若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

岩手・秋田・山形に遊ぶーその3-湊町酒田で粋な文化に出会う

2016年06月20日 | 旅行


5月31日(火)角館の「田町武家屋敷ホテル」の美味しい朝食を食べたあと、私達は角館駅8時45分発の「こまち95号」に乗り込みました。

大曲駅で奥羽線に乗り換え、新庄駅で睦羽西線に乗り換え、新庄駅で買った駅弁を睦羽西線の中で食べながら、雄大な庄内平野のノンビリ二人旅です。

酒田駅には12時18分に到着し、駅で貸自転車(無料)を借りて、いよいよ酒田市内を散策です。



相生町1丁目の交差点を左折して県道42号線(酒田港線)を自転車で南へ一直線です。

一番町の交差点を右折して国道40号線に入るとすぐ右手に「本間家旧本邸」が見えてきました。

江戸時代に紅花や米を関西へ運ぶ西廻り航路が開かれ、酒田は北前船の拠点として「西の堺・東の酒田」と言われるほど栄えました。

その中でも『本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に』と俗謡に謡われるほどの豪商だったのが本間家です。

本間家三代光丘が幕府の巡見使宿舎として明和5年(1768)に新築し、庄内藩主酒井家に献上した、二千石格式の長屋門構えの武家屋敷です。

巡見使一行が江戸に戻ると屋敷を酒井氏から拝領し、商家造りの方で邸宅として昭和20年(1945)春まで使われました。(巡見使・・・・大名領の民情政情を視察するため派遣された役人)



酒田を代表する廻船問屋「鐙屋(あぶみや)」は、酒田三十六人衆として町政にも参画し、江戸時代の日本海海運の大きな役割を担っていました。

その繁栄ぶりは、井原西鶴の「日本永大蔵」(にっぽんえいたいぐら)にも記されるほどでした。

屋敷は石置杉皮葺屋根の典型的な町家造りとなっており、内部は通り庭(土間)に面して、十間余りの座敷、板の間が並んでいます。



新井田川に架かる山居橋を渡ると、酒田一番の観光スポット「山居(さんきょ)倉庫」に到着です。

米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝え、連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。

白壁、土蔵づくり12棟が立ち並ぶ景観は、米どころ庄内のシンボルとして有名です。

夏の高温防止のために背後にケヤキ並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫として、現在も現役の農業倉庫です。



山居倉庫の2棟を改良し、観光施設として平成16年にオープンした「酒田夢の倶楽(くら)」です。

ここで私達はコーヒータイム。

この中にあるファストフードでコーヒーを注文し、ケヤキ並木を眺めながら旅の疲れを癒しました。



本港通りを「日和山(ひよりやま)公園」に向かって再び自転車を走らせます。

その途中にある「みなとオアシス酒田」の「さかた海鮮市場」に立ち寄りました。

庄内浜で水揚げされたばかりの魚介が並ぶ鮮魚店や食事処があります。



江戸幕府は直轄領であった庄内から「庄内米」を大坂まで効率よく大量輸送できるように、河村瑞賢(ずいけん)に航路開拓を命じます。

河村瑞賢は、出羽酒田から日本海沿岸を回り瀬戸内海・紀州沖・遠州灘を経て江戸に入る航路、西廻り航路を開拓し、輸送に要する時間と費用を大幅に軽減することに成功しました。

写真は日和山公園に建つ河村瑞賢像です。



日和山公園は酒田港を望む砂丘の高台にあります。

日和山とは、かつて北前船の船頭たちが最上川と日本海を望む海路の日和を見た丘で現在は一帯が公園として整備され、酒田市民の憩いの場となっています。

写真は西廻り航路の開拓により、庄内米を酒田港から江戸に回漕するために活躍した「千石船」を実物の二分の一に縮尺して再現したもので、日本海沿岸をかたどった修景池に白い帆を張って浮かべられています。



松尾芭蕉像です。

芭蕉が弟子の河合曾良を伴い『おくのほそ道』で立ち寄った酒田では、「暑き日を海にいれたり最上川」と「あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ」の、2つの俳句を残しています。



日和山公園でひと際、目を引くのが、白亜の木造六角洋式灯台(宮野浦灯台)です。

明治28年(1895)、最上川左岸河口宮野浦に竣工で、酒田出身の大工棟梁佐藤泰太郎が手がけたそうです。

日本最初の洋式灯台は、明治2年(1869)神奈川県観音崎灯台ですが、木造灯台として残っているのはこの灯台が最古のものと言われています。



北前船の往来によって全国とつながった酒田は、華やかで自由闊達な港町文化が形成されました。

茶道や俳諧、生花が教養の一つとして盛んになり、茶屋文化、料亭文化と共に風流を競いました。

「山王(さんのう)クラブ」は明治28年建築の酒田を代表する規模と格式をもった元料亭です。

北前船の寄港地として栄えた酒田の歴史や来酒した文人墨客(ぶんじんぼっか)を紹介しています。

日本三大つるし飾りの「傘福」や人形作家辻村寿三郎氏の作品が常設展示されています。



港町の風情漂う舞娘坂に建つのが「相馬樓」。

かや葺きの門と朱色の塀がひときわ目を引きます。

江戸時代から続いた酒田を代表する料亭「相馬屋」を改装して、平成12年に「相馬樓」としてオープンしました。

2階の大広間では、酒田舞娘の踊りと食事が楽しめます。

また、土蔵には雛人形や竹久夢二などの美術品が展示されています。

そして、この相馬楼を一躍有名にしたのが「相馬屋事件」の舞台になったことです。

酒田の豪商や県会議員など17名が相馬屋2階で宮中の御宴と称して大新年会を催し、不敬罪で逮捕されたというものです。


以上で私達は酒田市内散策を終え、酒田駅15時28分発の羽越線に乗り込み、今宵の宿泊先である山形県のあつみ温泉「萬国屋」へ向かいました。



岩手・秋田・山形に遊ぶーその2-新緑の角館武家屋敷巡り

2016年06月15日 | 旅行


5月30日(月)妻と二人で盛岡市内を散策したあと、盛岡駅発12時35分の「こまち13号」に乗り込み、秋田県の角館駅には13時24分に到着しました。

今日の宿泊先である「田町武家屋敷ホテル」に荷物を置き、「田町武家屋敷通り」からの散策です。

芦名家が1620年に町造りをした時に、内町の武家屋敷群とは別に、町の南側地区「田町」に80旗の武士が住む事になります。

彼らは、秋田藩主佐竹氏直臣から禄を貰った武士でした。

それが「田町武家屋敷通り」の武家屋敷群です。



田町武家屋敷通りを歩いて最初に見えてきたのが「太田家」(非公開)です。

太田家は仙北地方の大地主だった家柄で、内蔵のある家屋敷は母屋の東西の長さが44mもあり、田町武家屋敷通りまで続いています。

田町武家屋敷通りには太田家の洋館が残っています。



新潮社記念文学館は、新潮社を創設した佐藤義亮(1878~1951)の顕彰を目的に設けられ平成12年4月にオープンしました。

残念ながら行った日は休館日でしたが新潮社記念文学館の外壁には本を開いた形のオブジェがあり、そこには川端康成の代表作「雪國」の~國境の長いトンネルを抜けると雪國であった~の一文が刻まれていました。

戦後出版された「新潮文庫」の第1号が康成の「雪國」だったことにちなんだものだそうです。



記念館の向かい側が「西宮家」です。

明治後期から大正時代にかけて地主として繁栄し、その時代に建てられた5棟の蔵と母屋は、大正ロマンにあふれる古き良き時代を今に伝えています。



「駅通り」を左に折れ、「外町(とまち)」を進みます。

外町は、武家屋敷が立ち並ぶ「内町」と対照的に、びっしりと商家などの町並みが続き、歴史を感じさせます。

写真は「たてつ家」です。

現存の建物は、明治33年に建てられたもので、商家の風情を現代に伝えています。

蔵の中には、たてつ家(田鉄家)の先祖が実際に使用していた趣味や生活用品などを「外町史料館」として無料公開しています。



市役所角館庁舎を過ぎるといよいよ「武家屋敷通り」です。

この武家屋敷群の表通りは、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けており、文化財として保護されています。

保存地区は旧武家町のほぼ中央にあり上・中級武士の武家屋敷にあたるところです。

広い通り沿いに塀が連続し、シダレザクラやモミの大木が深い木立を形成しており、当時の暮らしが今も感じられる趣深い空間です。



市役所角館庁舎を過ぎてすぐの右手に見えるのが「小田野家」です。

小田野家を特に印象づけるのは、うっそうとそびえる樹木の庭です。

簡略化された門構え、シンプルな造りの玄関、ドウダンツツジのトンネル、門から玄関までの長いアプローチ、ササが植え付けられた庭など・・・・・何とも素晴らしい武家屋敷です。



小田野家の隣が「川原田家」です。

現在の建物は明治中期に建てられたものですが、その間取りは武家住宅の形式を踏襲していて、屋敷の構成は江戸時代そのものです。

主屋の屋根だけが町家風の切妻木羽葺なのは、防火対策のためのようです。

閑静な緑の庭は、ひととき、外の喧騒を忘れてさせてくれます。



この日の角館は夏を思わせる暑さで、少々グロッキー気味。

河原田家の隣に「桜の里」という比内地鶏や稲庭うどんを出す店があったので、アイスコーヒーを注文して水分を補給しました。



元気を取り戻した二人が武家屋敷通りを北に歩いて行くと右手には「岩橋家」が見えてきました。

屋敷は江戸時代末期に改造、屋根も茅葺きから木羽葺きに変えられ現在の形になりました。

角館の中級武士の屋敷として、間取りなどに典型的な形を残しています。

樹齢300年以上の柏の木がこの家のシンボルです。

「たそがれ清兵衛」の撮影場所ともなったそうです。



次は3000坪を超える敷地を持つ「青柳家」です。

屋敷内に六つの資料館があり、四季それぞれの風情が楽しめます。

角館武家屋敷の象徴であり、特に正門の薬医門は国内外に知られた秋田の象徴であります。



武家屋敷通りの北端に位置する「石黒家」は、角館の現存する武家屋敷のなかでは、最も古く、格式が一番高い家柄の屋敷です。

茅葺き屋根の母屋と覗き窓のついた黒板塀、正玄関と脇玄関を備えて武家の高い格式を示しながら簡素な佇まいとなっています。



甘いものに目がない妻は、青柳家の向かい側にある「唐土庵(もろこしあん)」に立ち寄り、「生もろこし」なるものを買い込みました。



角館武家屋敷散策の最後は「松本家」です。

松本家は、武家屋敷通りからは一本西側に離れた立地で、全然目立たない雰囲気の屋敷ですが、郷校弘道書院の教授を勤め「烏帽子於也(えぼしおや)」の著者として知られる須藤半五郎を出した向学の家です。

県内に残る近世下級武士住宅としては、ほぼ唯一のもので江戸末期の建築技法がよく残っていることから主屋が県指定有形文化財に指定されています。

このあたりは,足軽や中間などの下級武士が住んでいた所で,松本家もその1つです。

ここも「たそがれ清兵衛」の撮影場所だそうです。


以上で私たちは角館武家屋敷巡りを終え、今宵の宿である「田町武家屋敷ホテル」に投宿しました。



岩手・秋田・山形に遊ぶーその1-城跡と啄木と賢治の街・盛岡市

2016年06月06日 | 旅行


5月30日(月)から妻と二人で岩手・秋田・山形へ2泊3日の旅行に行って来ました。

大宮駅6時58分発「はやぶさ1号」に乗ると岩手県の盛岡駅に8時45分に着くというから驚きです。

改札口を出て駅前からすぐに北上川に架かる「開運橋」を渡ります。

晴れた日にはこの橋の上から北上川の上流を見ると、大きな岩木山がそびえていて、素晴らしいそうです。

開運橋は、別名「二度泣き橋」とも呼ばれています。

首都圏からの転勤族の間で語られたのが由来だそうで、初めて盛岡へ訪れ開運橋を渡る際「遠く離れた所まで来てしまった」と一度泣き、転勤期間を終えて盛岡を去ることになり盛岡駅へ向かう途中に再びこの橋を渡り、二度目は離れるのが辛くて泣くというものです。



開運橋を渡って東へ5分ほど歩くと「盛岡城跡公園」に到着です。

盛岡城は南部重直が1633年に入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。

北上川、雫石川、中津川を自然の壕に利用した平城で、不来方城(こずかたじょう)とも呼ばれました。

石川啄木の「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」と刻まれた歌碑などが公園内にあります。



かつて日影門外(ひかげもんそと)時鐘と言われ、外堀の土塁上にあったものが移転して桜山神社の北側に設置され、昭和30年ごろまで盛岡市民に時刻を知らせていました。

現在は6月10日の「時の記念日」と大晦日にのみ聞くことが出来ます。



「中津川」に架かる「中ノ橋」を渡ったところに「ガス灯」がありました。

ガス燈事業からスタートした近代都市ガス産業の先駆者は南部藩士と言われています。

夜の盛岡をやさしく照らし出すガス灯の明かり。

古くから使われてきたガス灯は、歴史と情緒を感じさせてくれます。

盛岡城跡公園周辺の明かりにはガス灯が使われています。



「プラザおでって」の信号を右に折れると「もりおか啄木・賢治青春館」です。

「もりおか啄木・賢治青春館」は、明治43年(1910)に竣工した旧第九十銀行本店本館を保存活用し、石川啄木と宮沢賢治が青春を育んだ盛岡の街と二人について紹介します。

郷土が生んだ偉人、石川啄木と宮沢賢治。

年齢差10歳のふたりは、非常に多感な青春時代のそれぞれの約10年を、ここ盛岡で過ごしています。

親元を離れ進学した盛岡中学。彼らの胸には、どれだけの希望がつまっていたのでしょう。

多くの友と交流した学生時代、時には学校を抜け出して、近くの盛岡城跡公園で本を読みふけったりしたことが前述の啄木の歌碑から窺われます。



再び中ノ橋通りに戻ると「岩手銀行(旧盛岡銀行)旧中ノ橋支店」の立派な赤煉瓦造りが中津川のほとりに聳え立っています。

約91万個のレンガを積み上げたレトロな外観の美しさが非常に印象的です。

壁の白いラインが際立つデザインは東京駅の設計で知られる辰野金吾によるもので、盛岡出身の建築家・葛西萬司も関わっています。

この界隈を愛した宮沢賢治が、晩年の詩でうたっています。

アークライト(孤光燈)にめくるめき、羽虫の群のあつまりつ、川と銀行木のみどり、

まちはしづかにたそがるる」。



北側には同じく葛西萬司の設計で昭和2年に建てられた「盛岡信用金庫本店」(旧貯蓄銀行)。

1階から2階まで伸びる6本の太い円柱、花崗岩に施した石彫りのパターン、内部のステンドグラスなどが重厚感を与え、昭和初期のモダンな表現と近代的デザインの流れをくんでいます。



中津川沿いのビクトリアロードを北に歩き「与の字橋」を渡ると「紺屋町番屋」が左手に見えてきました。

1891年「盛岡消防よ組番屋」として現在地に建てられた建物を1913年消防組第四部事務所として改築されたものが現在の建物といわれています。

屋根の上には望楼が設えられ、現在は高い建物が周囲に乱立して見通しが利きませんが、当時はかなり遠くまで望めたものと思われます。

1階のシャッター部が改造されている他はあまり大きな変化がなく、消防施設の変遷を知る貴重な建物として、昭和52年に盛岡市の保存建造物指定をうけています。



「与の字橋」を戻り「中央通り」を西に歩きます。

右手に見えてきたのは「岩手県公会堂」です。

「岩手県公会堂」は、皇太子であった昭和天皇の御成婚を記念して昭和2年6月に建設されました。

設計は、東京の日比谷公会堂や早稲田大学大隈講堂の設計で知られる佐藤功一博士で、近代コンクリート建築の先駆けでした。

幾度かの改修が行われましたが、内部には漆喰の美しいレリーフや、優雅な曲線のバルコニーなど、創建当時の面影を伝えるアール・デコ様式の意匠が残されています。




盛岡地方裁判所の前には、周囲21メートルの巨大な花崗岩を割ってエドヒガンザクラ(石割桜)が伸びています。

樹齢は360年ともいわれているこの桜は、毎年4月中旬からきれいに花を咲かせます。



中央通3丁目に来ると「啄木新婚の家」が右手に見えてきました。

明治38年5月、処女詩集「あこがれ」を出版した石川啄木は、東京で新婚生活をもつという生活設計を変更して、市内の新山小路(現在の中央通3丁目)に帰り、 年来の恋人堀合節子と結婚式を挙げます。

しかし、父母と妹が同居する新婚生活は窮迫し、そこでの生活はわずか3週間。

同7月に市内の加賀野磧町(現在の加賀野1丁目)に移り住みます。

茅葺の屋根など当時と変わったところもありますが、ほぼ当時のまま現存しています。

現在は一般に無料開放され、新妻節子が愛用した琴、啄木の直筆の書や写真が展示されています。



盛岡散策の最後は「いーはとーぶアベニュー材木町」と「光原社」です。

「いーはとーぶアベニュー」とは、材木町のメインストリート材木町通りのことを呼んでいます。

賢治にゆかりの深い光原社、光や音楽をモチーフにした6つのモニュメントでファンタジックな賢治の世界を堪能できる場所です。

この写真は入り口近くにある石の採掘場で休む賢治を描いた彫刻「石座」です。

夜になると淡い灯が点滅する銀河系をイメージした「星座」、チェロのオブジェから賢治の作曲した『星めぐりの歌』が聞こえる「音座」、賢治あこがれのシルクロードがモチーフの「絹座」、賢治の設計した花壇をイメージした「花座」、そして賢治が詠んだ短歌を記した陶板を設けた「詩座」、どのモニュメントからも、自然の小さな生命を語り、また慈しんだ賢治のメッセージが伝わってきます。



日本の児童文学の金字塔として今も読み継がれる『注文の多い料理店』は、宮沢賢治の代表作にして生前に出版された唯一の童話集です。

この作品を大正13年(1924)に世に送り出したのが「光原社」の創業者・及川四郎氏です。

及川氏は盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)で、宮沢賢治とは先輩、後輩の間柄でした。

「光原社」という社名も、本の出版に際し、賢治が付けたことで知られています。

中庭には出版の地の碑と、童話「烏の北斗七星」の一部を刻んだ石柱が建っています。

中庭には、北上川に面した雰囲気のよい喫茶室〈可否館〉がありました。


以上で私たちは盛岡市内散策を終え、駅ビル内の「京樽」で茶きん鮨を食べた後、盛岡駅発12時35分の「こまち13号」に乗り込み、秋田県の角館に向かいました。