たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

アンデルセン『絵のない絵本』_第五夜

2015年12月03日 23時58分56秒 | いわさきちひろさん
 11月14日に訪れたちひろ美術館「まるごとちひろ美術館」では、『絵のない絵本』の中から原画四点が展示されていました。原画の前に佇んでいると、なんだかちひろさんと対話しているようで心がふるえるました。涙が流れていました。その中の一点「玉座の少年」、第五夜のお話です。

「きのう、わたしはざわめいているパリの町をみおろしていたんです。」こう、月が言いました。

「わたしの目はルウブル宮のへやの中までつきぬけていきました。みすぼらしい身なりをしたおばあさんが-おばあさんは貧民階級の人でした-身分の低いひとりの番人の後について、大きな、からんとした玉座の間へ、はいってきました。この玉座の間が、おばあさんは見たかったのです。見なくてはいられなかったのですよ。おばあさんがここまでくるには、いろいろと小さな贈り物をしたり、たいへんな弁舌を費やしたりしなくてはならなかったのです。彼女はやせた両手を合わせて、まるで教会の中に立ってでもいるように、うやうやしく周囲を見回しました。『ここだったんだ。』と彼女は言いました。そして豊かな金の笹縁のついたビロードの垂れている玉座に近寄ると、また『ここだ、ここだ。』と言って、膝をまげて緋色の絨毯に接吻するのです。彼女は泣いていたんじゃないかと思います。『いや、このビロードではなかった。』と番人は言いましたが、その口のまわりには微笑がただよっていました。『そんなこと言ったって、ここだったんです。たしかにこういうようすでしたよ。』と、彼女は言いました。

『それはそうなんだ。しかし、やはりちがうんだよ。窓はたたきこわされ、戸はひきちぎられて、床の上には血が流れていた。それでもあなたは言えますね-わたしの孫はフランスの玉座の上で死んだのだと。』こう、男は答えました。『死にましたさ!』とおばあさんは繰り返しました。それっきり、ふたりは一語もかわさなかったと思います。そうしてまもなくまた、広間をでていきました。夕闇がしのびよってきて、わたしの光は二倍も明るくフランス王の玉座の上のビロードを照らしました。きみはその年とった女が誰だったと思うかね?

 わたしはきみに一つの物語を話してあげよう。七月革命のときでしたよ。一軒一軒がみな城塞であり、一つ一つの窓が保塁だった、あの輝かしい勝利の日の夕暮でした。民衆はチウレリイ宮へ殺到しました。女や子どもたちまでが、戦士の中にまじっていました。みんな王宮のへやべやや、大広間にまで突入しました。中にひとりのぼろを着た、まだおとなになりきらない貧しい少年がいて、年上の戦士たちにまじって勇敢に戦っていましたが、銃剣で幾個所も突かれて、重傷を負って、そこに倒れたのです。それがこの玉座の広間で起こったことだったのです。人びとは、血を流している少年をフランス国王の玉座の上に横たえて、傷口に玉座のビロードを巻きつけました。そこで血が、王の緋の絨毯を染めました。まるで絵のようなながめでしたっけ!

 豪奢な大広間、戦っている幾組かの人たち!床の上には、引き裂かれた軍旗が横たわり、革命の三色旗が銃剣の上にひろがっていました。そうして玉座の上には、あの貧しい少年が、青ざめた浄化された顔をして、じっと目を天へ向けていたのです-四肢をもう死の苦しみでピクピクさせながら、彼のむきだされた胸、見すぼらしい着物、半分その胸をおおっている銀の百合の花のついた華奢なビロードの垂れ布!

 この少年が誕生したとき、揺籠のそばで、こんな予言がなされたのでした-「この子はフランス国王の玉座の上で死ぬだろう。』と。そこで母親は、ひとりの新しいナポレオンを夢みていたのでした。

 わたしの光は、この少年の墓の上の不死の花環に接吻しました。そしてまた昨夜は、あの年とったおばあさんの顔に接吻したのですよ。そのときおばあさんが夢に描いていた画面を、きみなら描けるはずだがねえー題は『フランス王の玉座の上の貧しい少年』と言うのさ!」

(『絵のない絵本』山室静訳、岩崎ちひろ画、昭和41年初版、昭和58年55刷、童心社)

 玉座に横たわりあごを天井にむけて瀕死の状態にある少年の姿は残酷なほどに美しかったです。生きることの切なさ、悲しさ、苦しさを知っていたちひろさんとアンデルセンが織りなす物語。この絵を見た日の夜パリのテロ事件のニュースを知りました。欧米の先進国で起きたテロ事件だから大きなニュースになりましたが、ニュースにならない国では今この瞬間も一日一日を生き延びることに命がけの暮らしをしている人びとがいることに想いを馳せたいです。

 第二次世界大戦を生き延びたちひろさんは、世界中の子どもたちが平和でありますようにと願い続けました。自分の生活を支えるために働くしかない私は何もできませんが、ちひろさんのメッセージをこうしてブログを通してささやかでも伝えていきたいです。


絵のない絵本 (若い人の絵本)
アンデルセン
童心社

冷え込んできました

2015年12月03日 00時01分37秒 | 日記
 このまま負けるわけにはいかない、なんとかしなければとネットで求人を見ていたら、だんだんと気持ちが追い詰められていきました。以前はアルバイト情報誌だったはずのものにさえ、やたらと知らない名前の派遣会社のツリネタらしき求人広告がたくさん出ています。なんだか安心して働ける場所に出会う入口に立つことさえ至難の技になってきているような感じがします。本当に日本は危ないことになっています。そういう労働法制ばっかり進んでいるのですから当然のことです。人が大切にされない社会へと流れは加速していくばかりだと感じます。この中をどうやって生き延びていけるのか。師走、忙しそうにしている人たちをみていると少し手伝ってあげたくなります。ちょっとアルバイト代出れば私やれると思うんですけど、マッチングはむずかしいです。

 一年前の今頃からボランティアで動き始めていればよかったなと思います。雇用保険を給付中でまだ追い詰められ感はなく闘いに気持ちを集中させていました。一定の結果が得られると信じて必死に踏ん張っていました。途中で投げ出していたら、言うべきことをちゃんと言わないで終わっていたら、それはそれですごく後悔が残って気持ちの整理がつけられなかったかもしれません。どうなったいたら絶対に正解だったというものはどこにもありません。自分がどう受けとめるかしかありません。簡単には引き下がれない自分の性分を考えたら、どっちみちこういう道を歩んでいたのかなという気もします。まだ自分に可能性があると信じたいです。手帳を読み返していると3年前の、職場の言葉にいいようのないストレスでどうにかなりそうな私がいました。大会社の組織替えに振り回された揚句のあんまりなやり方にすごい怒りをため込んでいました。だれにもいいようのなかった怒りと悔しさ。本当にヘンでした。よじれていました。よじれに耐えきれなくなっていたのに生活があるので必死に耐えていました。社会の仕組みのヘンに耐えていました。思い出すと辛くなります。誤解を承知でここにまたさらけ出したいと思います。

「2012年11月22日(木)

人の悪口は言いたくないし、ずいぶんこらえて我慢しているつもりだ。でもそれは必ずしも人に伝わらない。残念ながら・・・。
こんなややこしい難しい中を、私にはこれ以上無理だな。
よかれと思ってやっていることが全て裏目にでる。
私は目ざわりでジャマなんだ。
これ以上辛抱してがんばったところで何かご褒美があるわけではない。
もう終わりにしようと思う。
収入は途絶える。
家に帰ってゆっくり考えてもいいかな。
ただい、Y君がなんていうかだけど、これ以上がんばってもしょうがない。
コソコソ言っている人たちは、自分たちでできるっていうことなんだからやればいい。
やってみろ。私はもう知らない。

怒り・・・怒り・・・。

表現するのはむずかしい。」