されました。

晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しく凛々しい顔をイメージしており、両刀を差した羽織、袴の立ち姿で、晋作誕生地と萩城の方角を向いて建てられています。



「江戸屋横町」には”維新の三傑”と詠われた木戸孝允(たかよし)、別名 桂小五郎の生家や、13代藩主・毛利敬親の侍医を務めた青木周弼(しゅうすけ)が生まれ育った家が軒を並べて

います。

残念ながら「青木周弼旧宅」は保存修理中で中には入れませんでした。



北浦街道に出て明倫小学校の中に入ると、吉田松陰が教鞭をふるった「旧萩藩校明倫館」です。

萩藩校明倫館は、享保3年(1718)に5代藩主吉元が毛利家家臣の子弟教育のために萩城三の丸に建てた藩校です。

創設より慶応3年(1867)廃館に至るまで、前後約150年の長期にわたって漢学・武芸など、藩校としての教育が行われ、幕末の長州藩の中で大きな役割を果たしました。

敷地内には、旧明倫小学校本館(昭和10年に建てられた木造4階建ての校舎)があり、平成8年に国登録有形文化財に登録されていますが、本館2棟は保存整備工事のため、入場できません。

写真は南門で明倫館の正門として建てられました。



夕暮れが迫ってきました。

レンタサイクル閉店時間まで30分余・・・、山陰本線の踏切を渡って「松陰神社」へ。

松陰神社はその名のとおり、明治23(1890)年に吉田松陰を祀って建てられた神社です。

学問の神として信仰が厚く、境内には松陰ゆかりの史跡などが点在しています。

近代日本の原動力となった数多くの逸材を輩出した「松下村塾」と、隣接して「吉田松陰幽囚ノ旧宅」があり、いずれも本年「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録されました。



「松下村塾」は天保13年(1842)に松陰の叔父である玉木文之進が自宅で私塾を開いたのが始まりで、後に松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継ぎ、安政4年(1857)、28歳の松陰がこれを継ぎ、主宰することになりました。

松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れ、わずか1年余りの間でしたが、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎など、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てました。



「吉田松陰幽囚ノ旧宅」です。

吉田松陰は、安政元年(1854)に伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸伝馬町の牢に捕らえられ、ついで萩に送られ野山獄に入れられました。

翌年に釈放となりましたが、父杉百合之助預けとなり、この実家である杉家に帰され謹慎生活を送り、読書と著述に専念しました。

松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で孟子などを講じるようになりました。

次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾を主宰するようになりました。







関門海峡と萩・津和野の旅ー1日目ー門司・下関レトロ散策

2015年10月24日 | 旅行


10月19日(月)から妻と二人で3泊4日の旅行に行ってきました。

東京駅7時50分発の「のぞみ13号」に乗って小倉駅には12時38分に到着。

小倉から鹿児島本線で門司港駅には13時過ぎに着きました。

門司港駅付近はレトロな建物の宝庫だと聞いていましたが、国の重要文化財に指定されている駅舎は大規模保存修理工事中で残念ながらその雄姿を見ることが出来ませんでした。



工事中の駅舎を通り抜けると目の前に早速、素敵な建物が現れました。

「旧門司三井倶楽部」です。

三井倶楽部は大正十年に三井物産の接客・宿泊施設として作られた大正モダンの重厚な建物です。

当時、門司港がどれほどの経済力を誇っていたのかも容易に想像できます。

また、アインシュタイン博士が全国を講演をする為に来日した際に、ここ三井倶楽部に宿泊しています。



裏側に回ると、これも瀟洒な建物です。

「旧大阪商船」です。

オレンジ色タイルと白い石の帯が調和したデザインの外観と八角形の塔屋は非常に美しい。

旧大阪商船は大正六年(1917)に建てられた大阪商船門司支店を修復したものです。



はね橋(ブルーウイング門司)を渡ると見えてくるのが「旧門司税関」です。

旧門司税関は明治45年(1912)に煉瓦造り瓦葺2階建構造で建設されたものです。

イギリス積みという工法で壁の厚さが50cm近くあるのが特徴です。

昭和初期まで税関庁舎として使用されていたそうです。



親水広場を歩いて行くと左手に「国際友好記念図書館」。

エキゾチックな外観がすばらしい雰囲気です。

門司市と中国の大連市の友好都市締結15周年を記念し、ロシア帝国が大連市に建築した東清鉄道汽船事務所を、そっくり複製し建築されたものが国際友好記念図書館です。



北九州銀行レトロライン「潮風号」の踏切を渡って東方面を歩いて行くと、放物線とアーチの美しい大正モダンの建物が見えてきます。

「門司電気通信レトロ館」です。

大正十三年(1924)に逓信省門司郵便局電話課庁舎として建設されました。

門司の最初の鉄筋コンクリートの建物ということで、当時このモダンな建物に非常に注目が集まっていたそうです。



門司港レトロ散策の最後は「三宜楼(さんきろう)」です。

栄町商店街から西へまっすぐ登る(通称 三宜楼坂)と三宜楼に到着です。

昭和六年に建てられた三宜楼は、木造3階建てで、現存する料亭の建屋としては九州最大級です。

門司港の繁栄を物語る料亭であり、往時は、門司港料亭トップ3の一画とも伝えられています。

写真は三宜楼坂から見たもので人気の撮影スポットだそうです。



15時過ぎに門司港駅を発ち、門司駅で山陰本線に乗り換え、関門トンネルを抜けるとすぐに下関駅に到着です。

宿泊先の「下関駅西ワシントンホテルプラザ」にチェックインしたあと、下関市内を散策開始。

レトロ建築が立ち並ぶ「唐戸地区」を目指します。

国道9号線を東へ2キロほど歩くと「山口銀行旧本店」が左側に見えてきました。

三井銀行下関支店として、商都下関の繁栄の象徴であった旧銀行街の一角に建てられた建物です。

あたりには当時、横浜正金銀行下関支店、住友銀行下関支店などの洋風建築が建ち並んでいました。

建物は、三井銀行が昭和8年に百十銀行に営業権を譲渡後その本店となり、昭和19年には県下6つの本店銀行が統合して山口銀行が創立され、その本店となりました。



さらに東へ500mほど歩くと「下関南部町郵便局」が見えてきました。

下関南部町郵便局は、下関に現存する最も古い洋風建築物で、明治33年(1900)に新築されました。

外壁のレンガは厚さ60cmという堅固なもので、今なお現役の郵便局舎としては日本最古のものです。



隣接するのが「旧秋田商会ビル」です。

旧秋田商会ビルは、大正四年(1915)に竣工した和洋折衷の極めてユニークな建築物です。

内部は1階を純洋風の事務所空間、2階及び3階を格調高い書院造住宅としており屋上には日本庭園と日本家屋を備えています。



秋田商会ビルから唐戸の陸橋を渡ると見えるのが「旧下関英国領事館」です。

現存最古の領事館建築物であることに加え、明治期の外交関連施設の典型を示すものとして歴史的価値が極めて高く、国際都市下関を象徴する建造物です。

平成11年5月に国の重要文化財の指定を受けました。



交通の要として古代より栄えてきた唐戸周辺は、明治に入ると海外貿易の拠点として隆盛、各国の領事館や外国商社の代理店、銀行などが軒を連ねる町並みが形づくられてきました。

唐戸における市場は、明治42年(1909)の路上での野菜・果物の販売の公許に始まります。

大正13年(1924)には魚市場が阿弥陀寺町から移転して「唐戸魚市場」が発足、昭和8年には「下関市唐戸魚菜市場」として現在の唐戸市場が開設されました。

「唐戸市場で夕食に美味い海鮮丼でも食べようか・・」と妻と話し合って来たのですが、残念ながら15時で市場は営業を終えていました。