これからの美術館事典。
国立美術館コレクションによる展覧会という、サブタイトルは
つまり、この展覧会は国立美術館の所蔵品で構成される、
そういうことのようです。
英語で NO MUSEM, NO LIFE?
人生に美術館がなくて大丈夫かっていわれると
優先順位からしてどうなのかと
突っ込みを入れつつ、
豊かな時間を過ごすためには不可欠。
恵まれた環境下においては身近に。
厳しい時はどうなんだろう?
ひとそれぞれ違う立場で様々な関係性を作っていくのでしょう。
あちこちの美術館年パスを手に入れているような
私には美術館が脳みそのパラダイス・オアシスであることになんの疑いもないのです。
いつもと違う雰囲気のフライヤーを手にしてみると、
「なぜ、美術館のなかはやたらと寒いのか?」
と、また問いかけてきます。
今回の展覧会は、表舞台に出ることのない、
美術館と所蔵作品の関係性そのものに焦点を当てて、
作品の背後にある美術館の構造や機能に目を向けると
美術鑑賞の幅が広がり、楽しむ視点が増えること。
また、見慣れた作品に新しい側面がみつけられることが
仕掛けられているようです。
そして、2010年に国立新美術館で開催された「陰翳礼讃」
に続く、国立美術館5館のコレクションによる展覧会の第二弾、
という位置づけ。
そして、厳選された170点の作品で
A~Z、36にわたるキーワードで構成するということ。
美術館の有り様をこちらに投げかける、そんな仕組みのようです。
この企画展が近美のユニークな会場の形をどう料理するのか楽しみに入場しました。
すると、中では鑑賞者の人たちが展示品にカメラを向けて写メしています。
なるほど、とiPhoneを取り出して会場を回ることにしました。
この見取り図が今回の展示会場です。
手渡されたオレンジのペーパーにも見取り図が記されていました。
しかし、その通りに見るような誠実な鑑賞者ではないので、
ポケットにしまい込んで目に入るものを追いかける、
そんな見方をしてきました。
展示品は開館したばかりの美術館のポスターなどが並び、
日本の美術館はまだ1950年代のものなのかとちょっと驚きました。
そうか、まだそんなに時は経っていないのだと。
デュシャン ヴァリーズ(トランクの中の箱)複製写真、レプリカ、箱
壁に顔を付けているアラブ系の人体があって、
彼は一体何をのぞき込んでいるのやら。
反対側の壁に行くと彼の目と視線が合う仕掛けになっていました。
その視線を見つけるために踏み台に乗り、
破れた壁の穴を覗くという愉快な体験をしてきました。
私の目をちゃんと見てくれたのでしょうか。
スン・ユエン&ポン・ユー I am here 2007
会場には所々壁が額縁となる仕組みがあって、
トリックアートを見るような気持ちになりました。
そして、近美のお宝。フランシス・ベーコン
スフィンクスーミュリエル・ベルチャーの肖像 1979
企画が違えば、カメラOKができるわけもないんで、
いいんですか!と思ったのでした。
ベーコンは本当に色の使い方が鋭いです。
ミロスワフ・バウカ φ51×4,85×43×49 1998
謎なタイトルです。ポーランドの作家。国立国際美術館
そして、ヨーゼフ・ボイス カプリ・バッテリー 1985
国立国際美術館
丁度京都の丸善でレモンフェアのニュースを知ったところだったので、
タイムリーでした。あのレモンはレプリカ?ほんもの?牙彫?
妙に瑞々しかったのでした。
国立国際美術館からの作品が続きます。
ダン・フレイヴィン 無題(親愛なるマーゴ) 1986
次に壁面が女性たちの姿に埋め尽くされます。
夏の風物詩となったホテルオークラで開催された
「美の宴」はラストのオークラでしみじみ拝見しましたが、そこで気になった、岡本神草。その彼とともに評価されていた甲斐庄楠音の作品が現れました。
「毛抜」逆立つ奇病に毛抜きをしているところだろうか、
若い男の子のようにも見えて、中性のなまめかしさを感じたのでした。
彼の得意なデロリ臭は薄いのでした。
そして、ぐるりと回ると、
なんと、デュシャンシリーズです。
頭の固いおじおばさんたちは当初この作品にどんなことばを掛けたでしょう。
便器とか、グラス乾燥器とか、帽子掛けとか、
そんなものがアートになるなんて。
そこをよく利休の見立てにたとえられ、
現代アーティスト、杉本博司さんを思い出すのですが、
そこに隠れている何かを見つけたひとが一番なのです。
してやられた、そういうことです。
アメリカのポップアートはレディメイドを進化させていきました。
ウォーホルの花はいつもカッコイイと思います。
ルノワールの「横たわる浴女」の隣に
梅原龍三郎の「ナルシス」が並んで、良いコンビネーションでした。
個人的にはあのぼんやりしたルノワールのタッチが苦手で、
印象派展に気持ちが向かないのですが、モネは別格です。
そして、近美の長い廊下状の展示室には
収蔵庫という章立てで、まるで美術館の所蔵保管庫を覗くような
工夫がされていました。
藤田嗣治の作品が倉庫にある状態を再現していました。
収蔵庫に入るということは、なにか問題が発見されたならば、
きっと様々な補修がされるのだろうと、
ただ見ている側だけではしりえない物語が潜んでいるようです。
でも、その現場の方しか手が出せないという特権と
技術力にちょっと憧れます。
展示会場が段々終盤を迎えていることがわかります。
何か布で覆われています。
巨大なものを布で覆い被せてしまう、クリストの作品かと思ったら
マン・レイの作品というサプライズが待っていました。
マン・レイ イジドール・デュカスの謎 国立国際美術館
その向こうになんと小さなクリスト作品。
包まれた缶 1958
荒川修作 作品 1960
どんな思いを埋葬しているのか、棺の紫が痛々しいのでした。
そして、虚しい一陣の風が吹き、
祭りの後の悲しみが梱包されることで展示が終わりました。
ありとあらゆる方法の様々な芸術作品がおもちゃ箱を
ひっくり返したかのように
普段見ることができない様子を散りばめながら
博物館的に作品が資料として陳列された、ユニークな展覧会体験でした。
美術館が展示品となった、企画。面白かったです。
その後、常設に回り、そちらもまた面白く
いつかカメラ撮影しながらまわることやってみようと思ったのでした。
この展覧会は 9月13日、後もう少しです。
セレクト展示にピカソが現れてます。
また、舟越保武の作品、「原の城」が現れてドキドキしました。
背面には「さんたまりあ いえずす」の文字がみえて、
信仰の美しさに参りました。
次回は「藤田嗣治、全所蔵作品展示」という特集を組むそうです。
藤田嗣治が日本を後にした、その絶望を思うと、なんとも切なくなるのです。