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若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

埼玉モダンたてものを見て歩くーその18-川越市 旧山崎家別邸

2017年12月10日 | 埼玉モダンたてもの散歩


10月1日(日)妻と二人で川越に行き、「旧山崎家別邸」を見てきました。

「埼玉モダンたてもの散歩」で川越市には2014年5月19日に行ったのですが、この建物だけは保存修復工事の為に唯一見ることが出来なかったのです。

それが2016年4月から一般公開されていたと聞いたので遅ればせながら見学した次第です。

信州中野出身の初代・山崎嘉七が1783年に川越に創業した菓子屋が『亀屋』ですが、「四代目山崎嘉七」は1867年に川越藩の御用商人となり明治期に「第八十五銀行」と「川越貯蓄銀行」の2つの頭取を兼ねる豪商となり、当時の川越経済界を主導する存在となりました。

そして旧山崎家別邸は、その跡を継いだ「五代目山崎嘉七」の隠居所として大正14年に建てられました。

設計は建物から庭園まで埼玉りそな銀行川越支店や旧山吉デパートを設計した保岡勝也によるものです。



主屋は、木造モルタル仕上げの洋風屋根葺きの洋館で、その奥には数寄屋造りの和室等と融合している和洋折衷の住宅です。

これは、この建物が隠居所であると共に、皇族方をお迎えする目的で計画されたことによります。

洋館の正面玄関からは入ることができず、屋内には和館の内玄関(写真左奥)から入館します。



屋内に入る前に東側から回って庭を眺めると「茶室」がありました。

茶室は京都の仁和寺の遼廓亭を模したと言われています。



茶室付近から洋館を眺めたところです。



内玄関から愈々屋内へ入りました。

階段の踊り場に据え付けられたステンドグラスは、小川三知の「泰山木とブルージュ」と云う作品で、カラフルな鳥が描かれています。



応接室の窓にもステンドグラスが・・・・これは別府七郎と言う人の作品です。

壁紙やカーテンは当時のままのものだそうです。



ダイニングルームです。

この邸宅は山崎家の社会的地位も踏まえ、プライベートな接待所としての役割も兼ねて建設されたようです。

比較的小さな邸宅ですが、軍事演習に参加した皇族の宿泊所として七回に渡って使われているとのことです。



和室に移ると数寄屋造りの素敵な客室があります。

それほど広くはありませんが、凝った造りの床の間と床脇がきらびやかでいながら、しっとり落ち着いた雰囲気を醸し出しています。



この客間には畳敷きの広縁があり、座布団が敷かれています。

その座布団に座って眺めた和風庭園です。

当時の庭に対する新しい考え方である家族本位の実用性と、鑑賞を考慮した設計です。

特に芝生や児童遊技場、温室、花壇など、この時代の典型的な要素が見られます。



茶室が見えます。

庭園は枯山水と茶庭からなる庭園で、建築と相まって和風庭園の事例として国登録記念物名勝地となりました。

なだらかな高低差のある庭園が広がり、石灯籠や手水鉢、畳石などがアクセントになり、木立の先の茶室が風情を添えています。



8畳ある居間は最も使用された部屋で、扉付きの仏壇があります。



居間のアーチ型の壁の向こうは和室のベランダです。

和洋折衷の創りで、サンルームの役目をします。

普段は窓を開け放ってベランダとして使用していたそうです。



ベランダの隣は児童室です。

遊びに来る孫のための部屋だそうです。



建物から出て、客人を迎える洋室の玄関前を見ました。

1階は吹付モルタル塗り、2階は細い横目地の磨き壁となっています。

袖壁には鮮やかなステンドグラスが見えます。

玄関の正面がプラットホームのようになっているのは人力車をつけるためだそうです。



階段踊り場から見た小川三知の「泰山木とブルージュ」を玄関前から見た写真です。



同じく蔵入口と階段の間にある水辺の植物の意匠のステンドグラスを玄関前から見た写真です。



右手に真っすぐに伸びた松の木がありますが、これが「お手植えの松」です。

旧朝鮮王族だった王垠(りおうぎん)殿下が昭和4年に植えたものだそうです。


以上で旧山崎家別邸の見学を終わります。

以前は期間限定での公開で、建物の中にも入れませんでしたが、今は建物の2階を除いてすべて見学できますので、ぜひ皆さんもお出掛けください。



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埼玉モダンたてものを見て歩くーその17ーさいたま市浦和区・大宮区

2015年03月26日 | 埼玉モダンたてもの散歩


3月25日(水)妻と二人で浦和と大宮のモダン建物を、見て歩きました。

浦和駅と大宮駅の繁華街にあって、車ではどうしても駐車場の確保が難しい為に、これまで後回しになっていた4つのモダン建物を、愛車プリウスではなく、先日開通したばかりの上野東京ラインに乗って行ってきたということです。

浦和コルソ1階のカフェテラスでコーヒーを飲んだ後、最初に行ったのが「埼玉会館」です。

埼玉会館は、昭和天皇のご成婚を記念し、1926年に埼玉女子師範学校敷地内に完成しましたが、その後、老朽化などで取り壊され、1966年に現在の建物が落成しました。

設計者はモダニズム建築の旗手として日本の建築界をリードする前川國男氏です。

埼玉県民に利用される機会は多く、音響家が選ぶ優良ホール100選に選出されています。

また松本清張原作の映画「砂の器」のコンサートシーンのロケ地ともなりました。



次に行ったのが「埼玉会館」から歩いて数分、玉蔵院のすぐ近くにある「鈴木写真館」です。

大正6年(1917年)創業のお店で、大正モダン漂うレトロな写真館です。

日本資本主義の父といわれる渋沢栄一が、ここの写真館で撮影されたということです。

あとで知ったのですが、この写真館は内部も見学できるそうです。



浦和の次は大宮です。

駅の東口を出て高島屋の裏手を歩くと仲町2丁目の繁華街に大正13年竣工の「西原小児科医院」がありました。

木造2階建ての洋風建築で、入口には簡単なポーチが付いています。

外壁は、ドイツ下見板張りで、横板と横板との間に目地があり、コーナーには柱型が付いています。

窓は、上げ下げ窓で、現在も木製のものが現役で使われています。



最後は「大宮区役所入口」交差点を渡って「カモメ通り」を歩くとすぐ右手に「昔からの油屋さん」の看板が掛かったレトロな建物が見えてきました。

「大宮製油合資会社」です。

創業明治39年「油屋さん」と親しまれてきた老舗で、以前は大きな油工場が裏にあったそうです。

現在オリジナル油の製造を自社で行ってはいないが、昔ながらの量り売りは健在だそうです。

瓶を持参すれば180ミリリットル 200円~販売してくれるとのこと。


埼玉モダンたてものを見て歩くーその16-秩父エリア③

2015年01月27日 | 埼玉モダンたてもの散歩


1月25日(日)妻と二人で愛車プリウスに乗って、秩父方面の「埼玉モダンたてもの」を見て歩きました。

秩父方面は昨年の9月14日(日)に見て歩き、秩父エリア①及び秩父エリア②としてご紹介しましたが、場所がよく分からなかったり、時間が足りずに訪問出来なかった残り3箇所を今回廻る事にしました。

最初に行ったのが「旧秩父橋」(2代目秩父橋)です。

2代目(旧秩父橋)は、昭和6年に完成した橋で、現在は橋上公園・遊歩道になっています。

現在車が通るのは、昭和60年に完成した3代目の斜張橋です(写真左上)。



3代目から2代目を見た所です。

右下隅に見えるのは初代の橋脚です。

初代秩父橋は、明治18年に完成した橋で、このように川の中に橋脚だけが残っています。

秩父橋は、2011年にTV放送されたアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』で、主要な舞台の一つになっており、ポスターでも使われています。

そのため「聖地巡礼」(舞台探訪)をする、多くの人が訪れる場所になっています。



次に行ったのが秩父聖地公園の中にある「旧秩父駅舎」です。

上武鉄道(後の秩父鉄道)が秩父まで延伸された際に開設された、木造平屋建・瓦葺・塔屋付の建物です。

大正3年に秩父出身の坂本朋太郎によって設計されました。



中央に吹抜のあるコンコースをとり、その左右に事務室と待合室を配した平面をもっています。

正面に玄関ポーチを付し、大屋根中央に吹抜部明取りの塔屋をあげ印象的な外観を造っています。

昭和59年に現地に移築保存された(国)登録有形文化財です。



本日の最後の訪問先は明治5年開校以来140年の歴史を誇る横瀬町立横瀬小学校です。

昭和8年に建設された2階建の木造校舎(第一校舎)は、旧草加小学校西校舎をはじめ当時、数々の学校を設計した大川勇氏による設計です。



黒光りする床、温もりある木の階段など、あちこちに懐かしさと積み重ねた歴史が感じられます。

職員室や音楽室のほか、4年生の教室としても現役で使用されているそうです。

隣の体育館では、この日もミニバスに興じる児童の元気な声が聞こえてきました。


埼玉モダンたてものを見て歩くーその15-越谷市・草加市・さいたま市

2014年12月07日 | 埼玉モダンたてもの散歩


11月24日(月)妻と二人で愛車プリウスに乗って越谷・草加・さいたま市方面のモダンたてものを見に行くことにしました。

最初に行ったのが越谷市の「横田診療所」です。

日光街道の史跡を色濃く残している県道49号(旧日光街道)を走ると、越谷宿の真ん中に「横田診療所」はありました。

昭和初期には珍しいドイツ式建築で、建物が建設された当初は越谷市の郵便局だったとの事です。

昭和40年から2代目のお医者さんとして診療所を始められたそうです。

診療所を始めた頃から患者さんや通りを通る人が、珍しい建築物ということでよく写真を撮っていったとのことです。

街道沿いには、蔵造りの商家が今も残っています。



旧日光街道を上って草加宿に入ると「草加市立歴史民俗資料館」(旧草加小学校西校舎)です。

地元草加市出身で同校出身の建築家・大川勇の設計です。 

大正15年に建築された、県内で最初の鉄筋コンクリート造校舎で国登録有形文化財です。

現在では、草加市立歴史民俗資料館として、農具、里神楽などの民俗資料、土器や板碑、縄文時代の丸木舟を展示しています。



行きは国道122号から春日部経由で越谷、草加と来たので、帰りは国道17号でさいたま市を通って帰ろう、と言うことになり、「さいたま市立浦和博物館」に立ち寄ることにしました。

この建物は明治11年に建てられた旧埼玉師範学校の校舎であった鳳翔閣(明治天皇行幸の際、三条実美により命名)の中央部外観を復元した建物です。

見沼や見沼通船堀に関する展示、馬場小室山遺跡出土の人面画土器と土偶装飾土器、文化8年(1811)の浦和宿絵図[複製]、鳳翔閣に関する資料などがあります。

また、浦和レッズの現在のエンブレムにも鳳翔閣が描かれています。



次に行ったのが「旧浦和市農業協同組合三室支所倉庫」(現・浦和くらしの博物館民家園)です。

大正8年、栃木県小山市で干瓢(かんぴょう)の倉庫として建設され使用されていましたが、昭和31年にさいたま市緑区三室に移され、米の倉庫として利用されました。



今日の「見て歩き」の最後は北浦和の閑静な住宅街にある隠れ家的高級料亭「会席料理 二木屋」(旧小林英三家住宅)です。

この屋敷の主は、保守が大合同した自由民主党最初の内閣(1955年)の厚生大臣・小林英三です。

昭和10年建築の軍人の家を戦中に疎開用として買取り、増築を経て今の形となったそうで、大正ロマンの和洋折衷の雰囲気漂う、国登録文化財のお屋敷です。

小林家は毛利家の家老の家柄で、広島県尾道で林を名乗っていました。

明治になり武家から商人に変わるとき、小林と改名しましたが、先祖代々の林を屋号に残し、林が2つの木であるところから「二木屋」を名乗り、缶詰食品業を創業したのが屋号の由来です。

この高級料亭は外から眺めただけでお腹が満腹になったので、さっさと帰路に着きました。(笑)


埼玉モダンたてものを見て歩くーその14-ふじみ野市・志木市・新座市

2014年10月23日 | 埼玉モダンたてもの散歩


10月9日(木)妻と二人で愛車プリウスに乗って、ふじみ野市・志木市・新座市の「埼玉モダンたてもの」を見て歩きました。

(写真は新座市にある「睡足軒」の室内です。)



川越から国道254号バイパスを通って、最初に行ったのが、ふじみ野市の「福岡河岸記念館」です。

川越を起点とし、東京都北区の岩淵水門先で隅田川に合流する新河岸川。

江戸時代から昭和初期まで、江戸と農村を結ぶ舟運の中継地として賑わいました。

川越からは米・麦など農産物を運び、帰りは農村へ肥料などを運びました。

往時の様子を伝える貴重な文化遺産である舟問屋「福田屋」を「福岡河岸記念館」として公開しています。



「福田屋」は、天保2年(1831)に福岡河岸の問屋株を借りて回漕業を始めました。

明治20年代には、回漕業の最盛期をむかえ、荒物・醤油の小売商も始めました。

明治28年に川越鉄道が開通するといち早く鉄道輸送も取り入れ、商売を広げていきました。

福田屋には、明治時代中ごろに十数棟の建物が築かれていました。

そのうち帳場が置かれた主屋と台所棟、文庫蔵、離れが現存しています。

県内でもめずらしい明治期の船問屋の様子を伝える貴重な文化遺産となっています。



東武東上線の踏切を渡って、川越街道に入ると大井小学校の隣に見えて来た木造洋館風の建物が「旧大井町役場」です。

この建物は、昭和12年に大井村役場庁舎として建てられました。

寄棟形式の2階木造建築で、玄関ポーチの上部にはベランダが廻され、現在はトタンスレート葺きの屋根も建設当初はスパニッシュ瓦が葺かれており、一階は事務室、二階は村議会議場となっていました。

役場が落成した時には、「大井村と東京との間で一番ハイカラな建物ができた」と村民の手紙に書き添えられたと言われています。

昭和初期の官公庁の建造物が次々と姿を消していく状況にあって、川越街道沿いでは唯一残されているのがこの旧役場庁舎です。

平成14年2月14日に国の登録有形文化財になりました。



次に、志木市役所まで足を伸ばし、市役所前の「いろは親水公園」に移築された「旧村山快哉堂」を見に行きました。

「旧村山快哉堂」は明治10年11月に建築された木造2階建て土蔵造りの店蔵です。

店蔵が座売り形式の商形態を残す点、一階中央部分の吹き抜け、鉢巻の2段構成、ムシコ窓とその枠回りなど川越の店蔵とは異なる特有の意匠構成が見られ、貴重な有形文化財です。

木曜日は残念ながら休館日で内部には入れませんでした。



次は、志木街道を走って、新座市の「立教学院聖パウロ礼拝堂」です。

チェコ出身の建築家アントニン・レーモンド(1888~1976)は各地に素晴らしい建築物を数多く建てていますが、それらの中でも教会建築は目を見張るものがあります。

この礼拝堂は、白い貝殻を思わせるカーブを組み合わせて豊かな空間を生み出しています。



本日の締め括りは、新座市の「睡足軒」です。

「睡足軒」の敷地は、国指定天然記念物平林寺境内林の一部であり、9,379平方メートルを有する緑豊かな景勝の地です。

電力事業に生涯を捧げ「電力の鬼」といわれた実業家である一方、茶道にも造詣の深かった昭和の大茶人・松永安左エ門(耳庵)氏が土地を購入し、屋敷地としました。



近代の三茶人(益田鈍翁、原三渓、松永耳庵)と称される松永安左エ門氏は、昭和13年に、横浜三渓園で有名な原富太郎(三渓)氏の世話で、飛騨高山付近の田舎家を敷地内に移築させました。

これを草庵として、親しい友人を招き、「田舎家の茶」を楽しみながら囲炉裏を囲んで団欒する日々を楽しんでいました。

その後、昭和47年に茅葺の田舎家と敷地が、菩提寺である平林寺に譲られました。

近年、睡足軒は、無住状態が続きましたが、園庭や建物などは、十分活用が図られることから、平林寺老大師・野々村玄龍氏のご厚意により、平成14年に新座市に無償貸与されたものです。