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フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

逸脱からの出発

2006-05-22 00:20:10 | today's seminar
金曜日の学部のゼミでは2,3年生に接触場面、言語管理理論、研究方法について文献を読み発表してもらう作業を5月は行っています。今週は言語管理についての文献でしたが、学部の私費留学生二人とも静かだったのですが、聞いてみると、どうやら非母語話者の逸脱ばかり取り上げられるように感じて嫌な気がしていたようなのでした。その場ではうまく説明できなかったのですが、この問題を少し考えてみます。

言語管理とは、何らかの規範からの逸脱があり、それを参加者のどちらか、または両方が留意したところから、そうした逸脱に向かって何らかの処理を試みることを言います。ここでは3つのことをまず確認しておきたいと思います。
(1)ここでの規範は、当該の接触場面で参加者によって承認された基底規範を指している。母語話者が参加している場合は、母語話者の規範が基底規範として採用されることが多い。ただし、外来性が強い場合には、基底規範はもっとゆるんで接触規範と呼ぶべきものとなることが少なくない。
(2)逸脱を犯すのは非母語話者だけでなく、母語話者も犯す。しかも、逸脱とは参加者の持っている規範であって、母語場面でも相互行為であれば程度の差はあれ逸脱は生じる。
(3)逸脱を留意するのは参加者であって第3者である調査者や日本人ではない。つまり、非母語話者に逸脱が生じた場合でも、非母語話者自身が留意する場合、相手の母語話者が留意する場合の両方が考えられる。逆の場合も同様にありうる。
 つまり、一見、逸脱という色眼鏡で見られているようで嫌な気がするかもしれないけれど、冷静に実際の相互作用を内省してみると、自分自身が上の言語管理のプロセスを行っているとは考えられないでしょうか。言語管理理論とは何よりも自分自身の言語や相互作用に向かう行動behavior toward languageを説明するものなのだと思います。

付け加えると、私にとって言語管理が面白いのは、ある相互作用を見るときに、生成的側面と言語管理的側面が同時に存在しながら、構築されていくという点です。自動的な生成だけでもなく、言語管理だけでもなく、どちらも相互作用には必要なのだと思っています。
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なぜフランス人は新婚旅行で友達に車を借りるか?

2006-04-30 00:05:01 | today's seminar
金曜日の大学院講義は、故猪崎保子さんの依頼の日仏接触場面に関する論文(2000)を手がかりに話をしました。

猪崎さんの論文は、接触場面といいながら、フランス語の依頼メカニズム、日本語の依頼メカニズムをそこに読み取ろうとする試みであると言ってよいだろうと思います。接触場面を母語規範研究として利用する可能性を示しているのはこの論文では意図されてはいませんが、そうした可能性を考えてしまう好論文だと思います。

ただし、授業で盛り上がったていたのは、猪崎さんが行った依頼のロールプレイの内容で、フランス人はなぜ新婚旅行のために友人から車を借りようとするのか、という点でした。これは実は国立国語研究所の「伝え合うことば」という映像教材のシナリオの日本語母語場面のストーリーを選んでロールプレイに仕立てたものです。なぜこんな場面が日本場面として考えられることになったのかさっぱりわからないのですが(今の日本で友人に車を貸す人がいますか?)、しかし、フランスではこれは現在もあることのようなのです(もし違っているならご指摘下さい)。

学生達の話では、中国では車を貸すことはある、韓国ではありえない、日本でもありえない、ということで、この極東の3国で言えば、近代化の過程でそうした貸し借り関係は変わってきたとでも言えるかもしれなません。

しかし、フランスというポストモダンの社会でなぜそんなことが起こるのか?1つの可能性はポジティブ・ポライトネスによる、という説明でしょう。つまり、友達だからこそ迷惑をかけて互いの関係を確かめ合う、というわけです。

そう言えば、アメリカから経済圧力をかけられた中国の胡錦涛さんはアメリカ訪問で、アメリカ製のジェット機を100機以上も購入したり、アメリカの経済界とたくさんの契約を結んだりして、経済圧力(為替レートのこと)をかわそうとしていました。あれも中国人のポジティブ・ポライトネスではなかったでしょうか?
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水曜日の大学院演習

2006-04-28 00:18:42 | today's seminar
今年は前期に大学院の講義と演習を週1コマずつ行っています。これは初めての試みです。演習のほうはこれまで溜めてきたポーズ研究用の会話データと教室授業データをプロジェクターで見ながら分析していく作業をしていこうと思っています。

今週水曜日は会話データから、話題の転換、話順の重なり、そして極めて自然に感じる会話、と3つの例を見ながら、その印象を話し合いました。会話参加者は中国人日本語話者(中国語母語話者と朝鮮族中国人)と日本語母語話者です。面白いことに、授業に出席してくれている学生も、日本人2名、中国語母語話者3名、朝鮮族中国人1名、韓国人1名というように、会話データの参加者と重なっています。それぞれの立場から意見を言って欲しいということで聞いてみました。すると、日本人が唐突な話題転換と感じた点については中国語母語話者、朝鮮族中国人も日本語では確かにどんどん話題が変わっていくように感じるかもしれないけど、中国語ではふつうである、など感想に違いが出てきます。

最後の18歳から日本に来ている朝鮮族中国人の非常に自然な日本語会話について(それは相づちを打ったり、相手から相づちを呼び寄せたりといった共話的な会話ができるという意味で)、みな一同、驚いていました。私が話したのは、やはりこれだけ自然な日本語会話ができるのは若いときに日本に来たことが関連しているだろうということでした。それは外国語習得能力がまだまだ残っているから、というだけでなくて、まだアイデンティティの殻が柔らかいために、共話的な会話に対する抵抗がなく柔軟に吸収できたからではないかと話したのです。つまり、成人の場合は、共話的な会話を理解したとしても、それを取り入れるかどうか、つまりそうした話し方をしたいと思うかどうかはべつな話なのだということだと思うのです。
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博士課程全体研究大会

2006-03-11 14:18:56 | today's seminar
 博士課程では毎年2回、学生の研究発表会を行っていますが、今年度は9日、10日に実施されました。今回の発表は、順に菊地、大場、林の3名でした。
 菊地君は手話の話順交替の重なりとポーズはどこまでがunmarkedかという問いを出して、ポーズは1秒以内であれば逸脱ではないことを明らかにしています。ただし、重なりはまだ特化されていないので、さらに考察が必要なようです。
 大場さんは3者会話の母語場面と接触場面のバリエーションを示してきたこれまでの研究のまとめでした。3者会話の参加管理についてモデルが示せていないところが今後の課題でしょうか。
 林さんは「聞き返し」の生成モデルということで、関連性理論を取り込もうとしているところが新しいでしょうか。まだ細部は詰め切れていませんが、NS側からの推論による理解プロセスにNNSの表現形式がどのようにかかわるか、まずはここから解決する必要がありますね。
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授業終わる

2006-02-06 20:29:33 | today's seminar
先週3日の金曜日のゼミが今学期最終となりました。
学部のゼミでは、4年生に卒論を終えた感想を述べて貰いました。やはり時間が足りなくなったことが一番大変だったようですね。それでも、ネットワークに支えられて卒論ができあがったことがきっと3年生にもよくわかったでしょう。

(a)まず調査に協力してくれる人をうまく探せた人はよい調査をしたのですね。留学生の支援を続けて、留学生とのネットワークが出来ていると調査を助けてくれる人が見つかるのです。
(b)そして研究に悩んでいるときは悩みを聞いてくれる人の存在が大切になります。相談をすることで自分の考えもはっきりとするわけです。その中に教師も入っているのでしょう。

研究というのは一人でするものではないこと、卒論だけでなくあらゆるレベルで重要なことのように思います。
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名前という外来性の管理

2005-12-11 00:18:21 | today's seminar
9日はゼミの発表で、博士1年の林さんと菊地君の発表でした。

林さんのものは二人の初対面会話の冒頭で行われる名前の交換を対象に、そこで非母語話者が自己紹介したときに聞き返されることを予期した管理を行っていることを考察しています。

興味深いのは、聞き返されることを予期しながら、しかし自分の名前の発音を日本語化しないことですね。母語による発音に近い発音を保ちながら、聞き返された後に調整を行うことで、問題を解決しようとしているのです。しかも調整のストラテジーはすでに経験から蓄積があるわけです。

ここでは名前という本来、自分に最も近い固有名の規範を保ちながら、名前という最も顕著な外来性の1つを接触場面においてどのように管理しようとしているかが、かなりはっきりと見えるのではないでしょうか?
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native speakerは母語話者か?

2005-10-16 00:24:05 | today's seminar
今学期の大学院講義は昨年に引き続き、Neustupny先生の論文の翻訳と注釈を行っています。その中での議論はまたどこかで触れることがあると思いますが、今日はnative speakerの訳語について少しだけ書きます。

じつはこれは学部1年生の教養科目で言語政策について話している中での話題だったのですが、問題は次のようなところにあります。mother tongueはまさに母語であって、親や育ててくれた人から習得したものです。しかし、native languageと言うと、これは国語とも言えないもので、かなり使われている範囲に制限があるようです。つまり、育った地域で話されている言葉というニュアンスがありそうです。つまり、これは母語ではなく、地域共通語のようなものなんですね。

日本にいるとわからなくなるのですが、学生の中に朝鮮族の人がいて、彼女は家や近所で話していたのは朝鮮語だけれど、それから買い物などでは中国語を話さなくてはならないようになり、最初は下手だったけれど今では血となり肉となっていると言うわけです。この場合、母語は朝鮮語であり、native languageは中国語ということになるのでしょう。

オーストラリアの知り合いの娘さんは8歳で香港からオーストラリアに渡り、両親は中国文化と中国語(広東語)を教育したつもりだったのですが、20歳のあるとき、自分の机の中から何を書いているかわからないノートが出てきたそうです。両親に「これは何」と聞いたところ、今度は両親のほうが驚いてしまったのです。なぜならそれは8歳まで彼女が中国語で書いていた日記だったのです。つまり、自分で書いた日記が読めなくなっていたわけです。母語はこのように消滅することもあるのです。

native speakerについての疑問はかなり頻繁に社会言語学では指摘されているようで、そうした著作では、fluent speakerという言葉のほうが適切だろうと言われています。
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チェコからのアメリカ人研究者

2005-10-10 00:18:22 | today's seminar
10月6日(木)は,お昼にアメリカ人の研究者と落ち合ってお昼ご飯をいっしょに食べました。彼女はなんとチェコのカレル大学で言語管理で博士課程の論文を書いている人です。ネクバピル教授の学生さんですが,私や連れ合いが執筆に参加することになっている計画中の本の共同編集者でもあります。

メールで数回やりとりをしただけで,どんな人なんだろうと思っていたのですが,ごくふつうのアメリカ人女性でした。コネチカット州出身ということで,私にはとても聞きやすい英語でもありました。プラハを訪れてその美しさに憧れて,大学卒業後にカレル大学の大学院に入ったそうです。それから8年の滞在になるそうです。

しかし,どうでもよいことかもしれませんが,英語母語話者であるアメリカ人が言語管理の用語を使って,論文を書いているのを読むのは少し感動します。これも言語管理が,外国人として生きている人にとって,とても魅力のあるものだということのもう1つの証明なのでしょう。連れ合いにしても,リサさんにしても,高さんにしても,皆,外国人として接触場面を生き,さまざまな管理をせざるを得ない環境にいた優秀な人たちが言語管理理論の中心にいるということと,同じことなのだと思います。
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4年ぶりの合宿

2005-09-18 22:06:11 | today's seminar
1泊2日で磐梯高原で4年ぶりの合宿に行ってきました。ところが土曜日は娘の運動会が3時半まであったので、私たち家族だけ後で5時過ぎに千葉を出ました。途中、東京の中央環状線でものすごい渋滞に巻き込まれ(事故だったみたい)、なんと川口まで2時間以上かかってしまいました。結局、夜の東北道から磐梯の山道を走ってロッジに着いたのは夜の12時。皆さん、起きていてくれて、少し歓談後、さすがに疲れて寝てしまいました。

翌朝、午前中は言語管理の規範に関するNeustupny先生の論文の検討会をしました。昨年、翻訳の試案を作ったのですが、その続きです。規範とは言語の事実であるという主張の意味するところとか、baseを基盤と基底とに分ける必要性など、普段はゆっくり考えない内容を深く検討する機会が持てた気がします。詳しい内容はまた後日にして、とにかく2日で600キロ以上走り、もうしばらくドライブしなくてもいい気がしています。
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卒論中間発表終わる

2005-07-29 23:21:19 | today's seminar
昨日の高く澄んだ空から、今日は少し蒸し暑くよどんでいます。しかし、そのゆらゆらとまぶしい光の中を子どもや若いお母さんが赤や白の服をひるがえして視野を横切ると、やはり夏の盛りなのだと思います。

さて、午後から学部ゼミで卒論中間発表の3週目が無事終わりました。

一人は接触場面会話における待遇表現の意識について。意識というのはくせ者です。それは規範の言語表現の上層にいたったものを言うのか、それとも待遇表現の使用を管理したストラテジーの側面を言うのか?言語意識の文献を紹介する必要ありですね。それでも上級の非母語話者が年配の日本人を相手にしながら、ですます体という安全圏に止まろうとする管理の傾向はよく現れていました。

二人目は韓国人準日本語母語話者の言語使用について。上達するのが早く、しかしその高いレベルで止まってしまうことも多い韓国人日本語話者がそれでもやはりさまざまな管理をしている様子がわかります。他の母語話者と最も違う点は、言語間ストラテジーが頻発することです。たとえば韓国語にある外来語をさらに発音を日本語化して使うといったことが起こるわけです。さらにあまりに似ているために逸脱に気がつかないことも結構あるのですね。

4年生は5人いますが、3年の始めの頃は皆同じようなテーマを話していたのに、1年後はみな本当に違うテーマとアプローチを模索している姿がすばらしいと思います。成長したんだなあ。

では学生の皆さん、充実した夏休みを!
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