若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

東の小京都ー足利散策

2009年05月31日 | ウォーキング





5月31日(日)今にも泣き出しそうな空でしたが、妻と二人で思い切って栃木県足利市に行ってきました。

足利の街並みは関東の小京都ともよばれています。

渡良瀬川に両崖山の山並みの組み合わせは、京都の賀茂川と東山三十六峰によく似ています。

最初に行ったのが正義山法楽寺。

この法楽寺本堂は京都東山の銀閣寺を模したと言われています。









法楽寺から山を登り織姫公園に向かいます。

織姫公園は眼下に足利の市街地と、ゆるやかに流れる渡良瀬川の清流を望む、標高60m~160mの丘陵地帯に造成された市内唯一の総合公園です。








もうすぐ織姫公園に到着です。

私の遥か前を行く妻の横を、ジョギングの若い女性が颯爽と追い越していきました。

この女性、織姫公園で再会したのですが、親切にも私たち二人の写真を撮影してくれました。

「『イノシシ出没注意』とありましたが大丈夫ですか?」という私の野暮な質問にも「大丈夫ですよ」とにっこり笑って走り去りました。









織姫公園を下ると織姫神社です。

織物とともに栄え、織物とともに歩んできた足利。

その足利の守り神として八千々姫命、天御鉾命を祀った神社です。

また縁結びの神としても祀られています。









織姫神社から足利学校へ向かう裏道。

懐かしい銭湯が残っておりその路地裏は質店・スナック・旅館など昭和の時代がそのまま残っていました。

自動車までが昭和そのものでした。(笑)









1550年にフランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介された足利学校に到着しました。

雨が少し降り始めました。








杏壇門(きょうだんもん)をくぐり、正面に見えるのが、孔子廟(こうしびょう)です。

孔子様をまつってあり、聖廟とも呼ばれています。

聖廟の中には、孔子坐像・小野篁(おののたかむら)公像・四配などが納められています。

日本に現存する最も古い孔子廟です。









「方丈」と言って、学生の講義や学校行事、また来客のための座敷として使用されたところです。








足利学校を出て国道293号線を渡ると、太平記館があります。

NHK大河ドラマ「太平記」にゆかりの鎧・衣装や、セットのミニチュアなどが展示されているほか、足利市の観光みやげ品を一堂に集めた売店があります。









足利学校に戻り、孔子様通りを西に進むと相田みつをゆかりの店「めん割烹・なか川」です。








「めん割烹・なか川」を右折してすぐに大正館(松村記念館)があります。

この建物は、大正14年に4代松村半兵衛が建てたもので、江戸・明治・大正・昭和期の松村家に伝わる調度・生活用品のほか、足利出身の横田千之助司法大臣をはじめとする政治家や、当時の文化人、学者などの資料を紹介しています。









大日大門通り(相田みつを青春の道)です。

いしだたみの散歩道とも言います。

なか川が旅館だったころ、相田みつをが日々通った道だそうです。









足利学校から続くいしだたみの散歩道を歩くと鑁阿寺(ばんなじ) の入り口、太鼓橋が迎えてくれます。








鑁阿寺(ばんなじ)は源氏の祖、八幡太郎義家の孫足利義康の子、足利義兼が鎌倉時代初期(1190年代)に邸宅を撤去し、大日如来を本尊とする真義真言宗の寺院として開創されたそうです。

写真は多宝塔、右側に天然記念物の大銀杏。

天気予報よりも少し早く雨が降り始めましたが、小京都にはむしろ小雨のほうが似合うもので全く気になりませんでした。




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両国界隈ー大相撲

2009年05月24日 | 電車でおでかけ





昨日(5月23日)妻と二人で両国の国技館界隈を散策して来ました。

総武線両国駅西口構内には、いきなりお相撲さんの大きな写真が飾られていました。

これは相撲協会理事長・武蔵川親方の現役時代の写真です。









駅を出てすぐに両国国技館があります。

現在の両国国技館は二代目で1985年1月場所より使用されているそうです。









大相撲5月場所14日目、横綱白鵬が全勝記録をどこまで延ばすか、ということで10時過ぎには入場券が早くも完売でした。










国技館のすぐ北側に旧安田庭園があります。

常陸笠間藩主の本庄氏が元禄年間(1688年~1704年)に築いた屋敷跡に開かれた庭園で、明治時代に安田財閥の安田善次郎が所有し、後に東京都に寄贈されたものです。

中央の心字池の周囲には木々が茂り、北側の両国公会堂とも相まって見事な景観です。









公会堂側から心字池を眺めたところです。

国技館の屋根が見えます。

入口は国技館側と横網町公園側の2箇所あり、無料で入園することができます。








旧安田庭園の東側には横網町(よこあみちょう)公園があります。

関東大震災で犠牲になった被災者の供養とその後の復興を記念するため園内には東京都慰霊堂と東京都復興記念館が建っています。








横網町公園から清澄通りを南下して江戸東京博物館に入りました。

蒸し暑くお腹も空いてきたので、博物館内は何も見ず、7階の「桜茶寮」という和風レストランへ直行(笑)。

国技館周辺の街並みを眺めながら食べた「大江戸弁当」が非常に美味かったです。







お腹も一杯になり元気が出たところで今度は両国駅南側を散策しました。

国技館通りを歩いてすぐに力士の像と手形のついたオブジェがありました。







京葉道路との交差点を渡ってすぐに旧国技館跡と回向院(えこういん)がありました。

回向院は1657年に明暦の大火の犠牲者を弔うために建てられた浄土宗の寺院です。

旧国技館ができるまでは公共社会事業の資金集めのための寄付相撲、いわゆる勧進相撲興行がここで行われていたそうです。

力塚の碑は、昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、現在も相撲と当院とのつながりを示す象徴になっています。








回向院には鼠小僧次郎吉の墓もありました。

鼠小僧次郎吉の墓を見て回向院の裏側の小道を東側に歩くと相撲協会専属のクドウ写真館に併設された「相撲写真資料館」があります。

「旧国技館から新国技館までの人や街の変遷」や「写真でらみれる幕内力士の番付表」等々、相撲ファンならずとも訪れる人の目を楽しませてくれます。







この界隈には相撲部屋がたくさんあります。

出羽の海部屋・時津風部屋・大島部屋・二所ノ関部屋などなど。

特にこの出羽の海部屋は、いかにも昔ながらの相撲部屋という感じで、入り口には弟子たちのチャリンコが沢山並べてあり、屋上には洗濯物が無造作に干されていました。

古き良き時代の、のどかな雰囲気が漂っていました。









最後に「横綱横丁」を歩いて両国駅東口から帰路に着きました。

帰ってから夕方、テレビで大相撲を見ました。

何と・・白鵬が琴欧州に破れて連勝記録が33で止まり、朝青龍が日馬富士に投げ飛ばされました。

国技館で見たかったなあ・・・(笑)





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松戸市常盤平団地

2009年05月05日 | ドライブ





大型連休中の5月4日、新婚時代を過ごした千葉県松戸市の常盤平団地へ妻と二人でドライブに行ってきました。

団地内を貫くけやき通りは「新・日本街路樹百景」に選ばれており新緑のこの季節は特に素晴らしい街並です。









この団地は1959年に第一次入居者募集(992戸)が行われ、隣接する柏市の光ヶ丘団地に次ぐ、日本住宅公団による千葉県内では2番目の大規模団地造成であったたそうです。

1959年かぁ・・・もう50年になるんですね。









私たちが約34年前に住んだのが、この高層団地です。

1階が松戸市役所の支所となっており婚姻届も非常に便利でした。(笑)









私たちの住んでいた所から常盤平駅方面に続くけやき通りです。









高層団地の目の前にあった商店街ですが、今は寂れて「松坂屋ストアー」だけが営業しているという感じでした。









すぐ隣にあったマンションです。

1階にあったお肉屋さんはまだ残っていました。









これはスターハウスというもので星型住宅、星型住棟とも呼ばれています。

日当たりが良かったため人気がありましたが最近は老朽化が進んでいるそうです。









中層フラット棟と言うのだそうです。

4階建ての典型的な公団住宅ですね。

1990年代から建物の老朽化が問題となり、建て替えも提案されていたそうですが、高齢化が進展している事情から建て替え反対運動があり、ストック活用の方針が打ち出されたそうです。

昭和30年代の公団住宅の建て替えが進む中、初期の公団住宅の姿をそのまま残す貴重な存在となりつつあるそうです。









常盤平駅前のけやき通りです。

常盤平駅南口駅前で、さくら通りと交差します。

さくら通りも「日本の道100選」に選ばれています。

右側の青い建物が西友です。









新京成電鉄・常盤平駅です。

ここから松戸駅に出て、常磐線で日暮里駅を経由して、山手線で新宿まで通いました。

結構シンドイ「痛勤」でしたが今となっては懐かしい想い出です。









全てに老朽化が進んだ街・・・と言ったら怒られるでしょうか・・・・

私たちが暮らした昭和50年頃がこの街の最盛期だったのかもしれません。




最後に私のホームページ「お気に入りの街・常盤平」の文章を載せます。



『私たちは昭和50年に結婚して千葉県松戸市の「常盤平団地」に新居を構えました。

妻とは同期入社で、入社してすぐに交際を始め、2年後に結婚しました。

いわゆる「職場結婚」です。

この団地は公団住宅の草分け的な存在で、出来た当初、入居者は「団地族」としてマスコミに紹介され、時代の最先端を行くものであったそうです。

かなり高倍率の抽選に運良く当たり、最初に入居したのが松戸市役所の常盤平支所が1階にある高層団地でした。

小さなキッチンと6畳の和室、それにトイレと浴室が仕切りなし、という狭い部屋でしたが当時の私たちにはそれで充分でした。

駅前にはオープンしたばかりの大きな西友があり買い物には不自由しませんでした。

その年の10月に長男(ハネムーン・ベビー)が生まれ私たち夫婦にとってはこの上もなく楽しい日々でした。

団地の正面を貫く欅並木は素晴らしいもので、休日には子供を自転車の前に乗せ八柱霊園や五香まで出かけたものです。

街は乳母車に赤ん坊を乗せた若い夫婦たちで溢れ、活気づいていました。

昭和52年に次男が生まれ、さすがに部屋も手狭になったので、すぐ近くの「牧の原団地」に引っ越しました。

新築の団地で2DK。家族4人が住むには十二分な広さでした。

電車の便があまり良くなく、新宿の勤務先までは1時間20分ほどかかりましたが妻や幼い子供たちには最高の街であったと思います。』





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