たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『文学探訪石川啄木記念館』より-啄木小伝-故郷渋民の視点から(4)

2021年07月28日 13時22分56秒 | 本あれこれ
『文学探訪石川啄木記念館』より-啄木小伝-故郷渋民の視点から(3)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/ab282b13b310179f3a9dcb6975d31644

「啄木小伝-故郷渋民の視点から-遊座昭吾(啄木研究家)

-望郷と終焉-

 5月4日、渋民を離れた啄木は、その翌日北海道函館に着く。以来、わずか一年足らずの時を北海道で過ごすのである。函館から札幌、そして小樽、釧路へと、果たしてなく流浪、漂白の旅が続いた。ほとんど新聞記者としての職に徹し、その力は十分人々に評価されるものであった。だが、北海道は啄木を長くとどめる場所ではなかった。彼は最後の文学的運命を試そうと、状況を決意するのである。

 明治41年4月に上京した啄木は、小説執筆に明け暮れるが、文壇からはよい評価を得られず、わずかに「鳥影」を東京毎日新聞に連載しただけに過ぎなかった。

 幸徳秋水らが天皇暗殺を計画したとして一斉に検挙された、いわゆる大逆事件が新聞に奉ぜられたのは43年6月初頭の事である。啄木はこの事件に大きなショックを受け、その分析に没頭、社会構造に秀徹した目を向け、時代を切開する思想家としての才をも開花させていった。

 こうして生活や思想と格闘する中で、啄木は歌集『一握の砂』を刊行する。

 その歌集には、渋民を歌う54首思郷歌が、重みをもって配置されている。「ふるさとの訛(なまり)なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」「田も畑も売りて酒のみ/ほろびゆくふるさと人に/心寄せする日」-啄木の目には、驚くほど鮮明に正確に、ふるさと人の生活が、ドラマが映ってきた。それは代用教員時代に、同じ街道でじかに見聞した、ふるさと人の生活そのものであった。

 生活、思想、文学が、ともすれば崩れかかろうとするこの時代の啄木の心に、暖かい勇気を与えたのは、このふるさとを切なく思う情緒であった。「やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」「ふるさとの山に向かひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな」-啄木の目が、北上川から山に移り、やがて岩手山に視点がとまった時、彼は誰にはばかることなく「ふるさとの山はありがたきかな」と詠み切ったのである。そして、「かくかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川」と歌い上げた時、渋民は啄木の心の中に永遠のふるさととして深く刻みこまれた。

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 明治45年4月13日午前9時半、啄木は故郷からはるかに離れた東京の一隅で、その凝縮した人生に終止符を打った。法名「啄木居士」。詩人の死を看取ったのは父一禎、妻節子、娘京子そして友人若山牧水である。貧しさと病いに削りとられた啄木の身体は枯木のようであった、と啄木は証言している。」

カナダにつながっている空と海

2021年07月28日 00時42分09秒 | 日記
 一週間前の夕暮れの風景、カナダにいるような感覚になります。空と海に優しく抱かれているような心持ち。春のプリンス・エドワードのオーウェル・コーナー歴史村で草に寝転んで高い高い空を見上げたひとときを思い出します。この空と海は、この世にいる間もう訪れることはできないであろうカナダにつながっているのだと思うと、元気になることができます。生まれ育った近郊ではお目にかかることができない風景。































 今日また書類を郵便局から発送。出したら忘れたいので履歴を追うことはしません。勤務希望日数、週4日、週5日、週4日と週5日のどちらでも可の三択から、迷った末、どちらでも可につけていた〇を消して週5日のところに〇しました。一週間前相談員さんに体のことを考えたら週4日でしょ、どちらでも可に〇しておいて面接に呼ばれたらまた相談させてくださいとすればいい、週4日でも収入がないよりはましでしょと言われてしまったのがずっとひっかかっていました。週に21時間以上稼働すれば有無をいわさず社保天引き、涙も出ないほど手取りがなくなってしまいます。どう考えても少なすぎます。だったら21時間未満で稼働して天引きされないようにした方がいいってなります。天引きがあるうちは倒れようとも週5日フル稼働、やれるところまでやると考えるしかありません。一週間か二週間のリハビリに通い続けられのか、土曜日のお昼に行くのは体動かなくなるし、リハビリのあと足腰がすごく疲れるので金曜日の夕方に行きたい、そうすると30分早引きが必要になる、どうすればいいのかわかりませんが自分を食わせていくためには週5日働かねばなりません。

 気がつけば母がこの世を旅立った年まであと20年、自分がそこまで生き長らえたら、おとぎの国からごはん食べさせてくれる王子さまがやってきてくれない限り食べていくことができないのは明白、手術してまで生き長らえたいのかわからないなれど、観劇するためには食えなくなる時を先延ばしにしなければなりません。同世代の訃報をきくとまだ早いって思いますもんね。今思えば大会社の13年間、苦しくて苦しくて仕方ありませんでしたが、結果はつらかったですが、まだ体力もあり無理がきき、右足が少しずつ短くなっているって自覚しないでいられたし、地球に裏側へなんどか旅することができたのは、このつたない人生の華の時期だったのかもしれません。

 明日のことは誰にもわからない。自分が自分でいられる間に、少しずつ荷物を減らしながら許される範囲で日比谷に行きたい。ささやかな望みです。明日は一週間ぶりのリハビリ、開始から一か月、今後の見通しにはまだ早いのか、ペース落としたらどうなるのか見立てられるまでにはまだ早いのか・・・。