あべまつ行脚

ひたすら美しいものに導かれ、心写りを仕舞う玉手箱

2019年10月31日9時22分 父逝く

2020-01-17 12:50:09 | つらつら思うこと
自分の年齢をついつい忘れて暮らしている日々。
両親は父のリタイア後伊豆高原に家を買って
長年住み慣れていたはずの市川からあっさりと生活圏も移動させてしまった。
なぜ伊豆高原なのか?リタイア近くに老後生活を夢見て別荘地で
悠々自適を手に入れたつもりだったのかもしれない。
市川が嫌だったのか?単に夢の生活に憧れていただけなのか?
今となっては聞く相手、父がいない。

数年前に父の身体にパーキンソン病が住み着いた。
以来、少しずつ、ちょっとずつ老化というのか、病も進行していった。
それでも薬効あって80を過ぎても車の運転はするし、
日常生活に支障が出るほどのことはなかった。
母と2人、老夫婦仲良くガタついた体のケアの為に病院通いをしながら、
周りの親切な方々に手を差し伸べてもらい、
なんとかやっててもらって都内住民の私はとても助かっていた。
そんな矢先のことだった。
突然、具合が悪くなり、救急車に乗って入院したと母から私の枕元の携帯に連絡が入る。
明け方の4時半ごろ。ただ事ではないと悟った。
柏の弟は車で、水戸に仕事入りしている息子も電車乗り継いで直接父の入院先に向かうという。

家族が集合して、意識はあるものの、呼吸器をつけてベッドに横たわる父の姿からは
もうまもなく命が途切れることが伝わってきた。
でも、それは仕方のないことで、語らずとも家族はそれを悟って意識して楽しい思い出話を続けた。
病床のもうすぐ息絶える父とかわりばんこに写メ。
こんな不謹慎な家族いないだろうな、と想いながらも、
父がさっぱり諦めてわずかな時間を心穏やかにしてくれていたら、それで良いと思った。
担当の救急医から、ご家族全員が延命を断るということはとても珍しい事です、と教わる。

翌日の朝、懸命の救急治療に助けられたものの、時がきた。
電子機器の画面が止まっている。

かねてより葬儀はここでと当たりをつけていたところに弟が話をつけてくれていたので、
とてもスムーズに病院を後にして父の遺体が運ばれていった。
担当医の先生がとても親切で、最後まで心を掛けてくれた、ありがたかった。
命がなくなると、そのひとの存在呼称が物的な三人称的に聞こえてくるのが不思議だ。

葬儀まで数日待つこととなった。

それぞれの自宅に戻り、様々準備をして当日を迎えた。
一番コンパクトに、家族葬とした。
禅宗のお坊さんと、尼さんが読経し無事に天界へ旅立ってくれた、そんな気がした。

母は最後に私もすぐ参りますからね。と父に語りかけた。
まわりで、とんでもない、母はまだまだこちらですることがるのだから、
まだまだ無理よ、だめだめ。
と追い打ちを掛けた。殆どは私の声。
あとから、母は父を実に大事に想っていた人なんだと、純粋に驚いた。
あんなに我が儘言い散らして、母を振り回して苦労を掛けてきたのに。

伊豆の両親宅、が母宅、になった。
がらんとしている。
父の遺影と祭壇がなぜか賑々しい。
線香の香りが時々リビングにたなびく。

こうして、あっとうまに骨に化した父はまだ伊豆の母と
同居している。
母は遺影祭壇に向かって日々のお勤めとして、花を飾り、お茶を入れ、
ご飯をよそい、線香を焚き、掃除もする。
なにか語りかけながら。

父、87歳。母86歳。

その二人の人生の大半を子供としていたことに気づかされる。
その後、母の妹が二人、続けて亡くなった。
年末年始、一週間を開けない間に。

親戚一同に激震。ざわつく、落ち着かない。母の落胆はきつい。
それでも、いたしかたがなかった、命を続けるのが大変だったのだから、
いつかその日が来ると思っていた、と。
そう思うことにすることしか、心を納得させる手立てがない。
おば、84歳、82歳の二歳違いの激しい戦後を生き抜いたタフなおばたち。
初孫だった私や弟をとてもかわいがってくれた。

そうか、もはや、私達が次の世代へとバトンを渡す準備をしていかなければならないのか。
息子たちの世代、しっかりと現実を見つめなければ。

伊豆の家は、息子の乳幼児の頃からことある毎に遊びに行って通った場所だ。
息子の成育と共にあったのかもしれない。

今年はその伊豆の家に通う回数が増えそうだ。
母の思うように、やりたいように、助力して上げることが父からの遺言だと信じて。
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