若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

金沢・能登を旅する-その1

2013年04月28日 | 旅行



妻と二人で4月24日(水)から2泊3日で金沢と能登半島を旅してきました。

24日(水)は金沢市内の「ひがし茶屋街・金沢城・兼六園」などを見て歩き、25日(木)はレンタカーで能登半島をドライブしたあと和倉温泉で凪の海景と能登の幸を満喫し、26日(金)は再び金沢市内に戻って「香林坊・武家屋敷・にし茶屋街・四高記念文化館」などを散策しました。

4月24日午前7時26分に大宮から「Maxとき」に乗り込み、越後湯沢で「特急はくたか」に乗り換え、金沢には午前10時53分に到着しました。





金沢は「弁当忘れても傘忘れるな」と言われるほど雨の多い街で、この日も小雨まじりの一日でした。

JR金沢駅の東広場には金沢を訪れる人に差し出す雨傘をイメージし、おもてなしの心を表わしたガラスのドーム「もてなしドーム」があります。(奥の部分)

正面に構えるのは、伝統芸能に使われる鼓をイメージした「鼓門(つつみもん)」です。





駅前にある宿泊先のホテルに荷物を預け、まずは昼飯を食べに「近江町市場」(おうみちょういちば)に直行です。

(左側は北國銀行武蔵ヶ辻支店、右側が「近江町いちば館」)





名前の由来は近江商人が作ったそうで、地元では「おみちょ」と呼び親しまれているそうです。

私たちは「近江町いちば館」2Fの「市の蔵」という店で昼食をとりました。





日本海の魚料理を満喫して、いよいよ金沢市内の散策です。

尾張町方面を東に向かって歩いて行くと、右手に見えてきたのが「町民文化館」です。

明治40年に金沢貯蓄銀行として建てられました。

外観は黒漆喰仕上げの塗篭土蔵造り、内部は白漆喰仕上げで和洋折衷の様式美を魅せています。





尾張町から更に東へ歩きます。

目指すは「ひがし茶屋街」です。

「橋場」の交差点の手前の路地を入ると、泉鏡花の生家跡「泉鏡花記念館」がありました。

幼い頃に母を亡くした泉鏡花。

その作品は亡母憧憬を基底に浪漫と幻想の世界を小説や戯曲という形で紡ぎだしてきました。

明治半ばから創作活動を始め、大正、昭和にかけて、300編あまりの作品(「義血侠血」「高野聖」「婦系図」「歌行燈」「日本橋」「天守物語」など)を生み出した鏡花は、やがて文豪と称えられ、また天才とも謳われるようになりました。






浅野川左岸沿いの「天神橋」から「浅野川大橋」までの道が「鏡花のみち」と呼ばれています。

この道には彼の出世作「義血侠血」のヒロイン・滝の白糸の姿をかたどった像が建っています。





「鏡花のみち」から浅野川にかかる「梅ノ橋」を渡ると「徳田秋声記念館」があります。

徳田秋声(1871~1943)は、尾崎紅葉の門下を経て、田山花袋、島崎藤村らとともに明治期の自然主義文学運動の中心的存在として活動し、明治・大正・昭和と三代にわたり常に文壇の第一線で活躍した、文字通り「大家」の名にふさわしい作家です。

この記念館は、有名な料理屋が火災に遭い空き地になっていたところに平成17年に開館されました。

その頃、右岸の「梅ノ橋」から「浅野川大橋」までの川沿いの道が「秋声のみち」と命名されました。





徳田秋声記念館の脇の細い道を北へ少し歩くと、いよいよ「ひがし茶屋街」です。

浅野川の川岸には、今でもキムスコ(木虫籠)と呼ばれる美しい出格子がある古い街並みが残り、昔の面影をとどめています。

灯ともし頃にもなれば、今でも軒灯がともる茶屋から三味線や太鼓の音がこぼれてきます。

五木寛之著「朱鷺の墓」の舞台としても知られています。





金沢市には三箇所の茶屋街があり「ひがし茶屋街」の他に「にし茶屋街」、「主計町茶屋街」(かずえまちちゃやがい)があります。

「ひがし茶屋街」はそのうちでも最大規模を誇り、現在でも8件が営業していて、芸子さんや芸者さんが20名ほどいるそうです。





町の中には笛や太鼓、三味線などの音が流れ、昔からの景観とあわせてなんとも言えない雰囲気があります。

文政3年(1820年)に茶屋と呼ばれる遊郭を整備したのが始まりで「東廓」などと呼ばれ歓楽街として栄え、時には文化人達の社交場にもなったそうです。





どことなく繊細な情緒がある浅野川は別名「女川」と呼ばれ、界隈に金沢らしい風流を漂わせています。

平成13年に「浅野川大橋」が国の登録有形文化財に」なりました。





「浅野川大橋」を渡って再び浅野川の右岸に戻ると「主計町茶屋街」が見えてきます。

主計町は東西両茶屋街とは異なり浅野川に面して茶屋建築が建ち並び、一歩細い路地に入ると遊郭独特の隠微な空間や石段があることで、より情緒豊かな空間を感じる事が出来ます。





又、主計町では1階が出格子、2階が吹放しの縁側といった特徴の茶屋建築の上に3階を増築し、より浅野川の風景を楽しむ工夫が見られ他の茶屋街では見られない独特な町並みが見られます。





さあ次は金沢城を目指して南に歩いていきます。

途中、「橋場」の交差点にひときわ目を引くお洒落な建物が見えてきました。

「金沢文芸館」です。

元々は銀行だった建物を金沢市が改修し文芸館に生まれ変わりました。

2Fは「五木寛之文庫」となっており、金沢が文学のスタート地点であり第二の故郷でもある作家五木寛之氏の全著作品をはじめ愛用品や記念品などが展示されています。





「兼六園下」の交差点から「白鳥路」を歩いていると犀星・鏡花・秋声(左から)の「金沢三文豪の像」や白鳥像など、21体もの彫刻が行き交う人を出迎えてくれます。

ロマンチックな「白鳥路」を歩いて大手門口から金沢城公園に入りました。





加賀百万石のシンボルである金沢城は、天正11年(1583年)に前田利家により本格的な建城が行われ、明治2年(1869年)まで加賀藩前田家14代の居城として置かれました。

度重なる火災により、石川門と三十間長屋以外の建物は全て消失してしまいましたが、平成13年(2001年)には、古絵図や古文書などをもとに菱櫓(ひしやぐら)、五十間長屋(ごじっけんながや)、橋爪門続櫓(はしづめもんつづきやぐら)を出来る限り忠実に復元し、 安政の頃の景観を現代に蘇らせました。





石川門口を出て陸橋を渡るといよいよ今日のハイライト「兼六園」です。

水戸偕楽園、岡山後楽園とならぶ日本三名園の一つ、兼六園。

兼六園は江戸時代の代表的な大名庭園として、加賀歴代藩主により、長い歳月をかけて形づくられてきました。





すぐれた景観の代名詞として六勝という言葉があります。

六勝とは、[宏大(こうだい)][幽邃(ゆうすい)][人力(じんりょく)][蒼古(そうこ)][水泉(すいせん)][眺望(ちょうぼう)]のことだそうです。





宋の時代の書物『洛陽名園記(らくようめいえんき)』によると「庭園では六つのすぐれた景観を兼ね備えることはできない。

広々とした様子(宏大)を表そうとすれば、静寂と奥深さ(幽邃)が少なくなってしまう。

人の手が加わったところ(人力)には、古びた趣(蒼古)が乏しい。

また、滝や池など(水泉)を多くすれば、遠くを眺めること(眺望)ができない。

この六つの景観が共存しているのは湖園(こえん)だけだ。」という記述があります。





兼六園は、この湖園に似つかわしく、六勝を兼ね備えているという理由から、文政5年(1822年)、奥州白河藩主・松平定信によってその名を与えられたそうです。





何代もの加賀藩主により、長い年月をかけて形づくられてきた兼六園ですが、作庭における基本的な思想は一貫していたようです。

その思想とは「神仙思想」。

大きな池を穿って大海に見立て、そのなかに不老不死の神仙人が住むと言われる島を配します。

藩主たちは、長寿と永劫の繁栄を庭園に投影したのだそうです。





兼六園散策を終えた私たちは再び金沢城公園を通って黒門口から宿泊先のホテルに向かいました。

途中、「尾崎神社」という小さな神社がありました。

尾崎神社は、東照大権現(徳川家康)、前田利常(三代藩主)を祀る神社で、寛永20年(1643年)、金沢城北の丸に東照三所大権現社として建立されました。

当時は、「金沢城の江戸」、「北陸の日光」と呼ばれて崇められたそうです。

明治7年に尾崎神社と改称され、明治9年に金沢城が陸軍省用地となった為、十数棟にも及ぶ豪華な社殿の内、現存の建物だけを移築したそうです。

それでも朱塗りの神門、重要文化財指定の社殿類は歴史を感じさせるに充分な佇まいで、三つ葉葵の紋所が素晴らしい神社でした。