たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

競争と定着のアンビバレンス_中沢孝夫(1)

2015年12月02日 20時46分42秒 | 本あれこれ

 就職は男女関係に似ている。その出会いと別れは、遠くからみているとありふれたエピソードの繰り返しなのだが、当事者にとっては特別仕立ての体験なのだ。
 
 求人側と求職側とがお互いに気に入れば申し分なにのだがなかなかそうはいかない。どちらも特定の相手に殺到しすぎ、幸運にはめぐまれないのである。
しかも見事あこがれの相手とゴールインしたと思っても、実像に触れると意外と興醒めであったり、ほどほどに妥協した相手とけっこううまくいったりする。また生涯の幸福と不幸が決まる一度きりのチャンスと思い込んだり、あるいは何度でも失敗したりと、毎年就職戦線のシーズンになると、きまりきった悲劇や喜劇、あるいはマレに感動のドラマが演じられている。

 毎年4月から10月にかけて闘われる就職戦線は、景気の変動によって求人側と求職側との力関係が変化しているように見えるのだが、巨視的にみていると圧倒的に求人側(企業)に主導権は傾いている。

 もちろん労働市場は新卒だけで動いているわけではない(略)が、男子大卒などに限ってみると、大筋において日本の労働市場は新卒中心であって、当事者にあっては人生にとって大きな賭けの一瞬である。

 例えば大企業の場合は正社員という名の基幹的従業員(とくにホワイトカラー)になるには、個人の側からみると基本的にはチャンスは一度きりしか与えられていない。しかも市場はけっして公平ではないのだ。一部の銘柄大学の卒業生を除いて求職側の立場が弱いのが現実である。

 もちろん企業の側にも言い分がある。いったん採用したら、生涯賃金は退職金から各種のフリンジ・ベネフィット(社宅その他の付加給付)まで含めれば一億五千万円から二億円にものぼるのであって、厳選するのは当然であり、少しでもリスクを避けるためには、すでに実績のある学校から選ばざるをえない、ということになってくるのである。

 学生の側にブランド(有名企業)志向があるように、企業の側にもブランド志向があるのは当然だとも言えるのだ。堂々と指定校制度を掲げている企業は少数だが、実際には指定校制度になっている企業はけっして少なくはない。損保や生保あるいは製造業も、有名ゼミの後輩に声をかけたり、文系であっても知り合いの教授に、”もしウチに入りたいという希望者がいたら紹介して下さい”と頼んだり、クチコミの伝統はけっこう衰えていない。たとえば冬休みの頃になると、有名大学の3年生の男子学生のいる家の郵便受けは、パンクしそうなほど企業の案内が送られてくる。大手から中小まで数千の企業から郵便が届けられるのだ。(略)

 しかし女子学生や新設大学あるいは実績のない大学の場合はこうはならない。60枚、70枚と必死に資料請求の手紙を書かねばならないのである。それも別々の会社だけではなく、”誠意を伝えるため”ということで、一社に三度も四度も手紙を出すモサもいる。(略)
 
 資料が送られてこない学生たちは、わかってはいたことなのだが、このときに改めて、受験戦争の日々に片時も忘れることのなかった”偏差値”のもつ残酷さを思い出すのだ。

 ブランド志向を捨て仕事の内容を選べ、などといわれても学生は困ってしまうのだ。職業人にしたってそうだろう。仕事の向き不向きや面白さがわかるのは、会社勤めをして何年か経ったあとのことである。自分の適性や方向がはっきりしている人間はごく少数であり圧倒的多数はこだわるような選考対象をもっていない。たとえば自動車メーカーと家電メーカーを前にして、どちらが自分に向いているか、などどわかる人間などいないといってもさしつかえないだろう。
 
 金融と製造業あるいは流通、といった区別はつくにしても、自分の適性を考慮することはまず不可能である。強いていうなら、人間はすべてに可能性を持っているというべきだ。じつは日本の大手企業を中心とする「就職のメカニズム」の背景にある採用の要諦と要員管理の基本はそこにある。
 
 大手企業は二、三年ごとに配置転換を繰り返し、さまざまな仕事に就けることによって能力開発、人材育成をはかるのだ。必要な技能をもつ人間を、必要なときに、労働市場からアドホックに調達する、という習慣は日本の大企業にはないのである。それをやるのは急成長の会社や業際を広げるときに限られる。
 
 あくまでも必要な技能をもった要員を内部で育てていくのが、内部労働市場中心の日本の大企業の基本である。だから新卒の市場が過熱し、銘柄大学が強いのだ。
(略)
 創造力のある人間になれとか、オリジナルな考え方をもつ人間に、と言われるが、基本は「言われたことができるかどうか」だ。受験勉強や学校での勉強は「言われたことができる」ことの証明なのだ。語学一つ例にあげても、「受験英語」という蔑(さげす)んだ言い方があるが「それすらできなくて何ができるのか」と企業の採用担当者は口をそろえる。

(『就職・就社の構造』岩波書店、1994年3月25日発行、45-49頁より引用)。

就職・就社の構造 (日本会社原論 4)
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