若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

京都の町を歩くーその2-銀閣寺・南禅寺・知恩院

2017年02月27日 | 旅行


ヒノキの香りのする瞑想の湯に浸かったあと、鴨鍋付き四季の京会席料理に舌鼓を打った私たちは、翌、2月21日(火)8時半に宿を出て、河原町五条からバスで、「銀閣寺」へ向かいました。



世界遺産の銀閣寺は延徳2年(1490年)、室町幕府8代将軍の足利義政が祖父である足利義満の建てた北山山荘(金閣寺)を参考に、東山文化の代表東山山荘を造営したとされています。

銀閣寺を象徴する建物が銀閣と呼ばれる観音殿です。

さらに、方丈の前庭にある白砂の砂盛り向月台と、波紋を表現した銀沙灘も見所の一つです。



銀閣の前にある錦鏡池を中心に池泉回遊式庭園が広がっています。

この庭園は1952年に特別史跡、特別名勝にも指定されている景勝地です。

金閣寺の庭には松をはじめとする常緑樹が圧倒的に多いのに対し、銀閣寺の庭には桜、楓、躑躅、皐月、椿、燕子花等々数えきれない程の草花と西芳寺に負けない苔が生息して四季を彩ります。



銀閣寺の総門を出て参道を下り、銀閣寺橋を左に折れて「哲学の道」(写真の右側)を歩いて「南禅寺」を目指します。

哲学の道は熊野若王子神社前の若王子橋から始まり、琵琶湖疏水に沿って銀閣寺橋まで続く約2kmの散歩道で、京都大学の哲学者・西田幾多郎や田辺元らが好んで散策し、思案を巡らした道です。



「南禅寺」に着いた頃には小雪が舞い始めました。

南禅寺は、数ある寺院の中でも最も格式が高く、別格扱いの寺院です。

歴史的な建造物や美しい庭園などが多く、京都を代表する観光スポットとなっています。

現在の三門は寛永5年(1628)藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建したものであり、禅宗様式独特の圧倒的な量感と列柱群が力強さを示しています。



三門をくぐって法堂(はっとう)に進みます。

現在見られる法堂は明治42年(1909年)に立て替えられたものです。

堂内の天井には今尾景年の筆による「雲龍図」が描かれているということです。

堂の前の香炉にお参りの人が立てる線香の香が、手入れの行き届いた樹林の間にただよっています。



南禅寺の境内を抜けると、古代ローマの水道橋を思わせるような、重厚なレンガ造りのアーチ橋が木立の向こうに出現します。

「水路閣」は、この疏水事業の一環として施工された水路橋で、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つになっており、サスペンスドラマの大ファンである妻のお気に入りのスポットです。

また、ここから西500メートルにあるインクラインは、高低差のある蹴上の舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下2本のレールを敷き、艇架台により舟を運ぶ施設で、当時の舟運による交通事情がよくうかがえます。



南禅寺を出て、三条通りから神宮道を南に進むと、左手に「青蓮院」が見えてきました。

天台宗の祖である最澄が比叡山に作った住坊のひとつ「青蓮坊」が青蓮院の起源とされています。

写真は門前に並ぶ楠の大木です。

親鸞聖人お手植えとされる5本の大木は、京都市の天然記念物に指定されています。

大正から昭和にかけて、活動写真の撮影場所として門前の構えが重宝され、この門前の厳めしさと気品が雰囲気に合い、各撮影所が「町奉行所」とか「薩摩屋敷」として多用したそうです。



青蓮院の南隣が浄土宗の総本山「知恩院」です。

知恩院は浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、徳川家康、秀忠、家光らの外護により現在の壮大な伽藍が形成されました。

知恩院の三門は三解脱門といい「空・無相・無作」の意味を持っており、1621年、徳川二代将軍、秀忠公の寄進によって建立された、我が国最大級の木造二重門です。




京都の町を歩くーその1-東福寺・伏見稲荷大社・清水寺

2017年02月24日 | 旅行


妻と二人で2月20日(月)から京都へ一泊旅行に行って来ました。

京都は私たち家族にとって「お気に入りの街」なのですが旅行という形で行くのは初めてのことです。

東京駅8時発の新幹線に乗り込むと10時17分にはもう京都です。

京都駅からJR奈良線に乗って一駅で「臨済宗大本山 東福寺」に到着です。

創建は古く鎌倉時代、ときの摂政関白・藤原(九條)道家が、南都東大寺と興福寺から「東」と「福」の字を2字をとり、九條家の菩提寺として造営されました。

写真は禅宗伽藍を代表する室町最古の「三門」(国宝)です。



京都随一の紅葉とも言われる東福寺の絶景スポットである「通天橋」には、入る前の長蛇の列、そして拝観受付終了なんて事もあるほどの人気ぶりだそうですが、冬の通天橋は静かなものです。



東福寺の中心伽藍の北にあるのが常楽庵(開山堂・普門院・庭園)です。

開山堂は、禅宗寺院らしい落ち着いた建物ですが、屋上に楼閣を持つのが特徴となっています。

金閣、銀閣、西本願寺の飛雲閣、大徳寺芳春院の呑湖閣とともに「京の五閣」とも呼ばれています。

普門院は、寝殿造風の建物で、開山聖一国師が常住した方丈と伝わります。

開山堂の正面へ石畳の参道により、左右で趣が違う庭に分けられています。

左手に面積約330㎡の枯山水の庭園があり、市松模様の砂紋の上に、鶴島、亀島を象った石組が蓬莢山を表現しています。

石畳を経て対面の池庭は、築山を築いた池庭で、池中に亀島、枯滝が配置されています。



東福寺の広い境内を出て南に20分ほど歩いて行くと「伏見稲荷大社」に到着です。

全国に30,000社あると言われ、全国各地で老若男女を問わず親しまれている“お稲荷さん”の総本宮がここ「伏見稲荷大社」です。

写真は天正17年(1589年)豊臣秀吉造営の「桜門」(国指定重要文化財)です。



この建物は昭和36年に本殿前に建てられた「内拝殿」です。

ここから本殿を参拝となります。



外国人が訪れたい日本の観光地ナンバーワンとしても名を馳せている京都の伏見稲荷大社。

このスポットで最も有名なのが「千本鳥居」です。

千本鳥居のある辺りは神の降臨地である山の入り口にもあたり、現世から神様のいる幽界へと続く門として多くの鳥居が建てられたのが始まりとされています。

千本鳥居といいながら、稲荷山全体の鳥居は1万基ほどあって、その数は今も増え続けています。

また、歴史があるということで鳥居の劣化も激しく、1日に3本ほどは新しく建てたり修理しなければならないそうです。



稲荷駅からJR奈良線に乗って京都駅に戻り、バスで河原町五条まで行き、今宵の宿である「秀峰閣」で荷物を預けて徒歩約20分の「清水寺」に向かいました。

国道1号線沿いの五条橋東五丁目には、いかにも京都らしいこんな路地もありました。



清水寺は、京都東山の音羽山の中腹に建つ歴史ある寺院です。

創建は平安京遷都よりも古く延鎮上人により宝亀9年(778年)に開山されたと伝えられています。

清水寺の正門である「仁王門」は堂々たる楼門で、鮮やかな丹塗りのため「赤門」とも呼ばれており、美しい丹塗りに映える正面軒下の「清水寺」の額は、平安時代の名書家、藤原行成の筆と伝わっています。



「清水の舞台」や「音羽の滝」などとともに、清水寺のシンボルとなっているのが、仁王門のすぐ近くにある三重塔です。

この塔が建立されたのは847年で、時の天皇である嵯峨天皇の皇太子が生まれたことにより、葛井(かどい)親王が勅命を奉じて創建されたと伝えられています。

高さは31メートルを誇り、これは、国内の三重塔としては、最大級のもので、近くからはもちろん、遠くからでも、その建築美を堪能できます。



昔から思い切って決心することを「清水の舞台から飛んだつもりで・・・」といいますが、その語源となったのが、この場所です。

本堂から張り出した「舞台」はちょうど4階建てのビルの高さにあたり、京都市街の眺望が見事です。

面積は約190平方メートル、410枚以上のヒノキ板を敷き詰めた「桧舞台」です。



清水の舞台から見える三重塔は「子安塔」(こやすのとう)と言い、聖武天皇、光明皇后の祈願所と伝わっています。

明治の終わりまで仁王門の左手前に建っていましたが、本堂の南に位置する、錦雲渓を隔てた丘の上に移築されました。



本堂の下、音羽山の山腹から滾々とわき出ている清水が、清水寺の由来となった「音羽の滝」です。

古来よりこの水は「黄金水」「延命水」と呼ばれ、「清め」の水として尊ばれています。

修行僧の滝行に使われたり、お茶の汲み湯にも使われています。

現在でも豊富な水量をたたえ、3本の筧から滝のように清水が落ちています。

清水の舞台に登ったころから小雪混じりの雨が降り始めましたので、「音羽の滝」を最後に一日目の京都散策を切り上げ、今宵の宿泊先である「瞑想の湯 秀峰閣」へと小走りに戻りました。