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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『文学探訪石川啄木記念館』より-啄木小伝-故郷渋民の視点から(3)

2021年07月27日 13時12分28秒 | 本あれこれ
『文学探訪石川啄木記念館』より-啄木小伝-故郷渋民の視点から(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/b1be9dbaea66e34aa3a7ee55c43ba1fd

「啄木小伝-故郷渋民の視点から-遊座昭吾(啄木研究家)

-再び渋民へ-

 啄木が「渋民尋常高等小学校尋常科代用教員を命ず、但し月給八万円支給」という辞令を受けたのは、盛岡での生活が破綻し、どうしようもなくなって故郷渋民に戻った一か月後、明治39年4月のことであった。街道筋の一農家の母家を借り、そこからすぐ近くの小学校へと通った。

 かつて街道から離れた宝徳寺に身を置いて眺めたと、今こうして通りに住んでじかに接するとは、まったく違ったものに見えた。そこには暗くしめっぽい土のにおいがあり、知識から見放された子どもたちの澱んだ目があった。啄木はその子どもたちに、与えられた本務以外の英語の課外授業、作文指導、朝読み学習をなし、また自治精神の涵養(かんよう)や、性の悪風潮の一掃に努力し、子どもたちの目の変化を追ったのである。

  初めて英語を耳にする時、あるいは自ら異国後を発音する時、子どもたちは大きな未知の世界をのそくかのように目を輝かせた。代用教員石川啄木を、彼らはひと時も離さず、いろいろの話を求めた。啄木が教育の意義を知り、その改革の必要を決意したのは、まさにこの時であった。

 時は日露大戦に勝利した戦後であった。啄木は自分の故郷の後輩に、単に知識を伝授するだけではなく、後輩が新時代に生きる、呼吸できる人間になることを願って、ありったけの時間と努力をついやした。そして、教育改革なるものを、大胆に村当局に提出し、その審議と改革を望んだのである。

 だが、その教育改革案に対する村の回答は、完全な無視と沈黙であった。また、そのことに不満を持ち、高等科の生徒を従えて実施したストライキに対しては、免職という回答が返ってきた。生活安定のための悲願であった宝徳寺への再住も、啄木の奔走村しくすでに絶望的な状況となっている。自分と故郷渋民を結びつけるすべての絆は、ここについに切れてしまった。啄木は、やむなく、北海道に新天地を求めねばならなくなった。明治40年5月のことである。」

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