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若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

北本市の浅間神社へ初詣に行く

2022年04月01日 | ドライブ


1月5日(水)妻と二人で北本市の東間浅間神社へ初詣に行きました。

コロナ禍の影響でここ2年ほど鴻巣・北本などの旧中山道を車で走るのは久しぶりでした。

ヤオコー北本中央店に車を止めて歩いて神社に行き参拝します。

境内入口の鳥居です。

日本を代表する山・富士山、その姿の美しさだけではなく、昔から霊山として信仰の対象にもなってきました。

富士山を神様として崇め、おまつりする神社が「浅間神社」です。




鳥居を超えて参道から社殿につづく男坂です。

参拝者には狭く登り辛い急坂ですが裏にはなだらかな女坂があります。



石段の中程には左右に天神社、八幡社が祭られています。

左に天神社。



右に八幡社です。



拝殿です。



社殿は石段を登ったところ、富士塚の上になり、石段、社殿を結ぶ直線延長上に富士山が位置します。

ご祭神は「コノハナサクヤヒメノミコト」という姫神です。

日本一有名な神様で天皇家の祖神とされる「アマテラスオオミカミ」の孫神にあたる「ニニギノミコト」が、姫のあまりの美しさに一目惚れして妻として迎えた、という神話が「古事記」などに残されています。



おみくじ。



3が日が過ぎていたので、お参りは私たち以外は2名だけでした。



拝殿の社額です。



しめ縄



しめ縄の上には干支彫刻 辰(龍)が・・・



左側にも辰でしょうか・・・



右側も・・・

遅い初詣を終えた私たちは、ヤオコー北本中央店で妻はカツサンド、私はメンチカツの買い物をして帰路に就きました。

遅い投稿でスミマセンです。



あの女優が行った古墳大国群馬の大室古墳群を歩く

2020年03月23日 | ドライブ


2月24日(月)妻と二人で群馬県前橋市の「大室古墳群」へ行って来ました。

吉永小百合さんが出演したJR東日本「大人の休日倶楽部」のテレビコマーシャルに登場した「大室古墳群」にはそれ以来多くの人が詰め掛けて駐車場が従来の10倍以上込み合ったと言う場所です。

新型コロナウイルスの影響で入館者はやや少なくなっていましたが、それでも多くのサユリスト(70歳代前後)が馳せ参じていました。

最初に行ったのが「前二子古墳」です。

普段は、この前二子古墳を登る人はまずいないそうです。

小百合さんが駆け上ったと言うのはこの写真の裏側の道だそうです。



小百合さんが覗いたと言う前二子古墳の石室です。

石室の長さは13mあります。



石室から出土した副葬品は須恵器、土師器、装身具、馬具、武器、農耕具、鉤状金具など非常に充実した内容となっています。



小百合さんがCMの冒頭で歩いているのは「中二子古墳」です。

中二子古墳は墳丘長111メートルを測る大室古墳群最大の前方後円墳です。



園内にある旧関根家住宅は、前橋市指定重要文化財で、赤城南麓地方にみられる典型的な養蚕農家です。



この建物は、屋根の正面中央部が切り落とされた赤城型民家で、養蚕をおこないやすいように2階の通風・採光をよくする工夫をしています。



ウラザシキと土間の間にはイロリやカマドを備えたダイドコがあります。



「後二子古墳」は前方後円墳で墳丘は全長85メートルの2段構築となっています。

墳丘の一部は地山を削り出して造成され、半地下式の「石室」(写真右側)を持ちます。



石室から出土した副葬品は、前二子古墳に比べ豊富ではなく、大刀、馬具、耳環、いくつかの土器が発見されたに過ぎないそうです。



「小二子古墳」は全長38mと小規模ながらも、2段築成の前方後円墳です。

隣接する後二子古墳と共に国の史跡に指定されています。

後二子古墳とほぼ同様の東西軸を持ち、つくられた時期も同じ頃で、後二子古墳と関わりの深い人物の墓と考えられています。



テラス面には80~90本の円筒埴輪列、前方部頂には人物を中心とした形象埴輪列、後円部頂には器財を中心にした形象埴輪が配列されていたそうです。


以上で大室古墳群の散策を終えた私たちは、上武道路経由で1時間の我が家へと車を走らせました。


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高崎市の少林山達磨寺に参詣する

2020年02月09日 | ドライブ


1月13日(月)妻と二人で愛車プリウスに乗って群馬県高崎市の「少林山達磨寺」へ行って来ました。

観音山丘陵の端に位置する少林山達磨寺は黄檗宗(おうばくしゅう)という禅宗のお寺です。

この寺は達磨大師の教えを受け継ぐ縁起だるま発祥の寺として有名です。

高崎市は達磨の生産量日本一、全国のだるまの約80%を占めるとされています。



「総門」は平成9年10月に開創300年を記念して建立された門で、本山である黄檗山万福寺の総門と同じ様式で造られたそうです。

中央の屋根を高くし、左右を低くしたこの形式は中国の様式で牌楼式[はいろうしき]といい、漢門(からもん)とも言われます。



「総門」から大石段を見上げた時、内心「もう帰ろうか・・・」と思いましたが、長く急勾配の石段をやっとのことで上りきると、頭上には「招福の鐘」がありました。

「招福の鐘」は、心静かに2回つきます。

一回目は、自分の心が安らかでありますように、二回目は、みんなが幸せでありますようにと、祈りながらつくそうです。



「招福の鐘」の左手の「瑞雲閣」では各種ご祈祷の受付、達磨の販売等があり、大勢の人で賑わっていました。



「瑞雲閣」から振り返って山側に見えるのが、「観音堂」です。

当山最古の建物で、創建当時の姿を今に伝える茅葺きのお堂です。

このお堂は十一面観世音菩薩を祀っており、厄除け、縁結び、安産、子育てのご利益があるとして信仰されています。



「観音堂」から見た「瑞雲閣」です。

禅の教えを広め、精神文化の向上と発展に寄与するため、昭和50年に建設されました。

2階には坐禅室があり毎日早朝坐禅会が行われ、また結婚式や茶会など儀式や各種行事も行う事ができるそうです。



「観音堂」から更に階段を上ると「本堂(霊符堂)」で、お寺なのに神社の雰囲気もある建築様式です。

ここでは方位除けを始め、家内安全、商売繁盛、開運吉祥、受験合格等の祈祷法要を行なっています。



本堂の両側には御覧の通り、沢山の達磨が納められています。



本堂の隣にあるのが「達磨堂」です。

大阪府吹田市の方が沢山の達磨を寄贈されたのがきっかけで昭和61年に建てられたそうで、日本国中の達磨が所狭しと並んでいます。



「達磨堂」から少し下ったところに古い民家がありました。

ドイツ近代の世界的建築家、ブルーノ・タウトは、ナチスドイツの台頭を避け、エリカ夫人と共に国外へ脱出し、昭和8年(1933年)に来日しました。

当初敦賀に滞在した後、日本国内を転々としていましたが、昭和9年(1934年)からこの「洗心亭」で夫人と2年3か月間過ごし、日本文化をあらゆる面から研究し、著名な「日本文化私観」「日本美の再発見」などの著書の多くがここで執筆されたそうです。

余談ですが、この「洗心亭」は助監督時代の黒澤明が脚本化した「達磨寺のドイツ人」の舞台でもあるそうです。



達磨寺の最後は「招福の鐘」の右手にある「大講堂」です。

青少年の修養の場として昭和2年に完成した禅の道場です。

達磨大師を本尊にお祀りし、禅を通じて人格教育を行ない、禅の生活を体験する研修の場として利用されているそうです。



以上で少林寺達磨寺参詣を終えた私は、妻が兎の如く大石段を下りていくのを尻目に、亀の如く恐る恐ると下りていきました。


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渋沢栄一の里・深谷市を訪ねるーその2 記念館・生地・深谷駅にある4つの銅像

2019年12月13日 | ドライブ


渋沢栄一は、7歳になると下手計(しもてばか)の従兄弟の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)のもとへ論語をはじめとする学問を習いました。

生涯を通じて論語に親しんだ栄一は、「道徳経済合一説」を唱え「近代日本資本主義の父」と呼ばれるようになりました。

栄一が惇忠の家に通った道は、いつしか「論語の道」と呼ばれ、栄一に関連する史跡が多く残されていることから、それらを総称して「論語の里」と呼んでいます。

「渋沢栄一記念館」は論語の道の尾高惇忠生家と渋沢栄一生地の中間地点に、平成7年11月11日に開館しました。

会館内には栄一ゆかりの写真や遺墨など多くの資料が展示されています。



記念館の北側には、5メートルほどの渋沢栄一像が右手に論語を持って立っています。

栄一像が眺めるのは、ここで暮らしていた頃見ていた赤城山や妙義山などの群馬や栃木の山並み、そして利根川の流れと中瀬(なかぜ)河岸場です。

中瀬河岸場は江戸時代、武蔵国と上野国を結ぶ利根川の船着場として栄えました。

物資のほか、船客の乗り換え場であったため、江戸の文化や経済の情報がいち早く伝えました。

深谷は中山道の宿場町でもありますが、ここでは利根川からの情報が行き交い、栄一にも大きな影響を与えました。



渋沢栄一は天保11年(1840)ここ血洗島(ちあらいじま)に生まれました。

生地は渋沢家のうち、中央にあったことから「中の家(なかんち)」と呼ばれました。

代々農業を営む富農で、「名字帯刀」を許され、養蚕や藍玉づくりとその販売のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福であったそうです。

正門はケヤキの一枚板が使われ、正面に主屋、周囲には4つの土蔵があります。



門を入ると、若い頃の着物姿で刀を持った栄一像が生家を眺めています。

渋沢栄一は早くから一橋慶喜に仕えていたことで徳川慶喜が将軍になると幕臣となって、パリの万国博覧会を視察するなど活躍しました。

そのフランスで学んだ株式会社制度の知識から、東京証券取引所、キリンビール、東京海上火災保険、など各業界の名門企業の設立を続々と進め、日本の資本主義を牽引しました。



当時の家屋は残っていませんが、明治28年(1895)に妹夫妻が立てた家が公開されています。

主屋は切妻造の典型的な養蚕農家の造りで2階に蚕を飼っていました。

屋根には天窓があり、蚕の飼育の温度調節のため風を入れることができました。



主屋の中に上がって見学することはできませんが、土間からは1階のお座敷の様子を多少窺うことができます。

1階の一番奥の座敷は、栄一が帰ってきた時に使っていた部屋とされています。

栄一が静かに過ごせるようにという、妹夫妻の配慮で部屋の真上には2階部分を造らなかったと伝えられています。



今回の深谷市へのドライブの目的は「渋沢栄一の深谷にある4つの銅像を訪ねよう」ということであったので、最後にJR深谷駅へ車を走らせました。

ところが肝心の深谷駅は外壁改修のため足場設置中で、その雄姿は見ることが出来ませんでした。

この写真は2008年11月2日に熊谷から深谷まで歩いた時のものです。

深谷駅は1883(明治16)年開業、老朽化のため改築する際、郷土の偉人渋沢栄一ゆかりの煉瓦に注目し、現在の駅舎は1996(平成8)年、東京駅を模して新築されました。



深谷駅北口前にある青淵広場には和服姿の渋沢栄一像が駅舎に向かって座っています。

近代日本の発展に貢献した渋沢栄一が東京駅を模した深谷駅を眺めているのでしょう。



同じく深谷駅北口にある、からくり時計の中央ケースには深谷市のイメージキャラクター「ふっかちゃん」が座っていますが、10時、11時などの正時になると、「青い目の人形」のメロディとともに栄一像が日本人形と青い目の人形を手に持って現れます。

栄一が日米友好のかけ橋として、人形を贈り合ったことを記念したものだそうです。

私たちが行った時には丁度11時で栄一像が姿を現した時であったのですが、周りには幼い子供たちにその姿を見せようと言うパパやママがひしめいており、栄一像をカメラに収めることは出来ませんでした。

残念でしたが、からくり時計の中の渋沢栄一像も周囲のパパやママも居なくなり、「ふっかちゃん」だけが残った、からくり時計をカメラに収めた次第です。( ´艸`)


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渋沢栄一の里・深谷市を訪ねるーその1 誠之堂と清風亭

2019年12月06日 | ドライブ


11月30日(土)妻と二人で愛車プリウスに乗って、渋沢栄一生誕の地である埼玉県深谷市へドライブに行って来ました。

熊谷方面から国道17号バイパスを走らせ、山田うどん17号バイパス店のある大寄交差点を右折して、県道伊勢崎・深谷線を進むと、間もなく、小山川の手前右手に見えてくる大寄公民館にあるのが、渋沢栄一ゆかりの建物「誠之堂(せいしどう)」と「清風亭(せいふうてい)」です。

これらの建物は、平成11年に世田谷区瀬田にあった第一銀行の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に建てられていたものを、現在地に移築復元されたものです。

誠之堂は大正5年(1916)、渋沢栄一の喜寿(77歳)を記念して第一銀行行員たちの出資により建築されました。

設計者は、当時の建築界の第一人者であった田辺淳吉です。



誠之堂は、小建築ながら、多彩な煉瓦積技法で趣ある建築作品に仕上げられ、外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な工夫を取り入れるなど、建物全体がバランスよくまとめられています。



喜寿の記念ということで、暖炉の背後の北側煉瓦煙突部には、赤、黄、黒の3種類の煉瓦を用いた装飾積みで「喜壽」の文字が描かれています。

煉瓦を用いて漢字をかたどっており、大変珍しいものです。



暖炉上面には、正面を向いた渋沢栄一の肖像レリーフがあります。



誠之堂大広間の暖炉脇の窓には、6面のステンドグラスが配され、大きな見所となっています。

第1面(右)と第2面(左)は、貴人とその臣下たちを描いた場面です。

第1面では、中央に貴人が台に座り、両側に侍者を従えています。

貴人は、片手を挙げ、何か指示をしているのか、左の侍者と会話をしているようです。

第2面では貴人の左には、3人の臣下が並んで座っています。

みんな左手の第3面で行われてる舞楽を見物しているのでしょう。

右にあるのは、瓶や食器で宴会に使われるものでしょう。

左には果実のなった木も生けられています。



第3面(右)と第4面(左)は、貴人をもてなすための楽器演奏と雑技(ざつぎ)を行っている場面です。

中央の人物は、倒立技を演じています。

雑技の倒立技は、漢の時代に著しい発展をしたそうです。

第4面は第3面に続き、楽器演奏と雑技を行っている場面です。

右では、筒太鼓を叩いているようです。

中央では、「弄丸鈴(ろうがんれい)」という、複数の玉を投げる手技の雑技を行っています。

左で踊る女性は、大きく反って、腕は極端に長く引き伸ばされた姿で描かれています。



化粧の間の扉にも、鳳凰と龍のステンドグラスが取り付けられています。

玄関から入るとすぐに目を引きます。

龍は「男子(皇帝)」のシンボルです。

それに倣えば栄一を指したものと考えられます。



鳳凰は「女子(皇后)」のシンボルだそうです。

この鳳凰は、渋沢栄一の当時夫人だった、兼子夫人を表わしている、とのことです。



屋根は、天然スレート瓦で葺かれています。

正面の屋根の中央には、小屋根が付けられていますが、これは、室内からは見えず、明かり採りの機能はありません。

設計者の田辺淳吉は、栄一にふさわしい威厳を持たせるため、シンメトリー(左右対称性)を強調する目的で作ったと記しているそうです。



構造は補強煉瓦造り、焼き色の異なる3色の煉瓦が積まれています。

煉瓦の積み方は「フランス積み」といって、長い煉瓦と小さい煉瓦を交互に積む方法です。



正面のベランダには、左右にかぎ型のベンチが設けられています。

ベンチの背もたれには、東洋趣味風の手すり子が木組みで装飾されています。

このベンチも左右対称で、小屋根とともに、正面のシンメトリーを強調する効果があります。



風見鶏は、復元されたものですが、方位盤は当初からのものです。

方位盤は、篆書体(てんしょたい)風にデザインされた漢字で示されたユニークなもので、中国風を感じさせます。



次の間の天井は、網代天井(あじろてんじょう)で、床の間や茶室などで多く用いられるもので、日本的な数寄屋造りの様式を採り入れています。



清風亭は、大正15年(1926)に、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して、清和園内に誠之堂と並べて建てられました。

設計者は、銀行建築の第一人者の西村好時です。

西村は、他にも東京丸の内の第一銀行三代目本店や一連の第一銀行の建物、支店長社宅、証券会社建築等の銀行関係施設を手がけています。

関東大震災を契機に、建築構造は煉瓦造りから鉄筋コンクリート造りに主流が代わりましたが、屋根のスパニッシュ瓦、ベランダの5連アーチ、出窓のステンドグラスや円柱装飾など、西村自身が「南欧田園趣味」と記述している当時流行していたスペイン風の様式が採られています。



大広間の天井は漆喰で壁はサラサラ(砂壁)としています。

黒と白で統一されたシャンデリアや暖炉両脇のブラケットライト、四隅にあるフロアスタンドもお洒落です。



室内で、中心にあって目立つのは暖炉です。

暖炉の外壁部分にはスクラッチタイルが張られており、暖炉前には当初からの火除け板も残されています。



平面的な壁に、ゆるやかな曲面の出窓がせり出し、アクセントをつけています。

上部にはアーチ型の縦長スチールサッシ窓になっています。
 
窓は、ベランダのアーチと連関するようにアーチ型を採り入れ、窓枠は円柱を模しています。

また、窓の周りは、幾何学的なステンドグラスで飾られています。



正面のベランダと、5連のアーチは、印象的な部分です。

スクラッチタイルによる縁どりで凹凸がつくられていますが、どれも同じ並びはなく、あえて左右対称を崩した部分をつくっています。

床は鉄平石を乱張りしたものです。

清風亭は安室奈美恵の「GIRL TALK(2004年発売)」MVのロケでも使用されたそうで、テラスや室内で撮影されたらしいです。



日本近代建築史上、大正時代を代表する建築物として高い評価を受けている「誠之堂・清風亭」に感嘆した私たちは、「論語の里」にある「渋沢栄一記念館」と「渋沢栄一生地」へと車を走らせました。


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