翌日(10月20日)は下関駅10時21分発の山陰本線に乗って東萩駅へ向かいました。
ところが・・・長門駅12時57分発の乗り継ぎ電車がこの日は運転しておらず、長門駅で何と・・・2時間余も待ちぼうけをくらい、結局、東萩駅には予定よりも2時間弱遅れの15時21分に着きました。
駅前のレンタサイクル店で自転車を借り「17時30分で閉店ですからね・・」という店員の言葉を背に、大急ぎで「萩城跡」に直行しました。
萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれています。
平成18年に「日本100名城」に選ばれ、今年の7月には「明治日本の産業革命遺産」の「萩城下町」として、世界遺産に登録されました。
萩城の二の丸南門の南100mには「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(あさもうりけ)」があります。
厚狭毛利家は、毛利元就の5男元秋を祖とし、毛利氏の萩移封後、厚狭(現山陽小野田市)に知行地を与えられたことから、このように呼称され、8371石余りを領しました。
萩に現存する武家屋敷のなかでも最大の規模を誇り、国の重要文化財に指定されています。
さあ、これから萩城下町の中心部に向かいます。
萩博物館の横を通り抜け外堀を渡り「御成道」で自転車を止めました。
御成道に面して藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、横町には、それぞれの名が残されています。
まぶしいほどの白いなまこ壁の美しいこの横町は「菊屋横町」で「日本の道百選」の一つに選ばれています。
菊屋横町を南に進むと右手に「高杉晋作誕生地」左手に「高杉晋作立志像」が見えてきます。
立志像は「晋作広場」に、平成22年10月に建立されました。
晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しく凛々しい顔をイメージしており、両刀を差した羽織、袴の立ち姿で、晋作誕生地と萩城の方角を向いて建てられています。
「江戸屋横町」には”維新の三傑”と詠われた木戸孝允(たかよし)、別名 桂小五郎の生家や、13代藩主・毛利敬親の侍医を務めた青木周弼(しゅうすけ)が生まれ育った家が軒を並べて
います。
残念ながら「青木周弼旧宅」は保存修理中で中には入れませんでした。
北浦街道に出て明倫小学校の中に入ると、吉田松陰が教鞭をふるった「旧萩藩校明倫館」です。
萩藩校明倫館は、享保3年(1718)に5代藩主吉元が毛利家家臣の子弟教育のために萩城三の丸に建てた藩校です。
創設より慶応3年(1867)廃館に至るまで、前後約150年の長期にわたって漢学・武芸など、藩校としての教育が行われ、幕末の長州藩の中で大きな役割を果たしました。
敷地内には、旧明倫小学校本館(昭和10年に建てられた木造4階建ての校舎)があり、平成8年に国登録有形文化財に登録されていますが、本館2棟は保存整備工事のため、入場できません。
写真は南門で明倫館の正門として建てられました。
夕暮れが迫ってきました。
レンタサイクル閉店時間まで30分余・・・、山陰本線の踏切を渡って「松陰神社」へ。
松陰神社はその名のとおり、明治23(1890)年に吉田松陰を祀って建てられた神社です。
学問の神として信仰が厚く、境内には松陰ゆかりの史跡などが点在しています。
近代日本の原動力となった数多くの逸材を輩出した「松下村塾」と、隣接して「吉田松陰幽囚ノ旧宅」があり、いずれも本年「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録されました。
「松下村塾」は天保13年(1842)に松陰の叔父である玉木文之進が自宅で私塾を開いたのが始まりで、後に松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継ぎ、安政4年(1857)、28歳の松陰がこれを継ぎ、主宰することになりました。
松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れ、わずか1年余りの間でしたが、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎など、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てました。
「吉田松陰幽囚ノ旧宅」です。
吉田松陰は、安政元年(1854)に伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸伝馬町の牢に捕らえられ、ついで萩に送られ野山獄に入れられました。
翌年に釈放となりましたが、父杉百合之助預けとなり、この実家である杉家に帰され謹慎生活を送り、読書と著述に専念しました。
松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で孟子などを講じるようになりました。
次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾を主宰するようになりました。