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若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

武蔵野の名刹・深大寺界隈を散策する

2019年11月23日 | 電車でおでかけ


11月19日(火)妻と二人で調布市の深大寺へ行って来ました。

新宿から京王線特急に乗ると僅か15分で調布駅へ到着です。

駅から電通大学キャンパスの横をまっすぐ北へ歩いて行き、武蔵境通りの深大寺入口交差点を右折すると「深大寺通り」になります。



ここから参道までは深大寺そばの名店がずらりと並んでいます。

写真は「湧水」(ゆうすい)で深大寺で1,2を争う人気蕎麦店です。

平日の10時半過ぎにも拘らず、御覧の通りの行列です。



「深大寺水車館」です。

現在、水車館の敷地となっているところには、明治時代後半から水車小屋がありました。

周辺には雑木林が茂り、豊富な湧き水を水源とする逆川(さかさがわ)が流れ、水車の回る音が響いていました。

逆川では鰻がとれ、沢がにが住み、近くの田んぼではホタルが飛びかっていました。

調布で最後まで残っていたこの水車も、電動モーターの普及などによって、昭和30年頃には使われなくなりました。

市内で最後まで残っていた水車を復活させたいという地元の方々の運動により、平成4年7月1日に、オープンしました。



いよいよ参道の入口に到着。

門前の両側には蕎麦屋、土産物店などが並んでいます。
 
右手に「鈴や」と「門前」、左手に「鬼太郎茶屋」(きたろうちゃや)と「元祖嶋田家」。



「鬼太郎茶屋」は「ゲゲゲの鬼太郎」をモチーフにしたユニークなお店です。

目玉おやじの栗ぜんざい、ぬり壁のみそおでんなど、妖怪にちなんだ甘味や軽食が味わえるそうです。



「元祖嶋田家」文久年間(1861~1864)創業の深大寺そばの元祖。

そばをさらす水は「湧水」とこだわり、コシの強い最高のそばに仕上げているとのこと。

粉は熱と空気を嫌うので、機械は使わずに昔ながらの石臼でひいた粉を使用しているそうです。



「山門」は参道より一段高い寺の敷地の入口に立つ正門で、正面には「浮岳山」の山号額を掲げています。

慶応元年(1865)の火災の際にも常香楼とともに被災をまぬがれた建物で、現在、山内で一番古い建物です。

屋根裏にあった棟札には、「元禄8年(1695)に1,000人の寄進者・人足によって、このあたりの地形と山門の普請が行われた。」と記されています。



文政12年(1829)に建てられた旧鐘楼は、今の大師堂裏の高台にありましたが、幕末の大火で消失し、その後、明治3年(1870)に、山門を入った右手に位置を移して再建されたのが今の鐘楼です。

重要文化財に指定された古い梵鐘は平成になって、ひびが見つかり、平成13年に新しく鋳造され釣り替えられました。

今も、毎朝・昼・夕の3回撞かれています。



関東有数の古刹である深大寺は幕末の慶応元年(1865)の大火で主要堂舎を焼失し、現在の本堂は大正7年(1918)に再建されました。

本尊は宝冠阿弥陀如来を奉安しており、頭部に宝冠を戴くもので、主に天台密教に伝わる金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)に描かれている特徴的なお姿で、大変貴重なお像です。



深大寺のご祈願本尊である「元三大師堂」(がんざんだいしどう)は平安時代に活躍した比叡山の高僧、元三大師を祀るお堂です。

元(1)月3日に縁が深いことから、元三大師の通称で親しまれており、大師には悪魔調伏(じょうぶく)の力があると信じられていたので「厄除け大師」として多くの信仰を集めています。

元三大師像は座像にして高さ2mに近い大像ですが、秘仏となっており平時に拝観することはできません。

25年に一度、御開帳の行事が行なわれ一般にも公開されるそうです。



「開山堂参拝道」という道標があったので坂道を登って行きました。



「開山堂」(かいざんどう)は昭和58年の開創1250年大法会記念事業として新築された奈良時代様式の堂宇です。

本尊に薬師如来、脇侍に弥勒菩薩、千手観音を安置し、深大寺を開いた満功上人(まんくうしょうにん)、宗派を天台宗に改めた惠亮和尚の尊像を奉安しています。



深大寺境内の散策を一通り終えたので、400年余りの歴史を持つ「深大寺そば」を食べることにしました。

山門の近くには清水比庵(しみずひあん)の歌碑がありました。

        門前の 蕎麦はうましと 誰もいふ 
        
        この環境の みほとけありがたや

江戸時代、土地が米の生産に向かなかったため小作人が蕎麦を作って、蕎麦粉を深大寺に献上しました。

それを寺側が蕎麦として打ち、来客をもてなしたのが始まりといわれます。

深大寺の総本山である上野寛永寺の門主第五世公弁法親王はこの蕎麦を非常に気に入っており、「献上蕎麦」でもありました。

また、徳川第三代将軍徳川家光は、鷹狩りの際に深大寺に立ち寄って蕎麦を食べ、褒めたとされています。

今でも門前の参道には20軒あまりの蕎麦屋が並び、大変な賑わいを見せています。



深大寺に来たのは初めてなので、どの店が美味しいのかという知識もありません。

そこで参道に来ると最初に目に入った「 鈴や」という店に入りました。

店内からは有名な「鬼太郎茶屋」や「元祖嶋田家」など参道の賑わいを眺めながら食べることが出来そうです。



妻は「もりそば」(700円) 私は「天ぷらそば」(1000円)を食べました。

細い麺で、なめらかな喉ごしの美味しいそばでした。

妻は蒸したてのそば饅頭も土産に買って帰りました。



最後に開山堂の裏手の北門から都立神代植物公園を通って、「植物会館」横のカフェでコーヒーを飲んだ後、公園正門前から調布駅北口行きのバスに乗り、帰路に就きました。

久しぶりの楽しい東京散歩でした。


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徳川家ゆかりの歴史ある名刹ー伝通院

2019年02月05日 | 電車でおでかけ


1月18日(金)妻と二人で小石川後楽園の深山幽谷を楽しんだあと、私にとってかなりキツイ安藤坂を上って「伝通院(でんづういん)」へ行きました。

伝通院は1415年(応永22)了誉聖冏(りょうよ しようげい)が小石川極楽水に小庵を結び,無量山寿経寺と号したのが始まりで,聖冏を開山とし、増上寺と並ぶ江戸浄土宗の名刹です。

その後戦火をこうむり衰廃していましたが,1602年(慶長7)徳川家康の生母・於大の方の埋葬を機に、その法名(伝通院殿)で呼ばれるようになったそうです。

写真は2012年に再建された「山門」です。

山門の楼上には釈迦如来像が安置されていて、毎月第三土曜日には拝観できるそうです。



山門から本堂に向かう左手には優美な建築の「鐘楼堂」があり、そこには、先の大戦の空襲で多くのものが焼きつくされた中で唯一戦火を逃れた「梵鐘」があります。

この梵鐘は、1839年(天保10)に鋳造されたもので、暮れの除夜の鐘では、歴史を感じさせる厳かな音を立てるとのことです。



江戸時代から残っていた山門や当時の「本堂」はすべて戦災で焼失してしまったので、1949年(昭和24年)に再建されました。

その姿の美しさは、作家・永井荷風がエッセイで、パリのノートルダム寺院に例えたとも言われています。

また、夏目漱石も小説「こころ」で伝通院を描いています。

現在の「本堂」は、1988年(昭和63年)に戦後2度目の再建がなされたものだそうです。



伝通院には歴史に残る人物のお墓が多くあります。

墓地北側の徳川家の墓域で一際目立つ大きな五輪塔が「於大の方」の墓所です。

於大の方は緒川城(愛知県東浦町)に生まれました。

父は緒川城主水野忠政、母は於富の方で、14歳の時に岡崎城主松平広忠に嫁ぎ、 翌年家康を産んだが、水野氏が織田方についたため、3歳の家康を残して岡崎を離縁されました。

しかし、その後、阿久比の坂部城主久松俊勝に嫁ぎ、夫とともに家康の天下統一を支えたと言われています。

於大の方は、家康の天下統一を見た後、1602年(慶長7)8月、家康の滞在する伏見城にてなくなりました。

家康は於大の方の死を悼み、京都の智恩院で葬儀をおこない、江戸に遺骸を送り、伝通院に納骨したと言うことです。



その奥の五輪塔が「千姫」の墓所です。

千姫は、のちの2代将軍秀忠を父として、織田信長の妹お市の方の末娘お江の方を母として産まれましたが、その人生は波乱万丈のものでした。

わずか2歳にして豊臣秀頼と婚約、7歳で結婚し大阪城へ。

19歳で大阪城落城し、秀頼とは死別。

一旦、仏門に入った後、翌年20歳の時に桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。

本多忠刻が死後、江戸城へ戻り、剃髪して天樹院となります。

その後、徳川家光の三男・綱重の養母となり、徐々に大奥で力を保持したそうです。

享年は70歳。


以上、伝通院の境内には徳川氏ゆかりの女性や子供(男児)が多く埋葬されていますが、そのほかにも佐藤春夫、柴田錬三郎、浪越徳次郎などの墓もあるそうです。

敷地の隣に浪越徳治郎が創立した日本唯一の指圧の専門学校日本指圧専門学校がある縁で、寺の境内には浪越が寄贈した指塚があるとのことです。



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東京に残る深山幽谷ー小石川後楽園に遊ぶ

2019年01月29日 | 電車でおでかけ


1月18日(金)妻の実家に行き新年の挨拶をした後、二人で小石川後楽園に行ってきました。

東急目黒線西小山駅から地下鉄三田線に乗り、水道橋駅から歩いて10分ほどで小石川後楽園に到着です。

「小石川後楽園」は水戸徳川家の江戸上屋敷内の庭園で、寛永6(1629)年初代藩主頼房が庭の造営に着手し、2代光圀に引き継がれました。

明の遺臣・朱舜水(しゅしゅんすい)を儒臣として登用し、中国趣味を取り入れた回遊式築山泉水庭園です。

園名は『岳陽楼記(がくようろうき)』の「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から、後楽園と光圀が命名しました。



西門から入り庭園の中心である「大泉水」に近付くと、枝垂桜の向こうに、見事な松が・・・。

「一つ松」といい、琵琶湖唐崎の一つ松にならったといいます。

近江の琵琶湖を模した「大泉水」に対し、琵琶湖の唐崎の一つ松にちなんでいるそうです。

季節柄、雪吊りがかけられていました。



小廬山(しょうろざん)の手前にある「丸屋(まろや)」は昔の田舎のわびた茶屋のたたずまいを現している建物です。

「茅葺の田舎風の酒」茶屋で、丸の字を染め抜いた暖簾を下げていたといわれています。
 
現在は休憩所として使われています。

秋には丸屋や紅葉林が趣深い景色となるそうです。



「得仁堂(とくじんどう)」は、光圀が18歳の時、史記「伯夷(はくい)列伝」を読み感銘を受け、伯夷、叔斉(しゅくせい)の木像を安置した堂です。

得仁堂の名前は孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁」と語ったことによります。

後楽園には現在四つの建物(涵徳亭(かんとくてい)、九八屋、丸屋、得仁堂)が残っていますが、そのうち創建当時のまま残っている建物は、得仁堂だけです。



「円月橋」は後楽園内の旧神田上水跡に架かる橋で、光圀の命により、朱舜水が設計した我が国初の石造アーチ橋です。

水に映る影が満月のようなので円月橋と名付けられたそうです。

得仁堂とともに当時の姿を留める貴重な建造物です。



小石川後楽園の北側、梅林と円月橋のちょうど中間地点にある「八卦堂跡(はっけどうあと)」です。

光圀7歳のとき将軍家光から「文昌星(ぶんしょうせい)」(中国の学問の神)像を授かったのですが、後に光圀は文学を好み文昌星を思い起こし「八卦堂」を造り、その文昌星像を安置したそうです。



小石川後楽園には約90本の紅梅・白梅の梅林があり、花の見ごろには、辺り一面に良い香りが漂い、和やかな趣を感じさせてくれます。

私たちが行った頃は、まだ3~4分咲きでしたが、日差しの暖かくなる2月になると、一足早い春の到来を告げる「梅まつり」が開催されます。



庭園の中には珍しい「稲田」があります。

これは農民の苦労 を、光圀が彼の嗣子・徳川 綱條(とくがわ つなえだ)の夫人に教えようと作った田圃で、現在は毎年、文京区内の小学生が、5月に田植え、9月に稲刈りをしています。



「九八屋(くはちや)」は 江戸時代の酒亭を景観に取り入れ建てられたものです。

享保年代は、木製の夫婦像を置いて店主としたと言われています。

建物の名前は、「酒は昼は九分目、夜は八分目が適量」といわれていたことに由来しています。



「内庭」は、かつて水戸藩邸の書院があった所で、昔は唐門によって、大泉水側の「後園」と仕切られていました。
 
池泉には中島があり、2つの反り橋が架けれています。
 
藩主や正式なお客様は、内庭から唐門を通って後園をめぐり散策したようです。



内庭の泉水の水が木曽川に落ちるところが「寝覚の滝」と名づけられています。

寝覚の滝のある周辺は今も木々がうっそうとしていて、木曾山と呼ばれています。



南側から眺めた「大泉水」です。

この庭園の中心となる景観で、蓬莱島(ほうらいじま)と竹生島(ちくぶしま)を配し、琵琶湖を見立てて造られました。

昔はこの池で舟遊びをしたと言われています。



小石川後楽園散策の最後は「西行堂跡」です。

藩祖・頼房の時代に、御鞍打師( おんくらうちし )「小野荘兵衛」作の西行法師の木像を安置したことから西行堂と名づけられましたが、戦災により焼失しました。

九代斉昭 ( なりあき ) が、西行堂側の流れを西行の和歌「道のべに しみづながるる 柳かけ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」にちなみ「駐歩泉(ちゅうほせん)」と命名し、自ら筆をとり碑を建てたものだそうです。

以上 小石川後楽園は国の特別史跡・特別名勝に指定されています。

この重複指定を受けているのは、全国でも小石川後楽園、浜離宮恩賜庭園、金閣寺など、ごく限られています。


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港のヨーコと横須賀の「どぶ板通り」などを見て歩く

2015年04月06日 | 電車でおでかけ


4月5日(日) 妻(港のヨーコ)と二人で、先ごろ開通した上野東京ラインに乗って、横須賀市に行ってきました。

9時過ぎに吹上駅から上野東京ラインに乗り込み、戸塚駅で横須賀線に乗り換え、11時半前に横須賀駅に到着です。

先ずは昼食を、と言うことでショッパーズプラザ横須賀内の「築地食堂 源ちゃん」で腹ごしらえをしてから、横須賀芸術劇場の脇を通って「どぶ板通り」へ。



「どぶ板通り」とは、京急汐入駅から米海軍ベースにかけての一帯の商店街のことを指します。

もともと本町一帯は明治時代以降、帝国海軍の軍港街として栄え、第二次大戦後は進駐軍・在日アメリカ軍横須賀海軍施設の兵隊向けに土産物店、肖像画店、バーや飲食店、テーラーショップなどが栄えました。

その後、米兵向けのバーや飲食店は数を減らし、2000年代には日本人若者向けのアパレルショップ・美容院・アクセサリショップなども栄え、横須賀ならではのスカジャン専門店やミリタリーショップなども観光客に人気があります。



写真は「YAKITORI isis」です。

NAVYご用達のスタンディングバーで、300円で飲めるクレージーチューハイとクレージーチキンが人気だそうです。



「FUJI」は米軍放出品を中心にミリタリーブランドのフライトジャケットやブーツ、バッグなどのグッズを取り扱っています。



「KADOYA」は世界の一流品が揃うアウトドアショップです。

山着だけでなく、街で着ても充分映えるおしゃれなTシャツやパンツなども豊富だそうです。



「MIKASA vol.2」では戦後ドブ板で売られていたものを忠実に再現した復刻スカジャンと戦艦三笠のオリジナルTシャツがオススメだそうです。

「スカジャン」って・・「横須賀のジャンパー」ということなんでしょうなぁ・・(笑)



「HOUSE 107」では古船材、チーク材、マホガニー材、真鍮などで木彫特注看板、表札、特注家具、各種記念品(キーホルダー・アクセサリー)などを製作するそうです。



「Dublin Dock's Tavern」では片手にビール、もう片方でフィッシュ&チップスにかぶりつくのもアリ!ビリヤード、ダーツで 勝負もアリ!カウンターで一人音楽に酔いしれるのもアリ!だそうです。



「COUNTRY BAR GEORGE'S」

大きな木のドアを開けると、そこはテキサスのカントリーバー。

今にもカウボーイ やカウガールがウィンクしそうなお店だそうです。



「TSUNAMI カレー&グリル店」

大正浪漫の古民家で横須賀三大グルメ(ネイビーバーガー・海軍カレー・チェリーチーズケーキ)が味わえます。



「どぶいた食堂 PERRY」

この店も横須賀三大グルメが楽しめる、何でもアリのプレミア感の高いお店です。



これで「どぶ板通り」の見て歩きを終え、今度は「三笠公園」に向かいます。

国道16号を横切り三笠公園入り口のアーチをくぐると、左手に「ウッドアイランド」というカレーレストランが見えてきました。

この店は「カレーの街よこすか」のカレー人気店コンテスト第1位受賞店!だそうです。



神奈川歯科大学付属病院と横須賀学院を左に見て直進すると「三笠公園」に到着です。

「三笠公園」の岸壁には戦艦「三笠」が記念鑑として保存されています。

「三笠」は、明治35年(1902)にイギリスで建造された戦艦です。

日露戦争では東郷平八郎司令長官が乗艦する連合艦隊の旗艦として大活躍しました。



約1時間、記念館三笠の中を見学し終えたので、もと来た道を戻り、ショッパーズプラザ横須賀内の珈琲店で休憩したあと「ヴェルニー公園」を通って横須賀駅に向かいます。

「ヴェルニー公園」はフランス庭園様式を取り入れた公園で平成13年度に完成しました。

公園からは横須賀本港を一望でき、係留されている艦船を見ることができます。



横須賀駅は明治22年に、大船~横須賀間の横須賀線開通に伴い開業し、終戦までは全国的にも極めて重要な駅でした。

昭和15年に改築された現在の駅舎は、改築前の姿を比較的残し、古典的風格を備えています。

わが国では数少ない「階段のない駅」としても知られています。

中心市街地の外れに位置しているため、市内中心部に位置する京急本線の横須賀中央駅や汐入駅の方が圧倒的に利用者が多いということです。

小雨がそぼ降る休日のヨコスカ見て歩きでしたが、港のヨーコ(妻)とのデートを楽しんだ私は、幸せ気分で横須賀駅をあとにしました。




ひと駅大回り

2013年10月15日 | 電車でおでかけ


10月14日(月)妻と二人で「ひと駅大回り」という電車の旅に出掛けました。

「ひと駅大回り」とは、大都市近郊区間内のみを普通乗車券または回数乗車券で利用する場合は、実際に乗車する経路にかかわらず、最も安くなる経路で計算した運賃で乗車することができるというJRの運賃計算の特例を使って楽しむ電車の旅です。

重複しない限り乗車経路は自由に選べるが、途中下車はできません。

途中で下車する場合は、実際に乗車した区間の運賃と比較して不足している場合はその差額を支払わなければなりません。



私達が選んだのは最寄の駅である高崎線の吹上駅から北上して高崎駅まで行き、そこで両毛線に乗り換えて小山駅へ行き、小山駅からは宇都宮線で大宮駅まで行き、大宮駅から高崎線で吹上駅のひとつ手前の北鴻巣駅で降りる、というコースを、たった140円の切符で楽しむというものです。



9時40分吹上駅発の高崎線で行田駅・熊谷駅と進み10時33分に高崎駅へ到着しました。

先ずはトイレへ行き、駅弁の売店を探します。



ありました!!

最近は在来線の駅で駅弁を売っている店が少なくなりましたが、さすが「だるま弁当」の高崎です。

駅弁の種類もたくさんあって目移りがするほどでした。



終点の小山まで行く両毛線は11時6分発でした。



両毛線は元々この地域で盛んに生産されていた生糸や、桐生織に代表される織物の輸送のために建設された路線でしたが、現在では地元の通勤通学客の利用が中心となっています。

また平野部を走る路線ですが、沿線の主要な都市に立ち寄るように建設されたため、路線は大きく蛇行しています。



田園風景を見ながら昼食の駅弁に舌鼓を打ちました。

妻は奈良吉野の名産「柿の葉寿司」、私は群馬の最高級虹鱒ギンヒカリと谷川の大清水トンネル内に湧出する清水で養殖した新鮮な岩魚の押し寿司が入った「川魚鮨」をいただきました。



小山駅には12時53分に到着。

小山駅からは13時4分発の湘南新宿ラインで大宮駅まで。



大宮駅には13時41分に到着。

大宮駅からは13時56分発の高崎線で「ひと駅大回り」の終着駅・北鴻巣駅へ。



北鴻巣駅には14時23分に着きました。

北鴻巣駅の自動改札機では140円の切符は見事に拒絶されましたが、駅員さんに「ひと駅大回りです」と言って切符を渡すと難なく通過。

5時間近く電車に乗り詰めでしたので北鴻巣駅から吹上駅までは30分ほどかけて徒歩で帰りました。