たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

国はコロナワクチン接種後の心筋炎の実態を早急に調べるべき

2023年12月04日 15時49分57秒 | 気になるニュースあれこれ

苦労人の改(@5rHxIhQGQnnRSOe)さん / X (twitter.com)

「医師として45年間知っている真実。

診断可能な心筋炎がある場合、75%が10年以内に亡くなるだろう。

責任取れよ厚労省、政府、推進派医クラども。」

 

藤江@日本人、謎の大量死※コロナでは説明できない(@JINKOUZOUKA_jp)さん / X (twitter.com)

 

「12月1日の厚生労働大臣記者会見

新型コロナワクチン

・全国11自治体の救済制度申請一覧から、「105件」の心筋炎・心膜炎を確認

・そのうち副反応疑い報告制度に掲載されていないのが「93件」もあった。

これでワクチンの安全性など分かるはずがない。

記者会見全編の動画 https://youtu.be/DGCVtOIdNQ8

厚労省は、心筋炎が「ごく稀」だと言うが、ただ単に医師らが報告を上げていないだけだった。

 

森田洋之@コミュニティードクター/医療経済ジャーナリスト/「医療」から暮らしを守る医師/音楽家(@MNHR_Labo)さん / X (twitter.com)

いや藤江さんのジャーナリストとしての実力、半端ないです。本当に感謝。

ちょっとわかりにくいので解説しますと、 ◯「健康被害救済制度」は、ワクチン被害救済を趣旨として「被害者」が申請するもの。

https://mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/vaccine_kenkouhigaikyuusai.html

◯「副反応疑い報告」は、ワクチン被害を認識した「医師・医療機関」が報告するもの。 https://mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/vaccine_hukuhannou_youshikietc.html

 

このような違いがあり、 藤江さんが独自に全国11自治体の「救済制度申請」(被害者からの申請)一覧を調べたら、「105件」の心筋炎・心膜炎を確認

その105件を一つ一つ丹念に「副反応疑い報告」(医師・医療機関からの報告)に照らし合わせたら、なんと医師からは12件しか報告されていなかった(つまり残りの93件は医師・医療機関からの報告なし) ということですね。

結局、殆どの医師は、 「ワクチン副反応なんてない」 ことに出来るし、実際にしている。 ということです。

なお、医師の報告は義務です。

「報告の対象となる症状の発生を知った、医師又は医療機関の開設者は、予防接種法第12条に基づき、報告しなければならないこととされています。」 https://mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/vaccine_hukuhannou_youshikietc.html


通信教育レポート-西洋史概説Ⅰ(古代・中世)

2023年12月04日 12時11分08秒 | 日記

西洋史概説Ⅰ(古代・中世)レポート

 

課題:ローマの建国より帝政成立までの過程を述べよ。

 

 ローマは、地中海世界を基底にして、市民共同体の一つとして発展し、おそくとも前六世紀の初めには、国家を形成していた。ローマは、もとテレベ川下流に銅器時代以後始まった小定住地であり、時代が進むにつれて住居は拡大し、前八世紀頃には、ラテン人とサビニ人がそれぞれ集落を形成していた。前七世紀にはいって、集落の有力者層が北方エトルスキとの交易によってしだいに上昇し、王をたてて、集落の統合と都市形成がなされた。諸集落の複合段階を去り、諸集落は市民共同体となり、市民共同体は国家として形成され、この段階で重装歩兵軍の動員が可能になった。空前絶後の支配権をうちたてたローマは、もともと小さな都市国家だったのである。都市国家体制の基礎は、貴族(騎士)と上層農民(重装歩兵)との政治的同盟であった。その社会では、すでに元老院や民会が、王権を制約するものとして存在していた。

 

 前550年頃から約半世紀は、ローマは完全なエトルスキ王権の支配下にあり、そのもとで経済的に繁栄した。しかし、前六世紀末、強力になっていた貴族は、専横化しようとする王権を耐ええず、エトルスキの王を追放して貴族出身のコンスル(執政官)を最高政務官する共和政を開いた。元老院と民会は、王政時代のものが継承された。

 

 共和政にはいる頃、共同体内の富裕な有力者層は、パトリキ(貴族)として身分的に閉鎖し、その他の者をプレブス(平民)として身分的に差別したので、両者は対立することとなった。前五世紀半ばの最初の衝突では、貴族が譲歩し平民の抵抗権を国家が認めることで、共同体国家の解体をさけ、外敵と戦うため、強力な重装歩兵軍を維持しようとした。さらに、十二表法の制定によって両者が妥協し、ローマはパトリキと重装歩兵農民(プレブス上層)の同盟として出発した。国内の結束を固めたローマは、重装歩兵軍の大量動員に助けられて、南方ではアエクイ族やウォルスキ族を破り、北方では前396年エトルスキの都市ウエイイを降してしだいに勢力範囲をひろげていった。戦後ウエイイ領には、四トリブス(部族)が設置されて、ローマから土地割当てを受けた農民植民者が送りこまれた。ウエイイの打倒は、ローマが中継貿易の覇権を奪回し、上層農民の商業関与の機会を拡大して、重装歩兵として出陣しうる農民層を育成することに役立った。

 

 しかし、前四世紀北方のケルト人の南下の波のひとつがローマを襲い、ほとんどが瓦礫に帰した。戦後の復興は困難をきわめ、パトリキとプレブスの争いが再び激しくなった。混沌とした政情は、リキニウス=セクスティウス法の成立によって収拾された。富裕層による公有地の占有面積を制限し、プレブス(平民)がコンスルに就任できることを定めて、パトリキ(貴族)とプレブス(平民)の政治的平等を実現しようとするものであった。しかし、実際は、パトリキ(貴族)の有力者とプレブス(平民)の富裕な上層とが同盟を結び、あらたな貴族ノビレス(新貴族)が生れ、以後共和政末期まで約300年政権を握ることになる。ノビレス支配は、ローマ都市国家の共同体的原理を否定するものであったのではない。ノビレスの政権掌握は、恣意的暴力によってではなく、共和政的国家諸機関を介して行われた。

 

 こうして、共同体の分解を阻止し、国内の安定に成功したローマは、精力的に外敵に当たった。たびたび敵対したラテン人諸都市国家を、前338年に撃破し、ラティウムをその支配下に入れた。続いてローマはかねてより敵対関係にあったサムニテスと、三次にわたる長期の激戦を行って降伏させ、エピロス王ピュルロスと戦って勝利をおさめると、ターラントが降伏し、中・南部イタリアを完全にその勢力下に置くに至った。戦後処理において、ローマに近い、あるいは密接な関係にあった都市は、ローマ市民権を与えられ、ローマ市民共同体が拡大された。ローマ市および植民市のローマ市民からなるローマ市民共同体を中心に、低次の市民権をもった諸都市と同盟市の強固な政治勢力がつくりあげられ、イタリアはローマの政治勢力の下にまとめられていった。ローマの植民市と植民者がローマ市民共同体から独立せず、そのひとつの区に行政的に組み入れられたことは注目される。

 

 国内政治においては、パトリキ(貴族)とプレブス(平民)の対立が続いていたが、パトリキは、ほとんどすべての政務官職をプレブスに開放し、平民会決議を国法として認めるなどの譲歩によって、この時期ほとんど最終的に収拾された。このような改革によって、共同体内部におけるノビレス(新貴族)の政権の同盟者としての地位を重装歩兵農民は保証されたのであり、ノビレス(新貴族)の政権は確保されていた。

 

 ついでローマは、海上帝国カルタゴと衝突するに至り、前264年第一次ポエニ戦争が始まった。この戦争でローマは初めて本格的な軍隊をつくり、前241年カルタゴに和をこわせた。その結果、ローマは初めて海外領を手に入れることになった。前218年長年スペインでローマ反攻の準備をしていたカルタゴの名将ハンニバルがイタリアに侵入してきて、第二次ポエニ戦争がおこった。前201年ハンニバルを破って、カルタゴに和をこわせたローマは、この戦争を境として海外領土の征服に転じ、地中海世界に進出する国際的勢力になっていく。前二世紀に諸外国と次々に戦いを交え、東部地中海に対しても絶対のにらみをきかす強国となっていった。前133年マケドニア、アフリカ、スペインなどがローマの属州となり、ギリシア本土もほとんど属州と変らなくなる。前129年には、小アジアのベルガモン王国の故領も属州となって、今やローマは地中海をめぐる大帝国になろうとしていた。

 

 巨大な海外支配は、ローマ市民共同体に分解的作用を及ぼしていく。すでにハンニバルによる15年間にわたるイタリア掠奪は、特に南イタリアの農地を荒廃させていた。農地は手放されて富裕な上層の手に渡り始め、こうして形成される大土地所有は農業から牧畜に経営をきりかえた。農地を手放した貧困市民の多くは、ローマ市へ流れ込むようになった。前二世紀の諸外国との相次ぐ戦争は、農民の没落をいっそう進めた。一方、経済的には、軍需品の供給などに携わった商人階級の富をふくらませた。官職貴族、特にノビレス(新貴族)の多くは、属州総督として属州民搾取を行い、私腹を肥やした。さらに、大商人たちは属州の徴税請負人として活躍し、巨大な資本を蓄積していった。ローマ市民共同体による海外領の経営が彼らの資本蓄積源であった。資本の蓄積は大土地所有を形成し、奴隷制大農場と牧畜経営によって富裕層はさらに儲けた。他方、没落した農民を海外支配から流入した富で養う方法をとったため、ローマ社会の疲弊は固定化された。

 

 ローマが広大な海陸の勢力圏を確保するには巨大な軍事力が必要であった。武装自弁を原則とし、重装歩兵としての武装可能な中濃以上が多数存在することが国防力の維持とって不可欠の前提あったローマは、農民の没落は軍事力の低下を意味した。その原因しての農民問題を解決するためにグラックスが改革運動にのりだすが失敗、大土地所有を拡大して共同体の分解をさらに進めた。土地所有を基礎するローマの防衛体制は、破綻を来たさざるを得ない。前23年ゲルマン人によって国境を犯されたローマは、相次ぐ戦闘で敗北と全滅を続けた。この軍の危機は、マリウスの兵制改革により切りぬけることができた。マリウスは、武装は国家が責任をもつこととし、無産者を含む全市民から志願兵を募り、これに武装させて軍団を編成した。武装義務を土地所有から開放したこの改革は、ローマの伝統的な防衛体制の根本原理から逸脱したものであった。この改革の結果、兵士と彼を武装してくれた将軍との間に特別の忠誠感情と個人的な結びつきを生み、軍隊は将軍の私兵的存在に化し、政治的争いがただちに軍事的対決まで発展することとなった。このとき政治家は閥族派と民衆派とに分かれて争っていた。貧困市民の退役兵への土地割当による共同体の再建は、共同体の拡大によらなければならない。共同体の拡大には、ラテン人や同盟市民へのローマ市民権付与が伴わざるを得なかった。民衆派はこれを実現しようとしたが、閥族派が反対したため、政治家の権力闘争とからんで前90年全イタリア同盟市がローマに敵対する戦争を起こした。三年にわたる反乱の結果、ラテン人、同盟市市民を含むイタリア人全てにローマ市民権が与えられ、イタリア全土がローマ市民共同体の土地となった。

 

 共和政末100年ローマ市民共同体内の権力闘争は、武力衝突に伴ってますます大規模にくりひろげられ、動乱の間にローマ=イタリアの地中海世界に対する支配は完成した。有力な武将たちは、権力闘争を勝ち抜くために対外征服の戦功を競った。やがてカエサルが台頭するが独裁的傾向を増したため反対派に暗殺される。カエサルの武将アントニウスはカエサル暗殺者の大軍を全滅させたが、カエサルの甥で養子のオクタヴィアヌスに敗れた。アントニウスと結んだエジプトのプトレマイオス王朝もこの時倒れてローマ領となり、100年の内乱は終結した。全26年オクタヴィアヌスは、実力によって手に入れたローマ世界に市民の中の「第一人者」として君臨し、内乱鎮定のための大権を返却して、国家を元老院と民衆の手に委ねた。これに対して元老院会議でアウグストゥスの尊称を送られ、元首政と呼ばれる新しい政体を始めた。形式は共和政をとっているが、事実上は帝政であった。

 

参考文献

『イタリア史』(山川出版社)

『ローマ帝国論』(吉川弘文堂)

 

 

昭和63年に書いたレポート、評価はA。

講師評は「大変よく調べており、またその内容の理解もしっかりしている。なおローマ共和政時代の管制・軍制にも留意されたい。」でした。