たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『モネ展』より_睡蓮

2015年12月01日 23時39分46秒 | 美術館めぐり
「睡蓮を描いたモネの作品は数多い。その一点一点の表情、光景、色彩、光と影、コンポジション、画面に漂う雰囲気はまことにさまざまだ。モネは常に一瞬と多様性に挑戦し、空間・時間の表情の表現に取り組んでいる。日本国内で私たちが体験できる「睡蓮」はかなりの数にのぼるが、そうした作品のなかから一点を紹介したいと思う。
(1918年/油絵・キャンパス/131×197センチ/MOA美術館所蔵)

 このモネの「睡蓮」は、朝の光を浴びた水の風景であり、手前とかなたに点々と白い睡蓮、赤い睡蓮が開花している。水面のいたることに睡蓮が姿を見せているといった風景ではない。水面の水平的な広がりがたっぷりと体験される。水面は手前からかなたへと延び広がっている。そうした広がりのなかに、ほとんど点景といった状態で睡蓮が描かれている。

 モネが描いた睡蓮の絵にしばしば見られることだが、この絵の場合も画面の全面が水面である。水面の先、水面が開けるところがまったく見えない。水面ははたしてどこまで続いているのだろうか。モネは明らかに広がりと平面性をもつ構図の展開に挑戦している。それだけではない。モネは見えるものと見えないものとの瀬戸際に鋭い<まなざし>を向けている。水面下や描かれていない水面の広がりがモネの画面に緊張感をもたらしている。彼は深さという見えない領域に挑んでいる。水面は表面として理解されるだけではなく、深さにおいても、理解されるのだ。

 水面から水底にいたる全体的空間が彼の視野に広がっている。この絵を広さの絵とよぶだけでは適当でない。この絵は深さの絵でもあるのだ。描かれた水面の全体は光と影、および、睡蓮の花によって意味づけられており、特に白と赤の睡蓮、点々と描かれた花によってアクセントがつけられている。

 モネの目に映ったのは水の風景だった。池は大地の一部であり、大地の表情である。その水とは反映そのものであり、池には移りゆく空模様が姿を見せる。睡蓮の花畑はモネの裾野に水の風景として浮かび上がってきたのである。風景としての水面は、光と色と形のドラマの舞台として劇的な光景を見せるのであり、しなやかな、表情豊かなイマージュそのものだ。鏡面となった水面は、微妙な変化をたえまなしに見せてくれる生きている絵そのものなのだ。水面は不動の仮面ではない。それはさまざまに表情が変わる生きている自然の顔なのである。

 水鏡はもっともナイーヴで初々しい鏡であり、原初の鏡である。見ること、見つめること、近づいて見ること、覗きこむこと、そうした<見ること>のドラマとスペクタクルは鏡にふさわしい。鏡は私たちに驚きを与える。そして絵画は私たちに驚きと発見をもたらしてくれる彩られた風景である。見つめれば見つめるほど、さまざまなものが見えてくる。浮かび上がってくるという点で、絵画と水面の反映とのあいだには密接なつながりが見られるのである。」

(山岸健『絵画を見るということ』NHKブックス、1997年発行、180-182頁より)


-睡蓮と花-ジヴェルニーの庭- 

 モネは43歳でジヴェルニーに移り住み睡蓮を描き始めました。
 
 《睡蓮》 1903年 油彩、カンヴァス

 水面に緑の葉が漂うように浮かび、その上に薄桃色の睡蓮の花がぽっぽっと浮かんでいました。

 《睡蓮》 1907年 油彩、カンヴァス

 夕暮れ時の水面は赤く染まっていました。

 《アイリス》 1924-25年 油彩、カンヴァス

 紫の花びらをつけたアイリスが淡い光の中でゆらゆらと揺れていました。

 《睡蓮》 1916-17年 油彩、カンヴァス

 紫がかった水面のゆらめきの上に緑の葉がゆらゆらと泳ぎ、その上にぽっぽっぽっと白色・黄色・桃色の睡蓮の花が浮かんでいました。大きなキャンパスに描かれた作品は油絵なのに水彩画のような美しさがありました。

 オランジェリー美術館の睡蓮の準備作品と言われている大きな作品もありました。2番目の妻と次男を亡くし2年間絵を描くことのできなかったモネが再び筆をとった時描いたのは睡蓮でした。オランジェリー美術館から持ち運ぶことのできない睡蓮の大作に挑んだのです。70代後半、睡蓮の花としだれ柳、花と木といった輪郭はなくなっており、水面の広がりと光のゆらめきを緑・紫・赤・黄の色で表現していました。

 展示室の中央に置かれた椅子に坐って作品を見渡していると、オランジェリー美術館の《睡蓮》に包まれていた時の幸せ感を思い出しました。遠くから見るほどに美しく、どの作品からもモネの生命力が伝わってきました。