若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

桐生市ー歴史と文化の香る本町通りを歩く

2014年12月01日 | ウォーキング


11月15日(土)妻と二人で愛車プリウスに乗って、群馬県桐生市まで行ってきました。

最初は「JR東日本・駅からハイキング」のコースを歩くつもりでしたが、本町通りの「桐生新町重要伝統的建造物群保存地区」を見て歩くほうが面白そうなので、群馬大学工学部までの本町通りを往復しました。

桐生駅前から末広通りを歩き、本町五丁目の交差点を左折して本町通りに入るとすぐ左手に見えてきたのが「金善(かなぜん)ビル」です。

「金善ビル」は群馬県内の鉄筋コンクリート建造物では最古級であり、平成18年に、国の登録有形文化財となっています。

ビルの名称は織物業を営んだ金居善太郎の屋号に由来し、金善ビルは金居善太郎の長男である二代目の金居常八郎によって、大正10年頃に建築されたそうです。



「金善ビル」の横の小路を入ると「糸屋通り」という本町通りの裏通りなのですが、ここに「芭蕉」という正真正銘の古民家レストランがあります。

昭和12年にビルマ大使館の調理人として腕を磨いた先代の小池魚心さんが開いた異国料理店です。

多くの文人墨客も押し寄せ、シャンソン歌手の石井好子やイベット・ジロー、版画家の棟方志功も訪れたそうです。



再び本町通りに戻ると鰻の香ばしい匂いがしてきました。

「蒲焼 泉新(いずしん)」です。

桐生で185年続く(創業天保元年1829年)老舗鰻店。

何と今の店主で六代目という歴史のあるお店です。

初代は越後出身で、江戸後期に故郷を出て、横浜で『うなぎ屋』をしていたところ、桐生の生糸を扱う関東三大富豪の一人、九代目・佐羽清右衛門が、そのうなぎ屋の味に感動し、是非桐生でと懇願され、天保元年に桐生で泉屋新蔵が開業されたのだそうです。



さあこれから「桐生新町重要伝統的建造物群保存地区」に入ります。

本町二丁目の南端に位置する「有鄰館(ゆうりんかん)」と「矢野本店店舗及び店蔵」からです。

二代目矢野久左衛門が寛永2年(1749)現在地に店舗を構えて以来、桐生の商業に大きく寄与してきた土蔵等建物群です。

酒・味噌・醤油を醸造し、保管するために使用されていた江戸時代から昭和時代にかけての11棟の蔵群が、舞台や展示、演劇、コンサートなど様々な用途に使用されています。

多くの人が訪れ、プロアマを問わず、それぞれの目的によって自ら会場を作り上げて行く独特の活用方法で「文化を発信する場」として、また、周辺に残る歴史的建造物や近代化遺産などと一体となった街並み保存の拠点にもなっています。



「花のにしはら」(旧書上商店)

母屋で無頼派作家・坂口安吾が晩年(昭和27年~30年)を過ごしたという明治期の桐生を代表する買継商「書上文左衛門」の商店店舗です。

隣に「坂口安吾往還の碑」が立っています。



「旧平田商店」 - 国の登録有形文化財

大正3年建造で、左半分が倉庫としての蔵であるのに対して右半分は店舗としての蔵「店蔵」 と言われています。

しっくい仕上げの壁と重厚な扉が美しさをいっそう引き立てています。



「中村弥市商店」は 大正11年建造で 国の登録有形文化財です。

本町通りの東側で、幅約12メートル、奥行き約82メートルの敷地北寄りに、表から店、文庫蔵(新座敷)、奥座敷が直列し、南辺に浴場、石蔵が建ち並んでいます。

この短冊状の屋敷地は、桐生新町町立て当時の規模をそのまま伝えているそうです。



「無鄰館」は旧北川織物工場の現在の名称で国の登録有形文化財です。

現存する鋸屋根工場は、大正5年に建築され、昭和35年頃まで操業していました。

現在は、建築設計事務所のほか彫刻家、画家たちの創作工房として利用されています。



「森合資会社」は大正3年に金融業の建物として建てられた木造平屋建て、瓦葺の建物で、国の登録有形文化財です。

当時の洋風建築の要素を取り入れつつ、玄関庇や窓の小庇は格式の高い和風にするなど和様混在の擬洋風建築の形式です。

隣接する土蔵は2階建て、切妻、瓦葺きで事務所より早い明治時代初期の建物で事務所との対比が印象に残ります。



事務所北側にある「森家住宅石蔵(穀物蔵)」です。

これも登録有形文化財です。

現在は「天然染色(そめいろ)研究所」として使われています。

ざくろ、どんぐり、びわ、バラ、ローズマリーなどを使って草木染めができます。

織り機もあり、機織り体験も可能だそうです。



本町一丁目バス停の前にある石造りの可愛らしいお店が「和ざかな工房」です。

旧早政織物の工場事務所棟に出来たガラスアクセサリー・とんぼ玉のお店です。



「和ざかな工房」の隣が、銭湯「一の湯」。

「一の湯」は当初隣接する織物工場で働く従業員のための浴場として建築され、近隣住民に利用されていたそうです。

現在も市内に数少ない銭湯として営業しています。



本町通りの次の信号を右に入ると、イギリス積みのレンガ造りのノコギリ屋根工場の建物が見えてきました。

「ベーカリーカフェ レンガ」と言い、大正8年に建てられ、国の登録有形文化財として残された旧金谷レース工業㈱の工場がベーカリーカフェとして生まれ変わったものです。

事務所棟は、昭和6年に建築され、木造二階建てスクラッチタイル張りで、窓や細部に至る意匠に昭和初期の洋風建築の特徴が見られます。



もう一度本町通りに戻ると、「桐生天満宮」が左手に見えてきました。

現在の桐生市街は、「桐生天満宮」を基点として成立しており、天満宮鳥居前が本町一丁目となっています。

桐生市は多くの高校が存在するため、受験シーズンには多くの参拝者が訪れるそうです。

この日は七五三の参拝客で賑わっていました。



本町通りの最後は「群馬大学工学部の同窓記念会館」です。

大正5年創立の桐生高等染織学校の本館で玄関の一部と講堂が同窓記念会館として残っています。

建物は木造二階建瓦葺、ハンマービームと呼ばれる独特の屋根構造を持ち、内外装から金具・調度品に至るまで建築当初の姿を残しており、教会堂のように厳粛でありながら華やいだ空間を創り出しています。

NHk連続テレビ小説「花子とアン」で花子が通う女学校「修和女学校」での撮影ロケ地は、この同窓記念会館で撮影されました。

他にも、平成18年に放映されたNHK連続テレビ小説「純情きらり」や14年に公開された映画「突入せよ!あさま山荘事件」でもロケ地となったそうです。



「桐生新町重要伝統的建造物群保存地区」を見終えて、末広通りに戻り、「デニーズ」で昼食を食べたので「さあ帰ろうか」と言うことになったとき、”ミーハー好き”の妻が「もうひとつだけ・・西桐生駅を見たい・・・」と言うので付き合いました。

「西桐生駅」は上毛鉄道上毛線の駅です。

開業当時からの駅舎で、マンサード屋根の洋風建築の建物になっています。

ただし宿直室は和風の畳部屋、隣の台所は三和土の土間であり全体としては和洋折衷の建物になっているので「織物の町桐生市内に開設当時から残る保存が望まれる駅舎で機織りが体験できる駅」という理由で、関東の駅百選の第2回選定対象となったそうです。

松本清張ドラマ『球形の荒野』や森村誠一原作の連続ドラマ『人間の証明』、更に映画『少年H』や『君に届け』それに『人のセックスを笑うな』等等の・・・ミーハーには堪らないロケ地なのでした。



加須・・・・もうひとつのふるさと

2012年03月21日 | ウォーキング



3月20日(火)妻と二人で愛車プリウスに乗って、埼玉県加須市に行ってきました。

加須市は私たちにとっては近くて遠い町で、今までは通過するだけの町でした。

武蔵野銀行と立教大学観光学部が産学連携事業として「埼玉 地域交流フットパスプロジェクト」を立ち上げ、「ぶらって○○」と言う、まち歩きMAPを作成してくれているのは2010年1月31日付のブログでご案内したとおりですが、今回その第4弾「ぶらって加須」が出来たと言うので、早速その小冊子とカメラを持って、加須の町を散策した次第です。

写真は会の川(あいのかわ)親水公園です。





イトーヨーカ堂に車を停めて、加須市の中心部へ向かって歩き始めました。

会の川を渡る橋ですが「伝承 徒歩橋(かちばし)」という道標が橋の横に立っています。

この橋は江戸時代には龍蔵寺の参道の起点に位置していたので、馬に乗ったままの通行は無礼ということで禁止されていた為、この橋の手前で馬を降りて歩いて渡らねばならなかったことからこの名が付いたそうです。





徒歩橋を渡ってすぐの交差点を左折すると、左手に「橋本弥喜智商店」です。

加須市と言えば鯉のぼりと手打ちうどんが有名です。

全長100m、重さ350kg、目の直径10mのジャンボ鯉のぼりは、この店の3代目橋本隆氏がデザイン&設計を担当し、加須市民のべ2000人で製作されたものだそうです。

今年も5月3日(雨天時5月4日)の加須市民平和祭で遊泳するそうです。





県道152号線を東進すると「岡安堂」という和菓子の店があります。

この店は江戸時代に創業され、現在の店主で6代目の老舗和菓子店だそうで 「鯉のぼり最中」が人気です。

「鯉のぼりで何か名物を!」と考えた5代目が考案し、今ではすっかりお店の看板商品となったそうで甘いものに目がない妻は早速、御購入致しました。





岡安堂の交差点を北上し、再び会の川に出て会の川親水公園を東に進みます。

これは何でしょう・・・・?

人の影から時刻を知る人間日時計だそうです。

自分の身長に合う足型の上に立って、自分の頭の影の先と広場の時刻表示線から時刻を読み取るのだそうです。





会の川親水公園から中央2丁目交差点に出て、武蔵野銀行の裏のほうの小径を歩きます。

「ぶらって加須」では「まる石の小径」と呼んでいます。

この小径の突き当たりを左に曲がると・・・





円空の彫った不動明王坐像がありました。(但し仏像を見ることは出来ませんでした。)

円空は江戸時代、諸国を遊行し、その生涯に12万体の仏像を彫ったと言われています。

彼の彫った仏像は「円空仏」と呼ばれ、独創的で力強く、それでいて素朴な美しさに満ちています。

ここにある円空仏は総高29.2cmの杉の一木造りで、頭頂部に蓮華をいだき、左肩に弁髪をたらし、右手に宝剣、左手に羅索を持ち、岩に座っています。

円空仏は北埼玉地区にはほとんどなく、珍しいものだそうです。





「まる石の小径」を出るとすぐに「千方(ちかた)神社」です。

松の古木がそびえる入口から、結構長い参道が続き、広葉樹の葉が落ちた境内は明るく、最奥に落ち着いた佇まいの社殿が建っています。

「千方」という社名は、佐野唐沢山城主鎮守府将軍・藤原秀郷の六男藤原千方が、父秀郷同様、鎮守府将軍の地位に付き、この地方の徳政を行った功績により、鎮守千方大神として祀られたのが由来と、伝わっています。





千方神社でお参りしたあと「市民プラザ加須」で休憩し、中田病院という大きな病院の手前の道を東に行くと、「魚進」という魚屋さんがあります。

「ぶらって加須」がお薦めの「とろねぎコロッケ」(1個100円)を夕食のオカズに買い込みました。





加須駅に向かって歩くと、これも「ぶらって加須」がお薦めの「コーヒーイン千珈多」がありました。

アンティークな雰囲気のする、如何にもワタシ好みの喫茶店でしたが、今はお腹が空いてコーヒーよりも「加須のうどん」が食べたい!!ので・・・・ここは残念ながらパスです。





と言うことで、加須駅前の大通りを北へ進み、加須市商工会館を左折して、辿り着いたのが、やはり「ぶらって加須」がお薦めの「吉野屋」です。







「朝まんじゅうに昼うどん」と言われるくらい、加須市は小麦食文化が盛んな地域です。

お米が年貢として供出された昔、米の裏作として作られた大麦を混ぜた麦飯が主食とされており、農家の人にとってツルツルシコシコしたうどんは、お祭りなどの特別な日に大切なお客さまをもてなすときのご馳走あったそうです。

私は「ネギ南蛮うどん」の温かいのを、妻は「合い盛り」を食べましたが、二人とも大満足でした。



行田市の古代蓮コースを歩く

2010年03月07日 | ウォーキング




2月28日(日)雨上がりの午後、妻と二人で行田市内を歩きました。

行田市教育委員会が作成した「行田市ウォーキングマップ」の「2.古代蓮コース」10キロを3時間かけて

歩きました。

さきたま古墳公園からのスタートとなります。

「さきたま古墳群」は、大型古墳が集中していることで全国的に有名で、昭和13年8月に国の史跡として指定を受け、「さきたま風土記の丘」として整備、活用されてきました。

中でも丸墓山古墳は日本一の円墳といわれています。

(さきたま古墳公園へは、JR吹上駅から朝日バス佐間経由行田車庫行「産業道路」下車徒歩15分)








さきたま古墳公園から田圃の中を旧忍川に沿って2.6キロほど歩くと「古代蓮の里」に到着です。

ふるさと創生事業 の一環として行田市の天然記念物に指定されている “古代蓮”をシンボルとする公園を、古代蓮の自生する付近に「古代蓮の里」として整備されました。

6月下旬から8月上旬のハスの開花期には多くの人々が訪れます。










「古代蓮の里」から1キロほど歩くと成就院の三重塔が見えてきます。

この三重塔は、享保14年(1729年)に建立されたもので、昭和56・57年に解体復原工事を実施し、現在に至っています。

この塔は一地方寺院が地方大工の手で建立した特殊な塔で、その一辺も僅か2.24m、高さ10mというかわいい塔です。

とにかく手馴れた宮大工なら考えもつかない手法を用いて、それなりにうまく消化して、一つのまとまった形態に仕上げているようです。

江戸時代の三重塔は埼玉県内には3基のみで大変貴重なものだそうです。









成就院から田圃の中を歩いて行田市の工業団地に入って行くと、「八幡山古墳」が見えてきました。

八幡山古墳は、さきたま古墳群とは別の若小玉古墳群内にある直径80メートルの円墳で、7世紀頃に築造されたそうです。

昭和初期に、小針沼埋め立てのために土がはぎとられ、石室のみが露出し、まるで石舞台のような外観となっています。









藤原工業団地を更に進むと、「地蔵塚古墳」に到着です。

石室に北武蔵唯一の線刻画が、左壁・右壁及び奥壁に、描かれており、烏帽子を被った人物、馬、水鳥、家と思われるものが確認できるそうです。

石室は壁画保護のため施錠されていますが、埼玉県立歴史と民俗の博物館に複製が展示されています。








地蔵塚古墳から、近くのヤオコー藤原店で夕食の買い物をして、マップ通りに「八坂公園」へ。









更に「富士見公園」を経て、出発地点の「さきたま古墳公園」に戻りました。

所要時間はマップ通り、3時間でした。

時計を見ると夕方の5時、心地よい疲労感と多少の空腹感を覚えながら帰路に着きました。




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羽生・・・・あなた色に染まるまち

2010年01月31日 | ウォーキング




武蔵野銀行と立教大学観光学部が産学連携事業として「埼玉 地域交流フットパスプロジェクト」を立ち上げ、その第2弾として「ぶらって羽生」という小冊子を作成したと聞き、武蔵野銀行でその小冊子を手に入れて、今日、妻と二人で隣町・羽生市へ行ってきました。









「ぶらって羽生」の「まち歩きMAP」に従って歩きました。

最初に行ったのが田山花袋の「田舎教師」のモデルとなった小林秀三が下宿していたという建福寺です。

「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった。」









小林秀三は栃木県足利郡小俣村に生まれ埼玉県第二中学校(現県立熊谷高等学校)を明治34年に卒業すると、友人狩野益三の父の紹介で弥勒高等小学校の準教員となりました。

小林家は小俣の名家でありましたが秀三の父の頃から没落して足利から熊谷・行田・羽生へと移り住んだそうです。

田舎の教師としての自分に焦り、苦悩しながら、与えられた人生を精一杯生きようと努力するのでしたが三年余りの教師生活で20歳と言う若さで病死したのでした。









この小冊子では羽生の町の魅力として四つの「小路」を取り上げています。

羽生駅から歩いてまわる際にお勧めなのが、この「抜け道小路」です。









「抜け道小路」から中央一丁目を通って、東武伊勢崎線の踏切まで歩くと、「毘沙門堂」に来ました。

お賽銭を投げてお祈りしたのは、もちろん「夫婦円満・健康第一」です。









「毘沙門堂」からもと来た道を戻ると、左側に「小林商店」のピンク色の工場が見えました。

羽生の歴史は繊維産業・特に藍染の歴史だそうです。

明治時代に入ると製糸所ができ、足袋の生産量は全国でもトップクラスであったそうです。

昭和になると足袋ばかりでなく作業着や和装衣服など町工場もたくさん出来て活気に満ちていたそうですが第二次世界大戦などで衰退してしまったそうです。









火の見やぐらの交差点を左折してほどなく、入るのをためらってしまうような、知る人ぞ知る「隠れ家小路」に入ります。

「ここが本当に小路なのかなあ・・・」どこにつながっているのか分からない小路です。









再び「さかい屋」の交差点に戻り、「あま太郎」や「松栄堂書店」をもう一度通って、火の見やぐらの交差点を更に東進すると、「お散歩小路」に入りました。

車が少なく、緑が多く、蔵や味のある建物など、見所満載の小道です。









「お散歩小路」の終点が「八雲神社」です。

静寂な八雲神社と慌しいプラザ通りを結ぶ小路を架け橋に例え、「架け橋小路」と名付けたそうです。









プラザ通りを南下すると左手に「市民プラザ」です。

ここで休憩。

1階には藍染コーナー、2階には田舎教師の資料室がありました。









プラザ通りを更に南下すると正覚院、そして懐かしい昭和の工場を思い出させてくれる「ゴーリキ」の工場と煙突が見えました。

「ぶらって羽生」の「まち歩きMAP」をほぼまわり終えた私たちは「ゴーリキ」のそばの「ヤオコー」で夕食の買い物をして羽生の町をあとにしました。

立教大学の学生さんたちのお蔭で楽しい休日を過ごすことが出来ました。

第3弾・第4弾の「ぶらっと○○」を楽しみにしています。




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前橋ー水と緑と詩のまち

2009年10月24日 | ウォーキング




10月24日(土)妻も会社が休みであったので二人で群馬県前橋市に行ってきました。

上毛電鉄の中央前橋駅から歩き始めました。







「広瀬川詩(うた)の道」と名付けられた広瀬川河畔緑地には萩原朔太郎をはじめとする前橋ゆかりの詩人・歌人の碑があります。

また現代詩の最も優れた作品に送られる「萩原朔太郎賞」を受賞した詩が刻まれたモニュメントなどが点在しており、まさに文学の遊歩道です。







詩人萩原朔太郎は口語自由詩を確立し、近代詩史に大きな足跡を残しました。

他に平井晩村、高橋元吉、萩原恭次郎、伊藤信吉ほか多くの詩人を輩出した前橋は「近代詩のふるさと」と言われています。

前橋文学館は、これら詩人たちの資料を展示しています。






「広瀬川詩(うた)の道」を出て前橋公園に向かいました。

「前橋るなぱあく」という遊園地が眼下に見えました。

「前橋るなぱあく」のキャッチコピーは「日本一なつかしい遊園地」で、「ゆっくり大きくなる子どもたちのために」をモットーに運営を行っているそうです。









「前橋るなぱあく」を過ぎると右手に「臨江閣(りんこうかく)」です。

県の重要文化財に指定されている本館と茶室、市の重要文化財の別館があります。

入館は無料です。別館から入ります。

別館は明治43年(1910)に共進会の貴賓館として建てられた木造2階建ての入母屋建築です。

安中市にあった旧中山道の杉並木の樹齢200年の大木が30本も柱に使われたそうです。







本館は明治17年(1884)9月、当時の群馬県知事の揖取素彦(かとりもとひこ)や有志によって迎賓館として建てられたそうです。

2階のこの部屋は明治天皇が使われたお部屋です。







臨江閣を出て前橋公園に到着です。

前橋公園は明治38年に開園した前橋市内で最も古く歴史ある公園です。

園内には、鶴舞う形の群馬県を形どった「さちの池」などがあり、前橋城の土塁の名残である土手には桜並木が続き、桜の名所としても有名です。

「さちの池」の背後には群馬県庁の高層ビルが見えます。







前橋公園から道路ひとつを渡ると群馬県庁です。

この写真は昭和庁舎です。

昭和庁舎は、早稲田大学大隅講堂を設計した佐藤功一の設計により、昭和3年に建設され、現在の新庁舎が完成した平成11年夏まで、長年県庁の顔として親しまれてきました。

昭和初期の典型的洋風建造物で、関東近県では、最も先進的な建築技術を駆使した県庁であったそうです。







1時間半ほど歩き回り、お腹も空いてきたので、県庁新庁舎31階にある「ヴォレ・シーニュ」で「ジャーマンスタイル ハンバーグランチセット」という長たらしい名前のハンバーグを食べ、少し冷めた食後のホットコーヒーに多少の不満を感じつつ、今日のウォーキングを終了しました。


 
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