若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

近江商人の街並み散策ーその1

2014年10月30日 | 旅行


10月11日(土)妻と二人で和歌山の実家へ帰る途中、滋賀県の近江八幡市で途中下車して、近江商人の街並みを散策して来ました。

新幹線で米原まで行き、JR東海道本線(琵琶湖線)に乗り換え、11時過ぎに近江八幡駅で下車。

先ずは腹ごしらえと言うことで、駅近くの「カネ吉山本」で近江牛のステーキランチを食べたあと、南北の大通りから西へ向かい池田町の洋風住宅に行く途中に見えてきたのが「八幡小学校」です。

とても小学校とは思えない見事な白亜の建物です。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、近江八幡の歴史を語るとき、なくてはならない建築家であり実業家ですが、この小学校も一粒社ヴォーリズ建築事務所の建築物だということです。



「八幡小学校」を通り過ぎてすぐの角を右折し、池田町通りを北に進むと「池田町洋館街」です。

「池田町洋館街」は、ご覧のとおり煉瓦の塀が連なり、とてもノスタルジックです。

ヴォーリズが近江八幡で最初に設計した現存する3棟の大正時代築の西洋館で構成されています。



「旧吉田悦蔵邸」

ヴォーリズが赴任した近江八幡商業高校の教え子で、その後近江兄弟社をヴォーリズとともに支えた吉田悦蔵氏の住居です。

登録有形文化財に指定されたアメリカン・ダッチ・コロニアル風の木造三階建て、大正2年築。



「旧ウォーターハウス邸」

近江ミッション伝道事業に加わった、元早稲田大学の教師ウォーターハウス氏のために大正2年に建てられた住宅です。

「旧ウォーターハウス邸」の隣にはヴォーリズの自宅がありましたがヴォーリズ邸は解体され現存しません。



「ダブルハウス」

大正10年築のこの建物は近江ミッションの米国人スタッフのための住宅で、コロニアル・スタイルの二世帯住宅です。

最初に入居したのはヴォーリズの両親と米国の建築技師で、その後も近江ミッションの人たちに受け継がれ、佐藤、諸川両家の住宅として現在も使われています。



「池田町洋館街」から北へ少し歩き、右折して京街道門前通りを東に向かって歩きます。

「中村四郎兵衛邸」は、扇屋(伴家)に奉公していた四郎兵衛が、屋号の一字を譲り受け、「扇四呉服店」と称して現在の地に享保5年(1720年)に開店したことに始まります。

3代目が京都・大坂に出店するなど店を拡充し、5代目は初代八幡町の収入役として活躍しました。

9代目となる今日も創業以来の[呉服]を商う(株)扇四呉服店として地域と共に歩んでいます。



「中村四郎兵衛邸」から更に東へ歩くと、その中村四郎兵衛が奉公していた「旧伴家住宅」です。

伴庄右衛門は江戸初期に活躍した八幡商人で屋号を扇屋といいます。

寛永年間に東京日本橋に出店し、麻布・畳表・蚊帳を商いました。

5代目の伴蒿蹊は18歳で家督を継ぎ、大坂淡路2丁目に出店。

学問にも興味を持ち、本居宣長、上田秋成、与謝蕪村らと親交のある国学者でもありました。

以後も、伴家は繁栄を誇りましたが、明治維新等の激動期に逆らえず明治20年に終焉しました。



通りをはさんで前にある「歴史民俗資料館」は、森五郎兵衞の控宅で、近江商人の往時をしのぶ帳場風景や生活様式をそのまま残し、そのほか多くの民俗資料を展示公開しています。

裏庭には、民具、農具などが展示され、水郷地帯の農村の生活を知ることができます。

初代五郎兵衞は、伴傳兵衞家に勤め、別家を許され、煙草や麻布を商いました。

やがて、呉服・太物など取扱商品を増やし、江戸日本橋や大坂本町にも出店するなど活躍しました。



新町周辺は、古い町並みがよく保存されており、国の重要伝統的建造物保存地域となっています。

江戸時代末期から明治にかけて建築された商家が整然と残る町並みは、近江商人の故郷として、その保存運動が展開されています。

八幡商人は、近江商人の中でも最も早い時期に活動し、海外進出を果たしたのもこの地の出身者でした。

江戸出店も最も早く、西川甚五郎、西川庄六、伴伝兵衛、森五郎兵衞等の八幡商人が活躍しました。

新町界隈には、彼らの住居がまとまってよく残っており、景観だけではなく、史跡としても重要なものです。



埼玉モダンたてものを見て歩くーその14-ふじみ野市・志木市・新座市

2014年10月23日 | 埼玉モダンたてもの散歩


10月9日(木)妻と二人で愛車プリウスに乗って、ふじみ野市・志木市・新座市の「埼玉モダンたてもの」を見て歩きました。

(写真は新座市にある「睡足軒」の室内です。)



川越から国道254号バイパスを通って、最初に行ったのが、ふじみ野市の「福岡河岸記念館」です。

川越を起点とし、東京都北区の岩淵水門先で隅田川に合流する新河岸川。

江戸時代から昭和初期まで、江戸と農村を結ぶ舟運の中継地として賑わいました。

川越からは米・麦など農産物を運び、帰りは農村へ肥料などを運びました。

往時の様子を伝える貴重な文化遺産である舟問屋「福田屋」を「福岡河岸記念館」として公開しています。



「福田屋」は、天保2年(1831)に福岡河岸の問屋株を借りて回漕業を始めました。

明治20年代には、回漕業の最盛期をむかえ、荒物・醤油の小売商も始めました。

明治28年に川越鉄道が開通するといち早く鉄道輸送も取り入れ、商売を広げていきました。

福田屋には、明治時代中ごろに十数棟の建物が築かれていました。

そのうち帳場が置かれた主屋と台所棟、文庫蔵、離れが現存しています。

県内でもめずらしい明治期の船問屋の様子を伝える貴重な文化遺産となっています。



東武東上線の踏切を渡って、川越街道に入ると大井小学校の隣に見えて来た木造洋館風の建物が「旧大井町役場」です。

この建物は、昭和12年に大井村役場庁舎として建てられました。

寄棟形式の2階木造建築で、玄関ポーチの上部にはベランダが廻され、現在はトタンスレート葺きの屋根も建設当初はスパニッシュ瓦が葺かれており、一階は事務室、二階は村議会議場となっていました。

役場が落成した時には、「大井村と東京との間で一番ハイカラな建物ができた」と村民の手紙に書き添えられたと言われています。

昭和初期の官公庁の建造物が次々と姿を消していく状況にあって、川越街道沿いでは唯一残されているのがこの旧役場庁舎です。

平成14年2月14日に国の登録有形文化財になりました。



次に、志木市役所まで足を伸ばし、市役所前の「いろは親水公園」に移築された「旧村山快哉堂」を見に行きました。

「旧村山快哉堂」は明治10年11月に建築された木造2階建て土蔵造りの店蔵です。

店蔵が座売り形式の商形態を残す点、一階中央部分の吹き抜け、鉢巻の2段構成、ムシコ窓とその枠回りなど川越の店蔵とは異なる特有の意匠構成が見られ、貴重な有形文化財です。

木曜日は残念ながら休館日で内部には入れませんでした。



次は、志木街道を走って、新座市の「立教学院聖パウロ礼拝堂」です。

チェコ出身の建築家アントニン・レーモンド(1888~1976)は各地に素晴らしい建築物を数多く建てていますが、それらの中でも教会建築は目を見張るものがあります。

この礼拝堂は、白い貝殻を思わせるカーブを組み合わせて豊かな空間を生み出しています。



本日の締め括りは、新座市の「睡足軒」です。

「睡足軒」の敷地は、国指定天然記念物平林寺境内林の一部であり、9,379平方メートルを有する緑豊かな景勝の地です。

電力事業に生涯を捧げ「電力の鬼」といわれた実業家である一方、茶道にも造詣の深かった昭和の大茶人・松永安左エ門(耳庵)氏が土地を購入し、屋敷地としました。



近代の三茶人(益田鈍翁、原三渓、松永耳庵)と称される松永安左エ門氏は、昭和13年に、横浜三渓園で有名な原富太郎(三渓)氏の世話で、飛騨高山付近の田舎家を敷地内に移築させました。

これを草庵として、親しい友人を招き、「田舎家の茶」を楽しみながら囲炉裏を囲んで団欒する日々を楽しんでいました。

その後、昭和47年に茅葺の田舎家と敷地が、菩提寺である平林寺に譲られました。

近年、睡足軒は、無住状態が続きましたが、園庭や建物などは、十分活用が図られることから、平林寺老大師・野々村玄龍氏のご厚意により、平成14年に新座市に無償貸与されたものです。






埼玉モダンたてものを見て歩くーその13-飯能市・入間市・所沢市

2014年10月20日 | 埼玉モダンたてもの散歩


9月27日(土)妻と二人で愛車プリウスに乗って飯能市・入間市・所沢市の「埼玉モダンたてもの」を見て歩きました。

西武池袋線の飯能駅ビル内にある旅行案内所で市内の地図をもらい、最初に「飯能織物協同組合事務所」に行きました。

この建物は、飯能が絹織物で栄えていた頃の大正11年に組合事務所として建てられました。

構造は木造総二階建て、寄せ棟、瓦葺きです。

外壁は下見板張り、窓は当初木製の上げ下げ窓でした。

この洋風な外観に対して、屋根には、両端に鯱が二尾据えられ、和風の桟瓦が葺かれています。

内部も違い棚を配した床の間を持つ十八畳の和室があり和風の雰囲気を残しています。



このあたりはレトロな街並みが楽しめますが、そのひとつが「吉川理容所」です。

飯能駅近くの「銀座通り」にあるこのお店は、石造風の看板建築が目印のレトロな床屋さんです。

昭和10年頃から営業しており、店内をよく見ると、当時から使っている特注の道具入れ外国製の鏡など、こだわりの逸品に出会えます。



「吉川理容所」の建つ「銀座通り」から「大通り」に出ると、黒漆喰の壁、下屋の屋根にうだつ、屋根の棟には大きな棟飾りがあがるなど贅の限りを尽くした建物が現れました。

「店蔵絹甚」(みせぐらきぬじん)です。

明治37年建築で、篠原甚蔵・長三親子によって建てられました。

篠原家は織物、生糸、繭、などの取引をしていました。



店蔵、居宅、土蔵の3棟があり、居宅と土蔵の間には中庭があります。

店蔵は商いのための空間で、客との商談などに利用され、居宅は家人の住まい、土蔵は商品等の保管庫になっていたと考えられます。

写真は座敷から見た店蔵扉です。

観音扉の金庫のような扉です。



飯能市のレトロな街並みをあとにして、名栗村の「旧平沼寛一郎邸」に向かいました。

「旧平沼寛一郎邸」は明治中期に建築された山あいの古民家です。

手入れの行き届いた落ち着いた色調の外観が、周囲の山や川などの自然と調和して良好な景観を生み出すとともに、自然と人々の生活が調和した山里の景観の核となっています。



田舎の民家でありながら、武家屋敷様式の書院造り、自然に朽ちた木の欄間、狆くぐり、襖絵、金唐和紙、丁寧に作られた建具など、当時の大工、職人の想いがこもります。



切妻屋根や、カラフルな色ガラス窓が名栗渓谷に溶け込み、美しい風景をつくり出しています。

また、座敷の窓から観音山や庭を眺めることができ、ゆったりとした気持ちになります。



次に行ったのが入間市の「旧石川組製糸西洋館」です。

実は今年の1月18日に入間市などの「モダンたてもの」を見て歩いたのですが、このたてものをうっかり見落としてしまったものですから、今回、訪問することにしました。

この西洋館は、石川組製糸の創始者石川幾太郎により、大正10年に迎賓館として上棟された和風工法による西洋風建造物です。

建物外観は、化粧煉瓦張りで、屋根窓を設けた変化のある屋根に特色があります。

残念なことに現在は期日を限って年に数回、春と秋に公開を行っているだけです。



本日の最後は所沢市の「クロスケの家」です。

場所は早稲田大学所沢キャンパスのすぐ近くなのですが、非常にわかりにくい所にありました。

「クロスケの家」は「トトロのふるさと基金」が森を守るための活動拠点として管理している古民家です。

母屋は約50年前に越生から移築された築百年を超える古民家で、縁側、囲炉裏や襖絵など昔ながら農家のたたずまいを色濃く残す貴重な文化財です。

明治10年代末から20年代初頭の築とされる蔵を伝統工法で補修し、左官職人によるトトロの家紋や蔵のあちらこちらにクロスケが隠れています。

リュックを背負った方はクロスケではなく私の妻です。(笑)