あべまつ行脚

ひたすら美しいものに導かれ、心写りを仕舞う玉手箱

奇才 ー江戸絵画の冒険者たちー 東京都江戸東京博物館

2020-07-15 13:46:47 | 日本美術
コロナ禍の新しい生活に慣れるまで
悶々としてきた日々をお送りの方々が大勢いらっしゃったかと思います。
ご苦労されている方々へ敬意を捧げます。
外に出ることで元気を得ていたような生活が
突如謹慎、蟄居命令です。
夫氏も在宅率高まりました。
愚息は水戸なので、まぁなんとかやってくれてました。
近所のスーパーが小さすぎるので、
買い出しさえ躊躇ちながら、思い切って
電車で駅二つ乗りに行きました。

なんとか、二月、三月が過ぎ、
ようやく、日本中の罹患者ダントツの東京都の緊急事態宣言解除の日がやってきました。
とはいえ、まだまだ感染者がいて、50人越えが続いているようです。
「マスク・3密・手洗い」厳守は継続です。

そんな不穏な環境ではありますが、
会期末6月21日と聞いて、たまらなくそわそわしたのが、
「奇才」展のこと、でした。
コロナ自粛期間中、都内の美術館は感染防止のため、ことごとく休館、
展覧会はうまくいけば延期、
残念ながら悲しいことに中止の決定を選ばざるを得ない企画展が続出しました。

前代未聞、のことです。

しかし、しかし、
じっとしていられない美術界の方々がネット配線を通して、
情報発信をし始めました。
ネットがあることを利用しない手はありません。
ニコニコ生動画では「ニコニコ美」として、様々な美術館に潜入して
永青文庫副館長の橋本麻里さんがナビゲートされる
濃密な解説を動画配信してくれました。
なんとありがたい!!!

もれなく、この「奇才」展の配信もしてくれました。
アプリさえ入れたら、タダ見、録画もされてるから、後からチェックもOKなんて、
素晴らしすぎます。
「奇才」展の監修はあの、安村敏信氏。
板橋区立美術館で様々な切り口でワクワクする企画をされ続けた方で、
現在は北斎館館長となって、江戸絵画の魅力発信に尽力されていらっしゃいます。

ニコ美配信では、その安村氏、橋本氏お二人がマスクをしながら会場をめぐり、
耳寄り情報をだだもれ状態で時間制限なしで発信してくれました。
TVでは考えられない作戦です。
ありがたや〜〜
その配信動画を見て驚きました。
エロぐろの極みみたいな、高知の絵師、絵金作品が4点、終盤にぞろっと並んでいるではありませんか。
これは実見せばならない、はやくいかねば、と決断したのでした。
こういうときの決断は早かったですね!

すでに夏になったかのような太陽ぎらぎらの日、6月12日金曜日。
チケットはネット予約の必要がなく、サクッと行けました。
両国駅、ここは、角界のメッカです。
残念ながらコロナ感染の力士関係者さんたちがいたようで、心配です。
直ぐ側の「NOREN」という相撲の土俵がある、和食店の集合スポットで
お蕎麦をちゃっちゃと頂いて、江戸博に潜入しました。

おお、お久しぶり。来場者はどんな感じでしょう?
と懸念しました。なにしろチケット売り場、私ひとりだけ、なのですから。
薄暗い感じが立ちこめています。大丈夫でしょうか?
あの、濃厚なニコ美展覧会潜入ガイドツアーを視聴した方々がいらっしゃっているのでは?
とはいえ、流れてしまいかけた貴重な展覧会、2週間でも開くことができたのは
安堵と感激が交錯します。

会場内に入ると、お、そこそこ人が入っているではありませんか。
静かに神妙にみなさんマスク姿で丁寧に鑑賞されているのでした。
良かった〜〜


会場は奇才と選ばれし絵師35人衆がひしめき合って作品から妙な熱量を放って
見る人を惹きつけています。
東京展では33人とのこと、全員集合ではないのがちょっと残念です。

総数、229点にもおよぶ出展数の中、展示替えや、山口、大坂あべのハルカスでの展示などがあって、
残念ながら81点の出品に限られましたが、
1点から発せられる熱量がはんぱないのでこれ以上出品されたら
見る側の消耗が激しくなるのではないかと思われました。

舞台は
京、大阪、江戸ばかりではなく、諸国にも隠れた奇才たちがいるということを
お披露目する章立てとなっています。


京都はさすがすぎまして、著名すぎる、
宗達、光琳、山雪、若冲、応挙、芦雪、蕭白、
大雅、蕪村、等が居並びます。

敬愛する山雪の怪しげな微笑みの「寒山拾得」と再会できてニタニタしました。
若冲の「鶏図押絵貼屏風」やはり、鶏なのですが、画中の植物がなかなか良かったのでした。
応挙先生、いつもの端正な作品ではなく、こんな謎な絵もお描きになっていたのかと、
そういう応挙先生も荒ぶれるのだ的な展示作品でした。
山雪の「寒山拾得」を見た後の芦雪の「寒山拾得」の脱力ぶりに癒やされます。
芦雪、良い力の抜け方があって愉快な気持ちとなります。
蕭白、彼の異次元な粘っこさは絵を描く事への粘着質な拘りがそのまま
絵に出てしまうところでしょうか。
「楼閣山水図屏風」の枯淡な雰囲気の中でも、その執着が溢れています。
残念なのは、「群童遊戯図屏風」を実見できなかったことです。
いつか、この目で確かめることができますように、と願います。
このように、著名作品のなかから、「変」要素のあるものが出展されています。
それは、監修の安村氏のお眼鏡にかなったものでなければ
ここに展示されないのだと理解できます。
宗達が印象の薄い、他の作品に飲み込まれている、マレな展示会でもありました。

祇園井特が8点の作品から3点。
虎御前と曾我十郎図屏風。
うわぁ、こてこてです!!
彼の作品には花魁の唇が妙に青黒く妖しい気配を放っていることで
強く印象に残りますが、この作品もかなりグロイです。
この二枚屏風、どこに飾っていたのでしょうか。
持ち主の趣味を伺いたいものです。
その隣に本居宣長の肖像2点、これが実にじみです。
同じ絵師とは思えませんが、普通に落ち着いて描けばこのようになるのだと
妙に感心してしまいました。

次に現れたのが狩野永岳。
京狩野家八代の養子となり、27歳の時に家督を継ぎ
57歳で禁裏絵師となって、京都のお公家さん寺院、三井家などの豪商とも関係を持ったそうです。
実力名声、遜色なしです。
その永岳の熊さんの屏風にあれ、この屏風、どこかで?東博で?見た気がしています。
熊さん、描く人珍しいです。
ちょっと虎テイストも混じっているようにも見えます。
金雲が屏風のヘリだけで覗き窓のように画面が窓絵的です。
扇面が出ていますが、ちょっと扇に施されているままなので
繊細なタッチが確認しづらいのですが、金蒔絵のような豪華重厚な雅がつまっていました。

大坂

大坂からは、中村芳中、耳鳥斎(にちょうさい)、林閬苑(はやしろうえん)
墨江武禅、という人選です。芳中は時々大坂の琳派というところで紹介されてますので
ゆるふわな琳派として親しみを持っています。
耳鳥斎、にちょうさい、このひと、変な絵、妖怪、素朴系の展覧会にも紹介されてました。
変な絵と、にちょうさい、読めない耳鳥斎、で覚えていました。
どっちかというと仙厓さんの禅絵的要素が近いのではないでしょうか?
ものすごく適当で観察写生の応挙さんとは真逆です。
でも飄々とさくっと対象を捉えてるあたり、憎めない素敵な絵師さんです。

林閬苑(はやしろうえん)初めての絵師です。
がっちり狩野派に学んだ要素もあるそうですが、出品された作品の中からの
1点だけの展示、残念です。振り幅のある作品を制作されていたようです。
「青緑山水図」丸より少し横長な点描で、のどかな雰囲気の山水図です。
他の会場に展示されるのか、「白孔雀図」は精緻な筆致で南蘋派的、
かとおもえば、「鹿図」「騎鹿人物図」などの水墨画はとてつもなく脱力して
ゆるゆるな作品で不思議な魅力があるのでした。
後に大雅のお弟子さんに学ぶも、39歳前後で亡くなったそうです。

墨江武禅(すみのえぶぜん)
この絵師も初めて知りました。
月岡雪鼎に学んだそうで、何とはなしにはんなり浮世絵を描きつつも
安村先生こんな絵描いた例がない、不思議と仰っていた
「月下山水図」
外隈、内隈を併用して西洋風の陰翳表現にチャレンジしたのか?
月明かりに照らされた幻想的な山水図でした。
「花鳥図」
これは構図は中国絵画的であっても、絵の表現は西洋画をとても意識していることがわかります。
ユニークな絵師が大坂にいたことを知らされました。

江戸

さ、江戸からは誰が?
北斎、国芳、其一、一信、谷文晁、なりほど。
その次、加藤信清、この人知りませんでした。

加藤信清、幕府の下級武士で剣術が巧みのうえ、画も好んで
狩野玉燕に学んだそうです。
この人の凄いところは、経文で仏画を描くことで写経の徳を兼ねると考え、
経文で仏画を描くと決意したところです。
若冲とご縁のある大典和尚が江戸に来たときに
彼の画を見て感動したことで後に京都相国寺や江戸のお寺に
文字絵仏画を寄進されたそうです。
展示された、「出山釈迦図」
経文で描く絵!!
ただの線がみな経文、文字、びっくりするしかありません。
細かな線がみんな文字!!

そこで、あやふやな記憶から、どこかで文字絵、みてます、と
ぼんやり思い出してきました。
芸大美あたりか、超絶技巧展、山下先生の監修か何かで?

狩野(逸見)一信
一信の五百羅漢、江戸博で先の山下裕二先生監修の「五百羅漢図」展が懐かしいです。
あの展覧会で一信の執念の塊で羅漢世界を描ききる情熱に圧倒されました。
展覧会事態も東北大震災3.11の直後、開催を危ぶまれたことも。
今は芝増上寺の宝物館で常設で展示替えしつつも鑑賞できるようになりました。
一信は今の墨田区にあたるところの骨董商に生まれ狩野素川に入門し、
逸見家の婿となり逸見姓をを名乗ったそうです。
35歳の時に増上寺に「五百羅漢図」を描いたことから
増上寺と縁が続いたようです。
とりつかれたように五百羅漢100幅の完成をめざすも、
病に倒れ、96幅以降は妻や弟子によって完成されたという悲劇も
切ないことです。

歌川国芳
彼の作品は上手いんだし、かっこいいんだし、文句ないのです。
そんななかから、
「水を飲む大蛇」
ぬぅっと岩陰から頭を出してじゅるじゅると池の水を飲む姿。
大蛇の真剣な眼差し、本気土が目力に満ちています。
こんな絵も描いたのですね、知りませんでした。

北斎
北斎爺さま、毎度最高です。
中でも長野に行かねば拝見叶わない、小布施の天井絵が
北斎館館長の安村先生のお声がけもあってか、
堂々と展示され、歓喜しました。
「上町祭屋台天井絵 女波」
浪を描く絵師、北斎、その波頭だけが絵となり、
男波とともに制作されました。
この図録で学んだのですが、
この絵の額絵の着色をしたのが、後に紹介される諸国からの奇才
高井鴻山だったそうで、びっくりでした。
額縁のなかにはエンジェルらしき絵もみられ、西洋の花鳥画のような
多彩な華やかなものでした。
男波は残念ながら見ることは叶いませんでしたが、
図録からもその額縁の絵の絢爛さが伝わります。
東町祭屋台天井絵 鳳凰図」
極彩色の鳳凰が天井から見守る、そんな構図だったのでしょうか。
四角い画面一杯に絢爛な鳳凰がじっと動かずに邪気など寄せ付ける間もなく
賑々しく見守ってくれるのです。

谷文晁さんと其一はそう、技量がはんぱないの、ということで、
何でも描く役人肌の文晁さん、抱一のお弟子さん、其一をスルーするかと。はい。

諸国

こちらが今回の大目玉。
岩佐又兵衛の影が薄く思えたのが凄くないですか?
河鍋暁斎、白隠、岩佐又兵衛、仙厓、この巨人たちはいつも光が当たっているので、
蠣崎波響、菅井梅関、林十江、佐竹蓬平、高井鴻山、
田中訥言、絵金、片山楊谷、神田等謙。
ご存じの絵師いますか?第一、名前読めますか?

諸国、北の北海道から日本列島を南下します。

蠣崎波響(かきざきはきょう)という絵師、珍しく、北海道の松前に生まれたそうで、
十代の頃、江戸屋敷で南蘋派の宋紫石に師事し、
北海道に戻ってアイヌの長老との関わりがあって
アイヌを帰順させた指導者12人を描いた「夷酋列像図」が生まれ
後にその絵が評判となって、光格天皇の叡覧がかない、
円山応挙に入門し、松前応挙の異名をとうるまでとなったそうです。
アイヌを描く絵師、それだけでも珍しいものです。
遠くの記憶に渋谷にまだたばこと塩の博物館で、特集があったときに
似たような作品を見たように思います。
実に細やかで微細な衣裳の柄が描き込まれていて感嘆します。

菅井梅閑(すがいばいかん)
次は、北海道より南下して宮城県の商家の長男坊の絵師。
十代から絵画に熱中し、南画の手ほどきを得、
一時、谷文晁に学び、その後上洛、長崎に向かってまた
京坂に戻ってきたが、弟の失明のため、仙台に戻ったとのこと。
転々としてきた人のようです。
50代の円熟期、60代には借金苦で井戸に身投げしてしまったそうで、
お金とお酒、溺れてはいけないものに手を出し、結局は自らも身を投じてしまったのか。
残念です。
作品は梅、が多く、図録掲載作品から大胆な筆致が得意のようです。
他、虎や、鵞鳥など、動物を描いた作品も見たかったです。

林十江(はやしじゅっこう)
この方、水戸の方だったのです。
酒造家に生まれ、醤油業の林家に養子となったとのこと。
変わったことをするのが好きなお人のようで、意表を突く絵を描いたが
江戸で理解者を得られず、傷心の内に帰郷し37歳で亡くなってしまっていたのでした。
東博でも時々陳列される「鰻図」「蝦蟇図」が思い起こされます。
ざっくりと本質を描くことが得意の人のようですが、認められず失意の内に
37歳で亡くなっているとは、ちょっと切ない人生です。
ここでは、「花魁・遣手婆図」が皮肉も込めて描かれていました。
画面一杯の大きなトンボも印象的な絵師です。

河鍋暁斎(かわなべきょうさい)*「ぎょうさい」ではなく、「きょうさい」と読みます。
暁斎、江戸のくくりではなかったのです。茨城の古河が出身だったのです。
生まれて一年後に江戸に一家で出、7歳で国芳に入門するという怪童ぶりです。
私のツボは後に鈴木其一の次女お清と結婚するのです。
其一と姻戚!!!
暁斎に関しては、すでに展覧会場で抜群の技量を遺憾なくお披露目されているのですが、
本当に何でも描いてしまいます。
9歳で死人のスケッチをして怒られるエピソードなんて凄すぎますし。
日本に来た建築家コンドルが彼の弟子となることも
暁斎の手腕が幅広かったことを思い知らされます。
数年前の三菱1号館美術館の暁斎展は大変充実していました。
「惺々狂斎画帳」のほか、「狂斎興画帳」の「とう」に関する画題を
延々と集めたユニークなものは支援者の要望に応えたものなのでしょう。
遊ぶことは正しい!と思える愉快な作品群です。

佐竹蓬平(さたけほうへい)
長野の飯田の近く、伊賀良(いがら)の出身、22歳の時に江戸にでて宋紫石に南蘋派を学び、
京都では大雅を慕ったのちにまた甲府に移動、その後も江戸、九州地方を廻り郷里に帰って
家庭を持つも、九州行きの途中で病を得て58歳で亡くなってしまった、とのこと。
何がしたかったのか、明かではないけれど、作画からは飄々とした雰囲気が出ています。

髙井鴻山(たかいこうざん)
この方、北斎とご縁の深い方のようです。
信州小布施の豪商の生まれで京都で儒教、書、絵の英才教育を受けたようです。
21歳で家庭を持ち後に江戸にも来たりしていたようです。
35歳の時に家督を受け継ぎ、40歳前後の時に北斎を小布施に招いて
祭屋台天井絵制作を依頼したのだそうです。
先にご紹介した北斎波天井絵の額縁彩色を担当したというほどの関係となっていたようです。
ご本人の絵は、妖怪絵の方から名前を知りました。
花鳥図などはとても細密でカラフルな洋画、南画の影響を見ることができます。

白隠
白隠さんは、静岡、沼津の方。
最近はめっぽう有名となられて、自画像の大きな目玉とか、
ユーモア溢れる禅画とか、柔らかな観音さまとか、
図太い線の書とか、多数の作品を展覧会で紹介されてきました。
最近は白隠の作品群が蕭白、大雅などにも影響があったとか、
若冲や、鈴木信春などの黒バック版画へ影響を考えられてきたそうです。
それは大変な影響力だと、思わずまた白隠さんを拝むこととなります。

田中訥言(たなかとつげん)
訥言、どんな方でしょう?
「日月図屏風」この屏風、
確か、どこかの展示会場で展示ありました。
琳派繫がりだったのか、どこか。
調べてみましたら、自分のブログに書いてありました。
2013年(え?そんな前???)のサントリー美術館での「もののあはれ展」に出展されていたのでした。
「日月図屏風」右隻に波頭に沈む太陽、左隻には清流に浮かぶ夜の下弦の月。
たったそれだけなのに、なんと深い詩情溢れる静寂と情感こもった金色の背景。
ひたすら、カッコイ〜〜〜
他の作品は見ることができませんでしたが、静謐、を画面に表すことが
得意だったのではないでしょうか。
尾張の人とされてるそうですが、定かではなく、
幼少時に日蓮宗に入門し比叡山で天台宗を学び、京都の石田幽汀に絵を学び、
後に還俗して土佐光貞門に入って、京都、近江、尾張を往来していたそうです。
技量は確かなもののようで、22歳にして法橋を得て
内裏障壁画制作にもさんかしたとのこと。
実力派だったことが知れます。
他に作品があるものなら、ぜひみたいと思いました。

岩佐又兵衛
又兵衛は戦乱の落とし子的な物語もついて回ります。
摂津伊丹城主荒木村重の子として生まれたのが悲劇の始まりだったのか、
時代の渦に巻き込まれます。
流浪の時を経て40歳の時に福井、越前の松平忠直に召され
「金谷屏風」などを制作し、60歳になって単身江戸で徳川家光の娘の婚礼調度制作などもして
重用されたようです。なにしろ、又兵衛といえば「豊頬長頥(ほうきょうちょうい)という
独特な顔の表現の持ち主です。
今回は、奇才のなかでは目立つ存在ではなかったのですが、
MOA美術館所蔵の絢爛たる「浄瑠璃物語絵巻」を一度見たら
忘れられません。

絵金
そして、ついに、ついに絵金の危険な屏風を初鑑賞するときがやってきたのです。
それも、このコロナの影響下に高知から4点も。
そもそも絵金を知ったのはいつのことだったか、
記憶がおぼろで困りますが、
NHKの日曜美術館だったのかも知れません。
ともかく、激しいえぐみ満載の極彩色に一目でガツンとやられたのでした。
高知のお祭りの時にしか目にする事ができそうになく、
この目で確かめるということは、まずもって無理だろうと半分諦めてもいました。
その絵金作品が4点も居並ぶということ自体にくらくらしました。
土佐の町人の子として生まれ、絵の才能を認められて江戸で修行し帰国するも
贋作事件に巻き込まれて、城下追放という不遇にあう、ということが
あのエキセントリックな画に現れているようにも見えます。
それでも、生涯絵を描き続けて町絵師として活躍できたのだったら、
晩年はしあわせだったのだろうと思います。明治9年まで生きていたのでした。
4作品の内の「伊達競阿国戯場 累」(だてくらべおくにかぶき かさね)
この画中の着物の赤がすさまじく、血糊で染めたかのようなおどろおどろしさ。
劇画元祖系的!


仙厓
仙厓さん、九州の人かと思ったら、実は岐阜県美濃の方でした。
11歳の時にすでに臨済宗で得度し、義梵という号を授かり
修行の道へ。諸国行脚の後博多に終生住み、62歳で病を得て亡くなるのでした。
(私の年齢より早くなくなっている!!もっと長寿かと思ってました)
仙厓さんの描く絵にどれだけ救われたか、笑いを取り戻したことでしょう。
真面目にさくっと愛すべきゆるかわキャラクターを生み出していたのでした。

片山楊谷(かたやまようこく)
ラストです。日本列島南下して、九州までやってきました。
この方、長崎の医師の息子で、父を失った13歳の頃から諸国を遊歴し、
鳥取の黄檗宗寺院興善寺に滞在したと、ひとり単身でいったのでしょうか?
楊谷という方、すごいのは、19歳の時にすでに5人の門人を抱えてたという
早熟っぷり。33歳で鳥取の池田家の茶道家、片山家の養子となったも
41歳で急死してしまった早熟夭折の人生だったそうで残念です。
「竹虎図屏風」
とげとげしい毛並みと一瞬の切り取りで画面に迫力が生まれています。
虎描きの名手といわれたのも、うなずけます。

本来の展覧会ラストには
神田等謙(かんだとうけん)なる謎だらけの絵師がピックアップされていたのですが、
諸事情で鑑賞が叶いませんでした。
雲谷派には奇才がいるだろうと探したところこの等謙を発見したそうです。
さすがの本展監修の安村先生です。

今回の展覧会図録は重量と内容ともにヘビー級です。
でも、この図録がなければ、簡単なメモ程度では
日本列島に散らばる奇才絵師達を追いかけることができなかったと思います。
コロナ禍で自粛生活が続く中、ようやく美術館の解禁があり、
嬉々として伺った、記念としても、
諸々関係者の方々の苦慮に多少なりとも、応援をさしのべたいと
図録を手に入れました。
展示替え、事情があり東京には運びきれなかった奇才の作品を
図録上で鑑賞することもできました。
安村先生の頭の中の奇才ストックがまだまだ増えて
次回の奇才展パート2があることも祈念したいと思います。

展覧会感想記事、久々に頑張りました。
なんて手が遅くなったことだろうと悲観しつつも
ちょっと自己満足的達成感も。
これから、美術館廻りはネットで日時指定予約チケットを手に入れる、ことが
常識になっていくのかも知れません。
ふらっと自由時間に立ち寄れる時がまた戻ってくるのか、
今後1〜2年は難しいでしょう。
それならば、こちらもその事態をうけいれて前に進むしかないのだと
過去の展覧会行脚を懐かしみつつ、iPhoneにネットアプリをいれたのでした。

さて、次は何処へ行きましょうか?

長丁場お付き合いに感謝です。


この展覧会は6/21に東京展を終了しています。
のち、山口県立美術館、あべのハルカス美術館へと巡回する予定ですが、
展覧会サイトで開催詳細をご確認下さい。
奇才展サイト
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