若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

嵯峨・嵐山で紅葉狩りを愉しむー1日目

2019年12月25日 | 旅行


12月9日(月)妻と二人で京都の嵯峨・嵐山方面に行き、紅葉狩りを愉しんできました。

7時に家を出て9時47分東京駅発の新幹線のぞみに乗り、11時頃に車内で昼食の駅弁を食べて、12時5分に京都駅に到着です。

京都駅からは山陰本線に乗り換え、15分ほどで嵯峨嵐山駅に着きました。

一日目は駅前で自転車を借りて、嵯峨・嵐山方面を見て廻ることにしました。

二人で軽快に自転車を走らせ、暫くすると「清凉寺」の仁王門が見えてきました。

清涼寺は「嵯峨の釈迦堂」の名で知られる浄土宗の古刹です。

嵯峨野のちょうど真ん中に位置し、すくっと立つ仁王門の姿は「嵯峨野の顔」とも称されています。



「大覚寺」は弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山で、「嵯峨御所」とも呼ばれています。

平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后(だんりんこうごう)とのご成婚の新室である離宮を建立されましたが、これが大覚寺の前身です。

「大沢池」は大覚寺の東に位置し、周囲約1kmの日本最古の人工の林泉(林や泉水などのある庭園)です。

嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたって、唐の洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれています。



「望雲亭」は、大沢池南西畔にある、風情たっぷりの屋敷ですが普段は入れません。

名前の由来は、嵯峨天皇と空海が大沢池に船を浮かべ茶を酌み交わしていた時に天皇が呼んだ漢詩に由来するようです。

「必殺仕置人」や「暴れん坊将軍」などの時代劇に、出合茶屋や別宅などとして、よく使われる撮影スポットだそうです。



大覚寺よりも、さらに北に進んだ奥嵯峨野、自転車ではキツイ坂道を上ると、人里離れた山のふもとにひっそりと建つ小さな寺があります。

これが京都・嵯峨野の「直指庵(じきしあん)」です。

直指庵は、臨済禅を学んだ僧侶が南禅寺栖雲庵(すくもあん)から江戸前期の1646年(正保3年)に北嵯峨細谷に草庵を結んだのが始まりと言われています。

そしてその僧侶が枯れ松の枝が地に落ちるのを見て悟り、「直指人心*」の旨を守ってここを「直指庵」と名付けたそうです。

  *教説や修行などの他のものにとらわれず座禅によって直ちに自分の心を見つめ、心中に仏の本性が備わっていることを悟ること



直指庵から元来た道を軽快に下って(笑)、大覚寺、清凉寺の脇を通り抜け、西下すると「紅葉の馬場」で知られる嵐山の名所、「二尊院」に到着です。

参道両端から色づいた紅葉が枝を伸ばす様子は素晴らしいものです。

真っ赤な紅葉に包まれた本堂、石段や築地塀、そして晩秋の散り紅葉と、名所にふさわしい見所がいっぱいです。



「落柿舎(らくししゃ)」は、嵯峨野の地にひっそりと佇んでいました。

茅葺屋根の閑雅でどこか懐かしさを感じる佇まいを慕って、今も昔も訪れる人が絶えません。

芭蕉がその門人の中でも最も信頼を寄せていた向井去来(1651~1704)の営んだ庵です。

その閑静な風情と去来の誠実さを愛した芭蕉は、合わせて三度も来庵し、『嵯峨日記』を著した場所としても知られています。



紅葉の美しさが京都で一番と呼ぶ人も多い「常寂光寺」は、散り紅葉・敷き紅葉といわれる紅葉も楽しめる名所です。

さながら極楽浄土へと迷い込んだかのようで、山門から仁王門(写真)、本堂、多宝塔へと続く参道が、秋には紅葉のトンネルとなります。



「竹林の小径」は、時代劇の”丹下作善”などで知られる俳優大河内傳次郎が別荘として造営した「大河内山荘」から「野宮神社」の間を約200メートルにわたって続く風情のある小径です。

青竹に囲まれた世界の中、風はひんやりと涼しく、訪れる人々を静かに迎えてくれます。



嵯峨野の竹林の中でひっそりと佇む「野宮(ののみや)神社」ですが、いつも多くの観光客でにぎわっています。

嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられた野宮は、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地でした。

その様子は源氏物語「賢木(さかき)の巻」に美しく描写されています。

そして、女性に人気のある「縁結びの神様」として有名ですが、子宝や学問、商売繁盛など、多彩な神社となっています。



夕暮れ時が近づいてきたので嵯峨嵐山駅に戻り、自転車を返して、宿へ行く途中、右手に「天龍寺」が見えてきたので、少しだけ寄り道をしました。

天龍寺は臨済宗天龍寺派の大本山で、足利尊氏が後醍醐天皇の霊を慰めるため、1339年(暦応2)夢窓国師を開山として創建されました。

日本で最初に史跡・特別名勝に指定され1994年(平成6)12月には「古都京都の文化財」として、世界文化遺産に登録されました。

「庫裏(くり)」と言われる、台所兼寺務所の機能を持った建物の玄関に入ると、正面の大衝立には大きな達磨図が・・・。

これは禅宗の開祖・達磨大師の姿を描いたものだそうですが、目つきや口元の表情など・・一度見たら忘れられない顔をしています。



穏やかに流れる桂川に架かる「渡月橋」とバックの嵐山とのコンビネーションは絶景で、桜や紅葉はもちろん一年を通して四季の美しさを感じることができます。

平安時代初期に亀山上皇が、月の橋を渡るように動いていく様を見て「くまなき月の渡るに似る」と述べたことがその名の由来だそうです。



今宵の宿の目の前にあるのが「宝厳院(ほうごんいん)」です。

世界遺産・天龍寺の塔頭(たっちゅう)の一つで、嵐山を借景とした庭園「獅子吼の庭」(ししくのにわ)で知られています。

紅葉の時期には、約3000本の紅葉が赤や黄色に染まり、格別の美しさです。



後で知ったのですが、今宵の宿である「ご清遊の宿 らんざん」は1877年(明治10)、関西行幸を行った明治天皇が、この地に住んでいた山中 献(まつる)の邸宅(対嵐山房)へ訪れた跡地にあるそうで、南門には「明治天皇行在所山中邸址 石碑」が立っています。

山中献(信天翁山中静逸)は1822年(文政5)三河に生まれ、幕末・維新期の志士・文人で、京都に出て尊王攘夷運動に加わりました。

明治維新後、岩倉具視に仕え様々な要職を経て、後に職を辞し京都嵐山に住み、文人・墨客と共に文芸三昧の悠々自適の生活を送ったそうです。

嵐山・嵯峨野への立地といい、見た目にも美しい京料理といい、全てに満足の出来る宿でした。

翌日は「金閣寺」から「きぬかけの路」を歩きます。




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渋沢栄一の里・深谷市を訪ねるーその2 記念館・生地・深谷駅にある4つの銅像

2019年12月13日 | ドライブ


渋沢栄一は、7歳になると下手計(しもてばか)の従兄弟の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)のもとへ論語をはじめとする学問を習いました。

生涯を通じて論語に親しんだ栄一は、「道徳経済合一説」を唱え「近代日本資本主義の父」と呼ばれるようになりました。

栄一が惇忠の家に通った道は、いつしか「論語の道」と呼ばれ、栄一に関連する史跡が多く残されていることから、それらを総称して「論語の里」と呼んでいます。

「渋沢栄一記念館」は論語の道の尾高惇忠生家と渋沢栄一生地の中間地点に、平成7年11月11日に開館しました。

会館内には栄一ゆかりの写真や遺墨など多くの資料が展示されています。



記念館の北側には、5メートルほどの渋沢栄一像が右手に論語を持って立っています。

栄一像が眺めるのは、ここで暮らしていた頃見ていた赤城山や妙義山などの群馬や栃木の山並み、そして利根川の流れと中瀬(なかぜ)河岸場です。

中瀬河岸場は江戸時代、武蔵国と上野国を結ぶ利根川の船着場として栄えました。

物資のほか、船客の乗り換え場であったため、江戸の文化や経済の情報がいち早く伝えました。

深谷は中山道の宿場町でもありますが、ここでは利根川からの情報が行き交い、栄一にも大きな影響を与えました。



渋沢栄一は天保11年(1840)ここ血洗島(ちあらいじま)に生まれました。

生地は渋沢家のうち、中央にあったことから「中の家(なかんち)」と呼ばれました。

代々農業を営む富農で、「名字帯刀」を許され、養蚕や藍玉づくりとその販売のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福であったそうです。

正門はケヤキの一枚板が使われ、正面に主屋、周囲には4つの土蔵があります。



門を入ると、若い頃の着物姿で刀を持った栄一像が生家を眺めています。

渋沢栄一は早くから一橋慶喜に仕えていたことで徳川慶喜が将軍になると幕臣となって、パリの万国博覧会を視察するなど活躍しました。

そのフランスで学んだ株式会社制度の知識から、東京証券取引所、キリンビール、東京海上火災保険、など各業界の名門企業の設立を続々と進め、日本の資本主義を牽引しました。



当時の家屋は残っていませんが、明治28年(1895)に妹夫妻が立てた家が公開されています。

主屋は切妻造の典型的な養蚕農家の造りで2階に蚕を飼っていました。

屋根には天窓があり、蚕の飼育の温度調節のため風を入れることができました。



主屋の中に上がって見学することはできませんが、土間からは1階のお座敷の様子を多少窺うことができます。

1階の一番奥の座敷は、栄一が帰ってきた時に使っていた部屋とされています。

栄一が静かに過ごせるようにという、妹夫妻の配慮で部屋の真上には2階部分を造らなかったと伝えられています。



今回の深谷市へのドライブの目的は「渋沢栄一の深谷にある4つの銅像を訪ねよう」ということであったので、最後にJR深谷駅へ車を走らせました。

ところが肝心の深谷駅は外壁改修のため足場設置中で、その雄姿は見ることが出来ませんでした。

この写真は2008年11月2日に熊谷から深谷まで歩いた時のものです。

深谷駅は1883(明治16)年開業、老朽化のため改築する際、郷土の偉人渋沢栄一ゆかりの煉瓦に注目し、現在の駅舎は1996(平成8)年、東京駅を模して新築されました。



深谷駅北口前にある青淵広場には和服姿の渋沢栄一像が駅舎に向かって座っています。

近代日本の発展に貢献した渋沢栄一が東京駅を模した深谷駅を眺めているのでしょう。



同じく深谷駅北口にある、からくり時計の中央ケースには深谷市のイメージキャラクター「ふっかちゃん」が座っていますが、10時、11時などの正時になると、「青い目の人形」のメロディとともに栄一像が日本人形と青い目の人形を手に持って現れます。

栄一が日米友好のかけ橋として、人形を贈り合ったことを記念したものだそうです。

私たちが行った時には丁度11時で栄一像が姿を現した時であったのですが、周りには幼い子供たちにその姿を見せようと言うパパやママがひしめいており、栄一像をカメラに収めることは出来ませんでした。

残念でしたが、からくり時計の中の渋沢栄一像も周囲のパパやママも居なくなり、「ふっかちゃん」だけが残った、からくり時計をカメラに収めた次第です。( ´艸`)


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渋沢栄一の里・深谷市を訪ねるーその1 誠之堂と清風亭

2019年12月06日 | ドライブ


11月30日(土)妻と二人で愛車プリウスに乗って、渋沢栄一生誕の地である埼玉県深谷市へドライブに行って来ました。

熊谷方面から国道17号バイパスを走らせ、山田うどん17号バイパス店のある大寄交差点を右折して、県道伊勢崎・深谷線を進むと、間もなく、小山川の手前右手に見えてくる大寄公民館にあるのが、渋沢栄一ゆかりの建物「誠之堂(せいしどう)」と「清風亭(せいふうてい)」です。

これらの建物は、平成11年に世田谷区瀬田にあった第一銀行の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に建てられていたものを、現在地に移築復元されたものです。

誠之堂は大正5年(1916)、渋沢栄一の喜寿(77歳)を記念して第一銀行行員たちの出資により建築されました。

設計者は、当時の建築界の第一人者であった田辺淳吉です。



誠之堂は、小建築ながら、多彩な煉瓦積技法で趣ある建築作品に仕上げられ、外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な工夫を取り入れるなど、建物全体がバランスよくまとめられています。



喜寿の記念ということで、暖炉の背後の北側煉瓦煙突部には、赤、黄、黒の3種類の煉瓦を用いた装飾積みで「喜壽」の文字が描かれています。

煉瓦を用いて漢字をかたどっており、大変珍しいものです。



暖炉上面には、正面を向いた渋沢栄一の肖像レリーフがあります。



誠之堂大広間の暖炉脇の窓には、6面のステンドグラスが配され、大きな見所となっています。

第1面(右)と第2面(左)は、貴人とその臣下たちを描いた場面です。

第1面では、中央に貴人が台に座り、両側に侍者を従えています。

貴人は、片手を挙げ、何か指示をしているのか、左の侍者と会話をしているようです。

第2面では貴人の左には、3人の臣下が並んで座っています。

みんな左手の第3面で行われてる舞楽を見物しているのでしょう。

右にあるのは、瓶や食器で宴会に使われるものでしょう。

左には果実のなった木も生けられています。



第3面(右)と第4面(左)は、貴人をもてなすための楽器演奏と雑技(ざつぎ)を行っている場面です。

中央の人物は、倒立技を演じています。

雑技の倒立技は、漢の時代に著しい発展をしたそうです。

第4面は第3面に続き、楽器演奏と雑技を行っている場面です。

右では、筒太鼓を叩いているようです。

中央では、「弄丸鈴(ろうがんれい)」という、複数の玉を投げる手技の雑技を行っています。

左で踊る女性は、大きく反って、腕は極端に長く引き伸ばされた姿で描かれています。



化粧の間の扉にも、鳳凰と龍のステンドグラスが取り付けられています。

玄関から入るとすぐに目を引きます。

龍は「男子(皇帝)」のシンボルです。

それに倣えば栄一を指したものと考えられます。



鳳凰は「女子(皇后)」のシンボルだそうです。

この鳳凰は、渋沢栄一の当時夫人だった、兼子夫人を表わしている、とのことです。



屋根は、天然スレート瓦で葺かれています。

正面の屋根の中央には、小屋根が付けられていますが、これは、室内からは見えず、明かり採りの機能はありません。

設計者の田辺淳吉は、栄一にふさわしい威厳を持たせるため、シンメトリー(左右対称性)を強調する目的で作ったと記しているそうです。



構造は補強煉瓦造り、焼き色の異なる3色の煉瓦が積まれています。

煉瓦の積み方は「フランス積み」といって、長い煉瓦と小さい煉瓦を交互に積む方法です。



正面のベランダには、左右にかぎ型のベンチが設けられています。

ベンチの背もたれには、東洋趣味風の手すり子が木組みで装飾されています。

このベンチも左右対称で、小屋根とともに、正面のシンメトリーを強調する効果があります。



風見鶏は、復元されたものですが、方位盤は当初からのものです。

方位盤は、篆書体(てんしょたい)風にデザインされた漢字で示されたユニークなもので、中国風を感じさせます。



次の間の天井は、網代天井(あじろてんじょう)で、床の間や茶室などで多く用いられるもので、日本的な数寄屋造りの様式を採り入れています。



清風亭は、大正15年(1926)に、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して、清和園内に誠之堂と並べて建てられました。

設計者は、銀行建築の第一人者の西村好時です。

西村は、他にも東京丸の内の第一銀行三代目本店や一連の第一銀行の建物、支店長社宅、証券会社建築等の銀行関係施設を手がけています。

関東大震災を契機に、建築構造は煉瓦造りから鉄筋コンクリート造りに主流が代わりましたが、屋根のスパニッシュ瓦、ベランダの5連アーチ、出窓のステンドグラスや円柱装飾など、西村自身が「南欧田園趣味」と記述している当時流行していたスペイン風の様式が採られています。



大広間の天井は漆喰で壁はサラサラ(砂壁)としています。

黒と白で統一されたシャンデリアや暖炉両脇のブラケットライト、四隅にあるフロアスタンドもお洒落です。



室内で、中心にあって目立つのは暖炉です。

暖炉の外壁部分にはスクラッチタイルが張られており、暖炉前には当初からの火除け板も残されています。



平面的な壁に、ゆるやかな曲面の出窓がせり出し、アクセントをつけています。

上部にはアーチ型の縦長スチールサッシ窓になっています。
 
窓は、ベランダのアーチと連関するようにアーチ型を採り入れ、窓枠は円柱を模しています。

また、窓の周りは、幾何学的なステンドグラスで飾られています。



正面のベランダと、5連のアーチは、印象的な部分です。

スクラッチタイルによる縁どりで凹凸がつくられていますが、どれも同じ並びはなく、あえて左右対称を崩した部分をつくっています。

床は鉄平石を乱張りしたものです。

清風亭は安室奈美恵の「GIRL TALK(2004年発売)」MVのロケでも使用されたそうで、テラスや室内で撮影されたらしいです。



日本近代建築史上、大正時代を代表する建築物として高い評価を受けている「誠之堂・清風亭」に感嘆した私たちは、「論語の里」にある「渋沢栄一記念館」と「渋沢栄一生地」へと車を走らせました。


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