たんぽぽの心の旅のアルバム

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『文学探訪石川啄木記念館』より-啄木小伝-故郷渋民の視点から(2)

2021年07月06日 10時52分49秒 | 本あれこれ
『文学探訪石川啄木記念館』より-啄木小伝-故郷渋民の視点から(1)

https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/38d07c2e2818858b40bf7c4155dbea18


「啄木小伝-故郷渋民の視点から-遊座昭吾(啄木研究家)

-栄光と破局-

 盛岡中学を退学した石川一は、文学に新しい人生を賭けてすぐ上京、、与謝野鉄幹・晶子夫妻の厚い指導を受けた。だが、賭けを挑むにはあまりに若く、また力に乏しく、ついに東都で心身ともに疲れ果てて病の身となり、故郷に帰らねばならなかった。

 故郷に敗残の身をさらすことは苦痛であった。けれどもそのことが、かえって内なる自己を深めさせることになったのであろう。彼は終日試作に没頭し、稿をためていった。そして、楽劇者ワーグナーに心酔、その愛の思想を把握し、ますます鋭敏な神経を研ぎすませていくのである。

 ちょうどその頃、彼はあたかも神の啓示のごときある音を聞き、強い衝撃を受ける。「啄木鳥
きつつきどり」と題する詩は、その衝撃を14行ソネット形式に歌い上げたものであった。きつつき鳥のあのこだまを、愛によって作られた霊の住む緑美しき世界が、俗塵に侵されつつあることを人間に警告する音と直観し、きつつき鳥を霊を守る鳥としたのである。そして、その詩を明治36年12月の「明星」に発表する時、彼はペンネームを「啄木たくぼく」とした。人間世界に対する警告の詩人となろうとする願望を、このペンネームに託したのである。再度の上京によって、明治38年5月には、処女詩集「あこがれ」が出版された。啄木は、まさに年若き新進詩人としての栄光を一身に集め、詩壇に自分の名を登録したのであった。

 皮肉なことには、この栄光の裏に、石川一家が寺を出、渋民を去るという事件が用意されていた。父一禎が宗費滞納の理由で宝徳寺住職を罷免されたからである。この事件は詩人・啄木にとって、生命を支える故郷の喪失を意味した。

 盛岡に移り、堀合節子と結婚し、新居を構えた啄木を待っていたのは、新進詩人としての栄光ではなく、一家の経済を負担する生活者としての責任であった。しかし、盛岡での生活は日増しに窮乏していく。生計を支える生活者としての能力は、啄木には所詮なかったからである。」

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