まいにちはなたば

キレイな花、枯れた花、トゲだらけの花。
毎日いろんなことがあるけど、遠くから見れば、やっぱりきれいな花束だと思うよ?

雨ニモ負ケズ

2007-06-16 10:44:33 | その他
今日のは、長くなります

母が先日、
父方の私の祖母の納骨のため、
花巻~盛岡へ出かけてきました。
大好きな宮沢賢治の資料館などをまわり、
納骨の集まり以外の時間は、
楽しい一人旅をしてきた様子

で。
その旅行の話から、私の叔父が、
興味深い情報を教えてくれました

あの有名な「雨ニモ負ケズ」という詩の
モデルとなった人物についての話です
はっきりした話ではないようですが、斉藤宗次郎という人が
モデルになっている、というのが有力な説だそうです。

ちょっと調べてみました

 斉藤宗次郎は、1877年岩手県花巻の曹洞宗のお寺に生まれました。15歳で養子に出され、師範学校に入り小学校の教師になりました。その頃、内村鑑三の著書に深い感銘を受け、洗礼を受けクリスチャンとなりました。花巻市で第一号のキリスト信者です。洗礼式は、街の中を流れる川の川原で、雪の積もった寒い朝の6時に行われました。好奇心からたくさんの人がやってきて、橋の上は見物人でいっぱいになったそうです。
 時代は切支丹禁制が除かれてまだ20数年という明治のこと。彼は、激しい迫害を受けます。人々から「邪措」「国賊」と呼ばれ、教師をクビになり、石を投げられ、親から勘当され、さらに悪いことに、長女の愛子ちゃんはヤソの子どもと腹を蹴られ、それが元で腹膜炎を起こし9歳にして命を落としてしまったのでした。
 これだけ悪い事が続けば、「やっぱり神様なんかいない!」と、信仰を捨ててもおかしくない状況です。けれども、齋藤宗次郎は、こういった苦難の中にあって、見えない神を見ながら、その信仰に留まりました。生計を立てる為に、新聞配達と牛乳配達を始めます。朝の3時に起きて駅に新聞を取りに行き、1日40キロの道のりを、それこそ雨の日も、風の日も、雪の日も、毎日配達。配達の途中、雪が積もると小学校への通路を雪かきして道をつけ、ポケットには飴玉をたくさん入れていて子供に出会うとその飴玉を出してやる。そして、新聞を配り終えると、家に帰る前には亡くなった自分の子供の事を思い出し、病気の子供を見舞ってあげました。あるいは、年老いた婦人が寝込んでいれば、なくなった母親に親孝行するつもりでその家に行って、代わりに稲の束を背負ってあげました。彼こそ、東に病気の子供あれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲束を負いという宮沢賢治の詩にあるようなことを普通にやっていた人間だったのです。
 しかし、1926年(大正15年)、宗次郎は、内村鑑三のそばで仕えるために、東京に移転することを決意しました。朝一番の電車で故郷を離れる時、見送ってくれる人は誰もいないだろうと思いながら駅に行ってみると、そこには、かつては迫害をした人々、町長、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほどが詰め寄せ、尊敬と親愛の情をもって宗次郎を見送りました。
 たくさんの見送りの中に、若き日の宮沢賢治もいました。宮沢賢治は、この、斎藤宗次郎を自分の先生のように思い、また模範のように考えて、あの有名な「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」という詩を作りました。

‥という説です

 雨ニモ負ケズ
 風ニモ負ケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 欲ハナク
 決シテ瞋(いか)ラズ
 イツモシズカニワラッテヰル
 一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林ノ陰ノ
 小サナ萱ブキノコ小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニソウナ人アレバ
 行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
 北ニケンクヮヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒデリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 ソウイフモノニ
 ワタシハナリタイ
‥ワタシもです


長くなりついでに‥
どーでもいいことやけど、一応の言い訳
カワイイからカウンターつけてみたけど‥
gooのアクセス数に比べると、
カウントが明らかに少ないの~
もうちょっと、読んでもらってるみたい‥?
なんやけどね??


それと、ようやく<しまこ>も
ちゃんと投稿してくるように
内容は、訳わからんけど‥

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