Ⅵ章 教養とデカタンス
ジャポニズム、アール・ヌーボーで沸き立った西欧では、
1910年頃になると、その熱気も沈静化し、
新しい芸術の動き、モダニズムが現れてきた。
日本は明治になって、開国し、世界の仲間入りを果たす。
おかげで海外の情報をいつでも手に入れられるようになった。
フランスへ、イギリスへ留学するものも沢山増えた。
目覚しい西欧美術の輸入に憧れ、自らの手にしてきた。
白馬会が生まれ、「方寸」というきらめく雑誌が生まれ、
天心らは「國華」を誕生させる。
そんな中、学習院に通う若い知識人の同人誌
「白樺」が1910年に創刊された。
美術史、批評などを執筆していた児島喜久雄、
武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦らは、
これからの自分たちの道を探すべき、個性の解放を求めた。
この「白樺」は、美術情報の役割も持ち、
ベックリン、クリンガー、
やがて、セザンヌ、ロダン、マティス、ムンクらを
次々と紹介した。
芸術的教養の情報源として、
はかりしれない影響力はあったが、
雑誌の体裁として、魅力に欠けていたようだ。
「ヒユウザン」1912年に刊行。
洋画の改革を目指す、斉藤與里、高村光太郎、
岸田劉生、木村宗八、萬鉄太郎、小林徳三郎、川上涼花、
等が中心となり、展覧会情報や、感想など、
文芸誌としての役割もあった。
海外の美術情報を手にすることができる雑誌は、
若い画家たちを刺激した。
紹介された画家達の影響を受けながら、
美術工芸で発揮するのではなく、
自らの芸術を追及することを始める。
「明星」「方寸」を経験した画家たちは、
西洋化の荒波をかぶりながらも
新しいオリジナルな自らの手で、「現代の洋画」
「藝美」「卓上」などを刊行していく。
富本憲吉の「卓上」からは、民芸運動の香~
版画と文芸と結びついて、
「月映」が1914年に洛陽堂から発行される。
同人には、恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄。
以前から、この田中恭吉の版画に魅せられている。
何かがありそうな、怪しい雰囲気。
当時、すでにムンクの存在も知れているのだから、
彼のどうしようもない暗さとエネルギーは、
ムンクの満たされない暗闇に似ていると思った。
時代は過ぎ、不穏な空気が漂っているのが誌面からも
滲んでいる。
アナーキーな油臭さ、デカダンスへの逃避、
新たな自己開放への追求。
図録の最後を飾るのは、
恩地孝四郎の装丁、田中恭吉の版画による挿画
萩原朔太郎の「月に吠える」
あぁ、惜しい。23歳の夭折版画家、田中恭吉。
1889年から1915年の間、
日本における雑誌の刊行は、近代日本美術史の中で
燦然と輝く存在であったことを、まざまざと知らされた。
目くるめく芳醇な嵐のような一時代であった。
今、この記事を書き終えようとしている私は、
その一時代の陶酔の嵐が吹きすさび、
熱狂の時代に狂おしく巻き込まれ、
またその輝ける遺産に触れて、陶酔している。
「誌上のユートピア」を企画された神奈川県立美術館関係者に
深く敬意を表したい。
参考文献
誌上のユートピア(図録)
日本美術の歴史
芸術教育の歩み 岡倉天心(図録)
ようやく最終章までたどり着き、
記事を書き上げることができました。
ここまでの長丁場にお付き合い下さり、感謝申し上げます。
この調子で若い時に勉強をしていれば、
今頃・・・・
それはさておき、こうして、アール・ヌーボーの
潮流がどれだけ人々を魅了してきたかを改めて知らされました。
東京都庭園美術館や、近代美術館工芸館、
などなどアール・ヌーボー、デコに触れられるところが
近くにあって、本当にシアワセです。
世紀末の全世界に駆け巡った美術芸術の嵐、
西洋と東洋、日本の間に挟まった
実力パワーをもった画家達のその波乱万丈の様々な人生に
思いをはせた充実の1週間でした。
よくやった!自画自賛。笑!!
・・・FIN・・・
ジャポニズム、アール・ヌーボーで沸き立った西欧では、
1910年頃になると、その熱気も沈静化し、
新しい芸術の動き、モダニズムが現れてきた。
日本は明治になって、開国し、世界の仲間入りを果たす。
おかげで海外の情報をいつでも手に入れられるようになった。
フランスへ、イギリスへ留学するものも沢山増えた。
目覚しい西欧美術の輸入に憧れ、自らの手にしてきた。
白馬会が生まれ、「方寸」というきらめく雑誌が生まれ、
天心らは「國華」を誕生させる。
そんな中、学習院に通う若い知識人の同人誌
「白樺」が1910年に創刊された。
美術史、批評などを執筆していた児島喜久雄、
武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦らは、
これからの自分たちの道を探すべき、個性の解放を求めた。
この「白樺」は、美術情報の役割も持ち、
ベックリン、クリンガー、
やがて、セザンヌ、ロダン、マティス、ムンクらを
次々と紹介した。
芸術的教養の情報源として、
はかりしれない影響力はあったが、
雑誌の体裁として、魅力に欠けていたようだ。
「ヒユウザン」1912年に刊行。
洋画の改革を目指す、斉藤與里、高村光太郎、
岸田劉生、木村宗八、萬鉄太郎、小林徳三郎、川上涼花、
等が中心となり、展覧会情報や、感想など、
文芸誌としての役割もあった。
海外の美術情報を手にすることができる雑誌は、
若い画家たちを刺激した。
紹介された画家達の影響を受けながら、
美術工芸で発揮するのではなく、
自らの芸術を追及することを始める。
「明星」「方寸」を経験した画家たちは、
西洋化の荒波をかぶりながらも
新しいオリジナルな自らの手で、「現代の洋画」
「藝美」「卓上」などを刊行していく。
富本憲吉の「卓上」からは、民芸運動の香~
版画と文芸と結びついて、
「月映」が1914年に洛陽堂から発行される。
同人には、恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄。
以前から、この田中恭吉の版画に魅せられている。
何かがありそうな、怪しい雰囲気。
当時、すでにムンクの存在も知れているのだから、
彼のどうしようもない暗さとエネルギーは、
ムンクの満たされない暗闇に似ていると思った。
時代は過ぎ、不穏な空気が漂っているのが誌面からも
滲んでいる。
アナーキーな油臭さ、デカダンスへの逃避、
新たな自己開放への追求。
図録の最後を飾るのは、
恩地孝四郎の装丁、田中恭吉の版画による挿画
萩原朔太郎の「月に吠える」
あぁ、惜しい。23歳の夭折版画家、田中恭吉。
1889年から1915年の間、
日本における雑誌の刊行は、近代日本美術史の中で
燦然と輝く存在であったことを、まざまざと知らされた。
目くるめく芳醇な嵐のような一時代であった。
今、この記事を書き終えようとしている私は、
その一時代の陶酔の嵐が吹きすさび、
熱狂の時代に狂おしく巻き込まれ、
またその輝ける遺産に触れて、陶酔している。
「誌上のユートピア」を企画された神奈川県立美術館関係者に
深く敬意を表したい。
参考文献
誌上のユートピア(図録)
日本美術の歴史
芸術教育の歩み 岡倉天心(図録)
ようやく最終章までたどり着き、
記事を書き上げることができました。
ここまでの長丁場にお付き合い下さり、感謝申し上げます。
この調子で若い時に勉強をしていれば、
今頃・・・・
それはさておき、こうして、アール・ヌーボーの
潮流がどれだけ人々を魅了してきたかを改めて知らされました。
東京都庭園美術館や、近代美術館工芸館、
などなどアール・ヌーボー、デコに触れられるところが
近くにあって、本当にシアワセです。
世紀末の全世界に駆け巡った美術芸術の嵐、
西洋と東洋、日本の間に挟まった
実力パワーをもった画家達のその波乱万丈の様々な人生に
思いをはせた充実の1週間でした。
よくやった!自画自賛。笑!!
・・・FIN・・・
一つの歴史を教えてくれたこの展覧会に感謝したいのは私も同様です。
とらさんから応援頂き、ようやくFINにたどり着きました。少し明治の状況が理解できたように思います。
ほんとにいい展覧会で、絵と文学がこんなにも結びついて、幅広いものになって、そのどこへでも入り込める魅力、あちこち寄り道しながら今も愉しんでいます。まとめて下さってありがとうございました。
あべまつさんの記事を読んでいて、ずーっと以前に、東京都美術館で開催された「1920年代 日本」を思い出しました。いま、この二つの展覧会を合わせて思いを廻らすと、じーんと、じわじわっと、一つの時代を考えさせられました。
大逆事件以来の言論・労働運動・芸術活動への弾圧と、同時に左翼の政治運動の後退が人々のこころに何をもたらしたのか。
大正デモクラシーの中にユートピアを求めたか?はたまた、地下活動に突破口を求めたか?
それとも、デカダンスに向かって、エロ、グロ、ナンセンスへと内向したのか?
普通の人が人として生きていく上で、切実に芸術の必要性が求められた時代も、そう多くは無かったのではないでしょうか。
印刷・写真技術の発達に伴い、アートは一握りの人間の独占するものとはならなくなった。
大衆のエネルギーが、アートの世界に溢れ、爆発した。
惜しむらくは、彼らにもう少し、滑稽・諧謔・ユーモアに満ちた表現活動があれば、弾圧をかわせたかも知れない。もちろん宮武外骨なんて人もいましたが・・・。
彼らアーティスト・アルチザンに真面目な人が多すぎたか?
大杉が甘粕に虐殺され、ついに大正の夢は震災と共に消えたか。
昭和の震災復興とは裏腹に、アートの自由は押し潰された。そして、戦さの黒雲が立ち昇り、気がついたら、「廊下の奥に戦争が立っていた」のだった。
創作版画の斬新さ、手わざの暖か味が、現代のCGアートの薄さ、プラスチックかげんを撃ち抜く。あの時代の、全身全霊を込めた芸術運動が、今の私たちを射程に含めて問いかけているものは何か?
小生にとって、「誌上のユートピア」展は単に楽しいだけではなく、また彼らへのオマージュのみならず、レクイエムの響きもあったのでした。
そして、彼らの問いかけに答えるべく、アートと共に今の時代を生きて(旅して)行くのです。
あべまつさんの記事に、小生、随分と助けられました。(なにせ同命題を30秒と考え続けられないものですから―ボンクラ頭)
7章に亘る記事に感謝です。
駄文コメントで失礼しました。
最後までお付き合い頂き感謝いたします。
自身の勉強を兼ねた、図録からの解読で、
その時代と文学と芸術の深い関係が浮き彫りに見えてきました。
生活をわくわく暮らしていた人々に憧れてしまいます。
底無し沼のようで、そして深く、美しい展覧会でした。
記事完結を祝って頂き、とても嬉しいです。
拙き記事がお役に立つことがあるのかと
驚きですが、照れるやら、恥ずかしいやら。
世界的にも世紀末には、様々な思想が混在していたようで、戦争に明け暮れ、政治が人々が混乱し、技術改革に巨万のお金が動き、異常な熱気を帯びて見えます。
どのくらいの美術品が世界中を駆けめぐっていたのでしょう。
時代に希望を感じられない人達は、社会主義に夢を見るしかなかったのでしょうか。
あれから100年、あの時のユートピアが幻になり、命を失い、レクイエムの墓標となったとみて、企画されたのかもしれませんね。
悲歌・哀歌さまのコメントを拝読して、
色々散り散り思いが飛びました。
私が工芸好きなのは、作者の思い、てのぬくもりがあるからなのだと合点がいったのでした。
それにしても深い思いが残る展覧会でした。