若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

「太平記」の英雄、新田義貞が活躍した群馬県太田市を見て歩く

2016年02月06日 | ドライブ


1月31日(日)妻と二人で愛車プリウスに乗って、群馬県太田市に行ってきました。

太田市の観光協会によりますと5つのおすすめ観光コースがありますが、「太平記」の英雄、新田義貞が活躍した地を巡る「太平記コース」が面白そうだったので、それに従って回りました。

国道407号線の「東本町十字路」を左折して古河街道に入り、4キロほど先の「新田遺跡入口」を左に曲がると間もなく「円福寺・十二所神社」が見えてきます。

円福寺茶臼山古墳後円部墳頂辺に十二所神社がありますが、本殿の中に国常立命(くにのとこたちのみこと)など16体の神像が安置されています。



新田氏四代政義が開基したと伝えられる円福寺の境内には新田氏累代の墓と伝えられる凝灰岩でできた二十基ほどからなる石層塔・五輪塔群がほぼ完全な形で残存しています。



古河街道に戻り、更に西へ2キロほど行った「反町薬師入口」を左折すると、「反町館跡」に到着です。

新田荘を代表する館跡で、平成12年に新田荘遺跡として国指定史跡に指定されました。

築造は、鎌倉時代から南北朝時代と推定されます。

新田義貞が成人後移りすんだ館跡と伝えられ、戦国時代には3重の累濠に囲まれた平城でした。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の北条攻めで廃城したと伝えられています。



現在、館跡は瑠璃山妙光山照明寺の境内となっており、毎年1月4日の縁日には大勢の参詣人でにぎわいます。



再び古河街道に戻り、次の信号を右折して県道322号線を1キロ弱北上すると「生品神社」(いくしなじんじゃ)に到着です。

元弘3年(1333)5月8日、新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、鎌倉幕府を滅ぼすための兵を挙げたところです。

境内には義貞が旗を挙げたと伝えられる「旗挙塚」や陣を構えたと伝えられる「床几塚」があり、神社拝殿の前には義貞が軍旗を掲げたと伝えられるくぬぎの木の古木が保存されています。



毎年5月8日に「鏑矢(かぶらや)祭」が行なわれています。

これは、義貞が旗挙げの際に鎌倉に向かって矢を放ったという故事にならったもので、生品小学校の6年生の児童が鎌倉に向かって矢を放つ行事だそうです。



新田荘には古くから多くの湧水地があり、新田開発の上で大きな役割を果たしました。

生品神社から1キロほど西寄りにある「重殿水源」(じゅうどのすいげん)は大川の水源で、鎌倉時代末期に新田荘内で起こった争いの一因となった水源であると言われています。



現状では、周囲を民家や工場に囲まれ、四方を石垣とコンクリートで護岸された東西10m、南北23mの小さな池です。

北西の角には3基の石のほこらがあり、かつての面影をうかがうことができます。

この東側には一級河川、大川の源流であることを示す標柱が立てられています。



県道69号線に出て、南下し、「新田上江田町」の交差点を右折すると「江田館跡」です。

新田義貞公と共に生品神社に挙兵し、南朝方の猛将として名を馳せた世良田一族、江田行義(新田義季の子孫)の館と伝えられ、その後、戦国時代には金山城主横瀬氏の家臣矢内四郎左衛門が館を拡張して住んだと伝えられています。



江田館跡は、反町館跡とともに中世の平城の代表的な遺構で、俗に「堀之内」と呼ばれる本丸跡は、東西の側面に「折」を持ち、東西約80㍍、南北約100㍍の土塁と堀を巡らしています。

この時代の平城は通常は埋められたり、中に建物が入ってたりして形が変えられてしまいますが、江田館跡は、ほぼ築造された当時の姿をとどめている貴重な館跡です。



県道69号線をさらに南下し、「世良田」の交差点を右折すると「総持寺」の美しい境内が見えてきました。

総持寺は、2町四方(一辺200m)の規模を有した、鎌倉時代の総領家クラスの新田館跡に建てられた寺で、別名を「館の坊」といいます。

この新田館跡は、西の早川を背にして、三方を堀にした館跡で、東と西の一部に堀の跡が残っています。

居住者は新田荘の立荘者で、新田一族の祖新田義重居館説、本宗家4代の新田政義の失脚後、一時期新田氏を代表した世良田頼氏(徳川義季の子)居館説、新田義貞居館説などがあります。



この寺の梵鐘は、享保16年(1731)に佐野天明の鋳物師、太田甚左衛門藤原秀次により製作されたものです。

梵鐘は、時を告げるのは勿論、煩悩を持つ衆生を救うために撞くものでもありました。

総持寺の梵鐘は関東三大祭のひとつとされた世良田祇園の宵宮に、普門寺の梵鐘と呼応して屋台の曳き下がりの合図に使用されていました。



総持寺から歩いて10分ほどの所にある「長楽寺」は新田氏の祖新田義重(にったよししげ)の子、徳川(新田)義季(よしすえ)を開基とし、鎌倉時代は、約6万坪の境内に塔頭寺院(たっちゅうじいん)が軒を並べ、あまたの学僧が兼学修行に励んだといわれます。

室町時代の初期に日本五山十刹(ござんじっせつ)の制度が成立すると、長楽寺は十刹の第7位になりました。

しかし、新田氏の衰退とともに長楽寺も荒廃してしまいました。(写真は長楽寺三仏堂)





その後徳川家康が関東に入ると、徳川氏祖先の寺として長楽寺を重視し、幕府に信任の厚い天海大僧正を住職に任じました。

天海は天台宗に改宗し、その復興にあたらせ、末寺700余ヶ寺を擁する大寺院となりました。

(写真は長楽寺太鼓門)



長楽寺の隣が「世良田東照宮」です。

徳川家康は、元和2年(1616)4月17日駿府城で75歳の生涯を閉じました。

遺体は一旦久能山に葬られましたが、翌年遺言により2代将軍秀忠が日光に社殿を造営し、遺体を改葬しました。

3代将軍家光は、日光東照宮の大改築を行い、奥社の拝殿と宝塔を天海大僧正に命じて、徳川氏ゆかりの深い世良田のこの地に移しました。



幕府は東照宮に200石の朱印地を与え、長楽寺を別当寺としてその祭祀にあたらせました。

東照宮が幕府の庇護のもとに繁栄を続けたことは、現在遺されている多くの宝物類などによってもうかがい知ることができます。



「太平記コース」の最後は「明王院」です。

明王院は、新田氏初代の義重が中興し、さらに八代義貞が元弘3年(1333)に後醍醐天皇の勅によって七堂伽藍十二坊を有する大寺院として再建したと云われています。

本尊の「新田触不動」は建徳年間(1370~2)に成立した「太平記」にもあり、本尊の不動明王が山伏に化身して、新田義貞が鎌倉幕府攻めに挙兵するとの報を、越後一帯の新田氏一族に一夜のうちに触れ走ったと伝えられています。



境内には、山門・本堂・庫裏・千体不動塔・大塔宮護良親王の鎌倉幕府討幕の令旨を刻んだ石碑があるなど、新田荘遺構の一つとして史跡指定になっています。

殊に高さ6m余りのピラミッド形の千体不動塔は15段の石積に各々不動尊像が半肉彫りされて合計で千体になっており、享保年間(1716~736)に不動尊信仰者が講によって造立したものとされています。


最後に、歴史に弱い方(私と妻を含めて)のために、「新田義貞」についてまとめてみました。


新田 義貞は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将で正式な名は源 義貞。鎌倉幕府を攻撃して滅亡に追い込み、後醍醐天皇による「建武の新政」樹立の立役者の一人となる。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死。