たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

孤独の海をただよう

2015年12月13日 11時12分37秒 | 祈り
 今年もデパートやカフェに入れば、いやこんな店までもっというぐらいにあっちもこっちもクリスマスソング。これがまた25日の夜にはお正月にさっと模様替えされるんだから、どうなんでしょうっていう感じの12月の街です。雑誌には来年の運とか特集組まれていますね。手帳も平積みで本屋などに並んでいます。休日の駅前では年賀状の販売。来年の予定がなーんにもない私はその一切に目をそむけています。社会から力が必要だ、貸してくれないかと声がかかるわけでもなく、ようやくボランティアを始めた病院とコミュニティハウスがかろうじて居場所でしょうか。孤独の海をあてもなく漂うような日々は続いていきます。生活を背負っているのでどこかですごく気持ちが重いです、不安です。でも小さな葉っぱのような小舟にうかぶ花びらはどこに向かって、具体的になにをめざしていけばいいのかがわからずゆらゆらとただ揺れ動いています。
 
 学生が使う「社会人」という言葉をきくたびに、会社にいっていない私は「社会人」のカテゴリーには現在入らないのかなと考えます。今の私はまだ会社なんてクソ!です。会計法では会社の従業員とは株主のことだそうな。会社は株主のものであって、株主に利益を配当するために労働者は長時間労働を強いられるのです。長時間労働しないとまわらないようになっているんです。自分の好きなことをやるために会社に入るとか、会社のリソースを利用できそうだとか、そんな馬鹿な発想はやめた方がいいです。そこのあなた、あなたが自慢げに名前を出している大会社、過労死で亡くなられた方がいらしゃいますよって教えてあげたくなっちゃいます。自分の好きなこと発想で会社に入れば一年でさようならですよ、だってその組織の色に上手に染まらなければ組織に居続けることはできないんですから。一人一人の色よりも組織の色が大事で、色が薄くて使いやすく取り替え可能な方が組織には都合がいいんですから好きなこと発想で組織を考えることなんかやめた方が身のためです。マッチングミスで大会社に入ってきて、最速10カ月、長くて3-5年、さらにもう少し長くいても会社に幻滅して去っていく若者をたくさん見てきました。有名私立ブランド大学、あるいは国公立大学の、近年は修士を卒業した方々、あるいは博士課程を中途退学したような方々ばかりでした。優秀な人ほど会社をやめていくという通説がありますが、それもあたっているかもしれません。会社は彼ら、彼女らを大切に育てようなんてしていませんでした。2-3年ごとに人事異動があったので、上層部の者たちは自分が責任あるボジションにいる間数字をあげてなにかやったという実績を残せば、退いた後は役員報酬をもらえます。だから自分が坐ったいすにしがみついて守ることだけしか考えていませんでした。会社の先を考えていたら、こんなことはしないだろう、っていうことばかりでした。その犠牲になるのは、若年層の労働者、そして私のように一生懸命働いた派遣社員でした。大会社ってそんなふうに病気なんです。だから大会社ならなんでもいい、大会社に行って好きなことをしようなんて考えはあらためた方が身のためです。

 社会の中では自己責任。お金をいただくために無理して動くとおかしなところにしかあたらないので、悔しさから今だ抜け出すことができません。なんか本当に悔しいです、わたし。なにもできない、役に立たない、無力さを感じます。社会から必要とされない孤独と希望が見えない絶望感。人は私になんて声をかければいいのかわからなくて困っています。辛いっすね。なんか自分が悪いんでしょ、って言われてしまえばそれまでなので自分でも結局どうしたらいいかわかりません。

 前の部屋に引っ越したあと買ったすのこベッドとお別れしようと思います。10年余りお世話になってガタがきているし、引越しの時荷物になったし、今の部屋には場所を取りすぎます。一万円ほどで買ったと思います。お別れするのにいくらかかるんでしょう。物を買う時に捨てることをまだ考えていなかった時でした。

 通信教育で大学を卒業して、また新しく始めるぞ、っていう気分で引っ越しして、すごく日当たりのいい部屋でなんかいいことありそだな、っていう気分で買いました。本当にまた新しい自分を始めるような思いで買いました。振り返れば派遣元会社を移籍してばかな大会社で働き続ける道を選んでしまったばかりの頃でした。目の前のことに必死で先にどんなリスクが待っているのか考えませんでした。守られていると思ってしまいました。たしかにその時はそうでしたが、それから10年の歳月は長過ぎました。組織は動いているので人が変わっていきます。その変化に私は対応できていませんでした。そんな馬鹿な事をした終わりは残酷なもので、そのツケは全て私が背負うことになりました。社会は全て自己責任だと言っています。全て私が悪かったんです。がんばってきたのにお前が悪かったんだよ、努力が足りないんだよ、って言われます。

 そう言われてもこれ以上何を信じて、どう動けばいいのかわからないです。今までやってきたことはなんにも実績残らなくって、気がついたら年だけくって経験不足だって言われるばかりで、それほどまでに自分が今までしてきたことはなんにも意味がなかったのかと思うと悲しいです。社会の中で使いモノにならない人になっていました。もうお金をいただく自分に戻ることはできないのかもしれません。今はまだ自信がなくってどうしよもないです。またどっか面接とかっていけば胸くそ悪いばっかりなので忘れたい大会社でやっていたことを聞かれたりするだろうから、思い出して説明しなけばならないのでそれもいやです。

 私のようなすさまじい社会への怒りを抱くに至る経験をした人はどうやって社会に戻っているのか、生活のある人が普通に戻ることができているのか知りたいですが身近ではわからず残念です。またストレスでわけがわからなくなっていた自分を振り返ろうとしていましたが遅くなったので明日追記しようと思います。

追記します。3年前。母との突然のお別れが訪れた年でした。

「2012年12月17日(月)

 土曜日に、Y市福祉保健事務所まで出向いて、自死遺族の会にようやく行ってみた。意外と遠くてお昼も食べないまま集中して話を聴いたし、自分のことも話したので終わってみればすごく疲れていた。やはり人の話が深く入り込んでいてきついものがあったのだろう。夜は二度も目がさめてしまった。それでもほんのぽっちり、自分の体験が役に立つのではないか、そう思う私がいる。ほんのちょっとずつ発信していきたいと思う。社会の中へ。

 雨ですごく寒かった。横浜へ戻ってからデパートの中のアフタヌーンティーへ。眼科へ行く気力はなかった。

 色々想いはじめればきりがない。でも自分を責めたり、なんでなんだろうと考え始めたりするのはやめようと決めたのでもうしない。

 それにしても現実はドロドロとしたもので、色んな人がいて色んなことがあるんだな。お仲間がたくさんいることにあらためて驚いている。若い人は特にやりきれない。なんとも口惜しいものだと思う。

自民党圧勝。
大震災と原発事故のあとなのに何も変わらない。
希望がもてる社会になっていくのだろうか。

私も苦しかった。
その体験を発信できないだろうか。
あまりきつい話には耐えられないが、救急車のサイレンをきくたびに私にできることはないだろうかと思う私がいるのも事実だ。」

 この頃から考え始めていた自分の体験を発信できないだろうかという思いがこのブログのスタートへとつながりました。この時から3年。今の私は死別体験の話に限定さる分かち合いの会やグリーフケアの会に限界を感じるようになってしまいました。そこでは語ることのできない体験をすることになってしまいました。死別体験だけの話す場に行っても争いの体験とそこからみえてきたことをどうしても話そうとしてしまいます。私の中で両方は別々にあるのではなくつながっているのですが、それが理解されることはありません。でも、でもわかってほしいです。政治は身近なもの。わたしたちの日々の暮らしと命に関わることが利権絡みで決まっているという、とんでもないことが国政の場で起こっているのです。私は8月から9月にかけて、そんな国政の場を自分の目で見て、自分の耳で聴いたのです。そんなことをこちらのブログに書こうと思います。私も国政の場を生で見るまでは正直遠いことだと思っていました。でもそうじゃない、私たち一人一人の問題なんです。それを知ってほしいです。こんな話、必要でしたら声かけてください。資料まとめようとしています。こういうことを伝えていくのは自分の大切な役割なのかなと勝手に思っているこの頃です。