たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「新型のコロナ感染症予防対策についての共同宣言」

2021年07月06日 15時00分45秒 | 気になるニュースあれこれ
東京宝塚劇場の宙組公演で指揮をする上垣聡先生がブログに紹介されているので一読してみました。
https://ameblo.jp/saty0221/entry-12684683487.html

「厚生労働省は、自粛の必要性について、その科学的根拠を示すべきである。 また、新型コロナウイルスの存在を示す根拠となる科学論文を示すべきである。

巷には、感染への不安から、過剰な予防対策も横行し、同調圧力などによる生活の質の低下を招いています。
自殺者は7月以降4ヶ月連続で増加し、去年の同時期より40%も増加したことは看過できない現実です。

このような状況にあって、私たちは「国民の健康を守り生活の質を維持する」という観点から、政府や自治体が提唱する感染予防対策を無条件に受け入れ、新しい生活様式へ移行することに同意すべきではないと考えています。

むしろ、新型コロナウイルス感染症が、私たちの生き方を根本から変えるに相応しい重大な要因となり得るのかを、検証可能なデータをもとに冷静に分析し、そこから導き出される科学的な結論を、広く多くの人々と共有することで、誰もいたずらに不安に踊らされてしまうことがないように、注意喚起することが大切であると考えています。」

「私たちは、この度のパンデミックは、偏った情報が急速に拡散されたことによって引き起こされたインフォデミックであると認識しています。
新型コロナウイルスの脅威は、実際に多くの人が感じているより圧倒的に低く、私たちの生活様式が変更されなければならない程の死の脅威は存在しません。

新型コロナウイルスのPCR検査の実施件数は、4,050,466件(12/1現在)
新型コロナウイルス感染症の感染者(PCR検査陽性者)148,694人のうち
死亡者は2,139人
入院治療等を要する者は21,056人
退院又は療養解除となった者は125,470人

インフルエンザの患者 毎年推定1,000万人のうち
2019年度の感染者数728.5万人
死亡者数3,571人

新型コロナウイルスによる死亡者とされる人数は、インフルエンザより少なく、2/3程度。肺炎の1/44。交通事故死亡者数はコロナ死亡者の約2倍。転んで亡くなる方の人数の方が多いというのが現実です。
インフルエンザに関して言えば、毎年2000万人がワクチンを接種するにもかかわらず、非常に発症が少なかった2019年でさえ、新型コロナウイルス感染症の約50倍の、728.5万人もの人々が感染し、新型コロナウイルス感染症の死亡者を超える3,325人の方々が亡くなっています。
それでも私たちは、特に騒ぎ立てることもなく普通に生活してきました。
これらの事実が示すことは極めてシンプルです。

つまり、『私たちがとりたてて深刻な死の恐怖にさらされている事実はない』ということです。国をあげて生活様式を一変させるような対策を施す必要はないのです。」

 ワクチン接種券が届きました、打つべきか否か。かかりつけ医や薬剤師さんは医療従事者として2回接種し、体調にかわったところはないそうです。薬剤師さんにどうですかときかれ、もう少し社会の状況をみながら決めたいと答えました。れーれがワクチンを打つか打たないか夜な夜ないろいろな情報をみては悩み疲れているとインスタグラムに書いています。何を信じればいいのか、今こそメディアリテラシーの力が求められていると思いますがむずかしいです。かかりつけ医はウィルスはコピペと同じだと。コピペで同じものがどんどん増えていき、たまにコンピュータに原因不明のバグがおこるように、ウィルスにもバグが起こり変異種が出てくると。

『文学探訪石川啄木記念館』より-啄木小伝-故郷渋民の視点から(2)

2021年07月06日 10時52分49秒 | 本あれこれ
『文学探訪石川啄木記念館』より-啄木小伝-故郷渋民の視点から(1)

https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/38d07c2e2818858b40bf7c4155dbea18


「啄木小伝-故郷渋民の視点から-遊座昭吾(啄木研究家)

-栄光と破局-

 盛岡中学を退学した石川一は、文学に新しい人生を賭けてすぐ上京、、与謝野鉄幹・晶子夫妻の厚い指導を受けた。だが、賭けを挑むにはあまりに若く、また力に乏しく、ついに東都で心身ともに疲れ果てて病の身となり、故郷に帰らねばならなかった。

 故郷に敗残の身をさらすことは苦痛であった。けれどもそのことが、かえって内なる自己を深めさせることになったのであろう。彼は終日試作に没頭し、稿をためていった。そして、楽劇者ワーグナーに心酔、その愛の思想を把握し、ますます鋭敏な神経を研ぎすませていくのである。

 ちょうどその頃、彼はあたかも神の啓示のごときある音を聞き、強い衝撃を受ける。「啄木鳥
きつつきどり」と題する詩は、その衝撃を14行ソネット形式に歌い上げたものであった。きつつき鳥のあのこだまを、愛によって作られた霊の住む緑美しき世界が、俗塵に侵されつつあることを人間に警告する音と直観し、きつつき鳥を霊を守る鳥としたのである。そして、その詩を明治36年12月の「明星」に発表する時、彼はペンネームを「啄木たくぼく」とした。人間世界に対する警告の詩人となろうとする願望を、このペンネームに託したのである。再度の上京によって、明治38年5月には、処女詩集「あこがれ」が出版された。啄木は、まさに年若き新進詩人としての栄光を一身に集め、詩壇に自分の名を登録したのであった。

 皮肉なことには、この栄光の裏に、石川一家が寺を出、渋民を去るという事件が用意されていた。父一禎が宗費滞納の理由で宝徳寺住職を罷免されたからである。この事件は詩人・啄木にとって、生命を支える故郷の喪失を意味した。

 盛岡に移り、堀合節子と結婚し、新居を構えた啄木を待っていたのは、新進詩人としての栄光ではなく、一家の経済を負担する生活者としての責任であった。しかし、盛岡での生活は日増しに窮乏していく。生計を支える生活者としての能力は、啄木には所詮なかったからである。」