goo blog サービス終了のお知らせ 

フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

Interacting with the Japanese

2006-10-24 00:28:55 | today's seminar
月曜日に3人の先生でやっている日本語授業演習で、今日は私の番。

インターアクションのための日本語教育とシラバスデザインというお題をもらって、学生達に1992年に作成したモナシュ大学の教科書、Interacting with the Japaneseを分析させました。オーディオリンガルで作られているなんてとんちんかんな報告もあったけど、久しぶりに教科書を見て、感慨がありました。今もなおこれほど実験的な教科書は存在していないし、いつかもう一度、似たアイデアで作ってみたいものです。

授業で最後に強調したのは、普通の教科書が文法を並べてからそこに話題や場面を付け加えるので、文法は一貫してもその他はアドホックになってしまうということ。逆に、モナシュの教科書は場面とそこでのインターアクションからスタートするわけです。

話す時間がなくて言えなかったのは、モナシュ大学の教科書では逆に、文法がアドホックになる危険があるということ。しかし、それで良いというのがそのときの信念だったし、今でも基本的にそれでよいのではないかと思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ第三者言語接触場面と内的場面は類似した調整を行うのか?

2006-07-15 13:50:19 | today's seminar
昨日の大学院ゼミは、接触場面の規範についての考察第4回ということで、ファン,サウクエン(1999)「非母語語者同士の日本語会話における言語問題」『社会言語科学』2-1 pp.37-48を取り上げました。

非母語話者同士のインターアクションの場面は第三者言語接触場面と呼ばれていますが、使用している日本語の母語話者がいないために、基底規範が弱く、その他の言語バラエティの規範はもちろん、社会的規範もまた目立ってきます。参加者は日本語能力に差があったとしてもどちらも同じようなストラテジーを使って会話協力をしていきます。

論文では最後の問題提起として、なぜ第三者言語接触場面は内的場面と類似したストラテジーを使うのか?接触場面の代表とされる相手言語接触場面(母語話者と非母語話者によるインターアクション)とは、母語規範が強調される場面ではないか、といった興味深いポイントが提出されています。

よく接触場面では日本語の規範が緩和されるというのですが、しかし接触場面で自分の規範を強く意識することも同時に起こります。したがって、規範は強められると同時に緩和されるというへんなことが起きていることになります。私はこうした現象は2つの異なる規範のシステムが関連している可能性を追求したい気がしています。つまり、母語(基底)規範と普遍規範という2つのシステムを考えてみたいのです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発話生成の段階と断りの誤解は結びつけられるか

2006-07-08 00:03:10 | today's seminar
大学院授業ではここ数週間、規範のことを考えています。以下は他の人にはわかりにくいと思いますが、私自身の覚え書きです。

今日は同僚の高先生の論文から考えました。高さんの論文では受け身の生成モデルとして以下のような過程を提案しています。

(a)インプット→(b)機能→(c)表現→(d)表層化

この各段階に生成過程と管理過程が平行して働いていると言います。また、(a)から(b)、(b)から(c)、(c)から(d)の過程にそれぞれ規範が適用されることも指摘しています。

さて、非母語話者の発話は表層化されて、発話され、母語話者の理解過程に入っていきます。初対面などではまずはこの表層化の規範が強められ、非母語話者の言語表現に注意が向けられることになるでしょう。つまり、母語話者の発話との相違を留意する段階です。しかし、時間がしばらく経過すると、今度はその表層化の規範が緩和されます。つまり、表現上の逸脱は見逃され、意味に注意をするように管理が行われます。

このとき、注意しなければならないのは、表層化規範の緩和は何も接触場面の特有の現象というわけではなく、母語場面の常態だということです。母語話者同士で話をするとき、最初は相手の方言アクセントに気がついてもそのうち気にしなくなります。同じように、接触場面でも母語話者は、母語場面と同じように扱おうと心がけることになります。これが表層化規範の緩和という現象の意味ではないかと思います。

表層化規範の緩和をすると、どの規範で相手の発話を理解することになるかと言えば、それは一部は表現に、一部は機能の段階に相手の意味を求めることになるでしょう。つまり、表層化された発話という確固とした基盤を元に理解を組み立てるのではなく、その前の機能(意図)にまでさかのぼろうとするわけです。

もし母語話者が勧誘をして、非母語話者が沈黙で答えたとします。母語話者は相手の沈黙に対して、接触場面のために、表層化規範を緩和して、機能のところで理解を組み立てようとします。非母語話者は当然、自分が行ったインプット(勧誘)を受け取ったはずであるから、それに対する行動は勧誘に対する応答になるはずです。したがって、沈黙と言う行動は、勧誘に対する応答となれば、「断り」として解釈されることになるのだと思います。つまり、母語話者は相手の発話生成過程の段階を1つ飛び越して、機能を推測しようとすると考えられるわけです。

もう1つ付け加えれば、表層化規範が個別言語の規範であるのに対して、表現、機能と下がって行くにつれて、そこには普遍的な規範や生成過程の領域が次第に拡がっていきます。表層化規範ではなく、機能の規範で理解を試みようとすることは、接触場面における、よりベーシックな規範による管理が実施されることと、類似した過程ではないかと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続:接触場面のユニバーサルな原則について

2006-07-02 23:40:50 | today's seminar
博論を提出した武田さんの論文の中に初級後半の日本語非母語話者を相手にしても、日本語母語話者は勧誘・依頼などでは、相手の沈黙やあいづちの少なさを断りと取ってしまうということについての議論がありました。じつは武田さんは8年前の修論のときから同じような現象を議論していて、金曜日のゼミでは昔の修論から発表した論文を読んでいました。

従来は、Gumperzなどにもあるように、異文化コミュニケーションの誤解は上級になればなるほど問題化していくと言われてきたものです。そのレベルになると、言語の問題はないと思われるために、社会言語的な規範の違いが異文化による違いであるとは認識されなくなってしまうわけです。

しかし、依頼などの応答においては初級後半からでも同じような解釈を母語話者からされるとなると、そのメカニズムはべつな説明が必要になるように思います。武田さんが主張するようにそこでは依頼・勧誘などの目的に沿った管理と、インターアクション上の管理とがあり、多くの誤解は、インターアクション上の逸脱を目的に沿った管理規範によって解釈してしまうのかもしれません。しかし、なぜそのようなことが起こるのでしょう?

1つの可能性は、じつは接触場面性を意識した日本語母語話者が、沈黙やあいづちの少なさが断りとなる目的に沿った母語規範を採用していたわけではなく、よりベーシックな会話規範を適用したために起きたと考えることです。たとえば、グライスの会話協力の原則によって、関連性と質のマキシムを使い、日本語非母語話者の沈黙やあいづちを、文脈に位置づけようとしていたとは言えないでしょうか?つまり、接触場面だからこそ、日本語非母語話者は自分の真実だと思うことを話しているはずであり、関連性のないことを話しているはずがない、と評価していたのではないでしょうか?この逆接を接触場面性の逆接と呼んでおきたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フォリナートーク再考

2006-06-24 21:50:26 | today's seminar
Neustupny (1994)の指摘の中に、オーストラリアのパーティー場面を研究したAsaoka (1987)では、オーストラリア人が日本人に対してフォリナートークを回避していた形跡があるというのがあります。それについて、オーストラリア人が教育のある中流階層の人々であり、相手に対して対等な態度を保とうとしたことと関係しているかもしれないと推測しています。ここには言語的修正の段階的なストラテジーの使用というフォリナートークのもう1つの問題とともに、言語外の原則がフォリナートークの適用、非適用に影響を与えていた可能性が指摘されているわけです。

ひるがえって学生達と、われわれもフォリナートークを回避することがあるが、それは果たして対等な態度を保つためであるか否かについてディスカッションをしていました。日本人学生が一致したのは、対等な態度というわけではなく、相手の様子に合わせて回避したり適用したりするにすぎないという点でした。韓国人学生、中国人学生もこの日本人学生の意見に対して特に異論は挟みませんでした(意見を回避したかもしれませんけど)。

もしオーストラリア人たちが対等な態度という原則を使い、日本人達が相手に合わせるという原則を使うというのが正しいとすると、2つの原則は一義的にはその社会の文化規範が働いていたということになるでしょう。その社会固有の原則の間には何らかの普遍的な仕組みがあるとしても、です(たとえばポライトネスの原則は有力な候補かもしれません。ただし、どちらがポジティブでどちらがネガティブかは考える余地がありそうですが)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

接触場面のユニバーサルな原則について

2006-06-18 00:38:40 | today's seminar
金曜日の大学院授業では、Fairbrother (2000)のポイントの1つ、接触場面では母語話者は母語規範だけでなく接触規範もまた利用している、という点について学生たちと議論をしました。Fairbrotherの論文の例では、日本人の奥さんがパーティーに招待した外国人たちがみな寿司を食べたことについて、寿司が嫌いな人がいても仕方がないと期待していたのに、そうではなかったことを(逸脱の欠落)を肯定的に評価したというもので、日本人に対して同じような評価はしないことから、接触場面にだけ適用される規範があるというものです。

しかし、もし接触規範というものがあるとして、それは単に母語規範を緩めたバリエーションに過ぎないのか、それともより人間のインターアクションに普遍的で基本的な原則に基づいたバラエティなのか、それが問題です。

学生の一人は、それはユニバーサルな規範が働くのでは?と、私が言いたかったことを発言したのでした。個別言語に基づいたインターアクションの規範を適用することが適切ではないと思われるとき、よりbasicな規範や原則に戻ることは大いにありそうだと思います。ただ、議論はここでは終わらなかったので、さらに話を続けたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教室とはどのような場所か

2006-06-14 23:27:07 | today's seminar
今学期は週に2コマ、大学院の授業をしていますが、今日は演習のほう。これまでポーズ会話を学生さんたちと検討してきましたが、今日からは授業談話の検討に入りました。まずは文字化の問題で、CHILDESという文字化システムを使うとして、さらにどのような記述の工夫が必要かを考えようとしています。

学生さんたちに同じ授業のCD-Rを渡して検討してもらったのですが、やはり複数の人が同時に話したり、ちょっとずれたり、違う内容で話していたりといったあたりが文字化をする上で難しいし、そのほとんどは録音状態の問題で無理なのだと思います。

もう1つ大いに気になったのは、教師が使うイントネーションや声量などの周辺言語情報をいかに記述できるかという点でした。というのも、考えてみると、教師は周辺言語的に言葉の調子を作り上げながら、学習者たちに、動機を高めさせたり、関心をもたせたり、良い悪いの評価をさりげなく伝えたり、といった共同構築のための重要な合図を出していると思われるからです。つまり、同じ「だいじょうぶです」でもさまざまな感情や意図を伝えることが出来るのです。だから、文字化資料に同じように「だいじょうぶです」と書くだけでは大切な情報が記述されていないことになるわけです。

そしてこんなことを話し合いながら、卒然として思ったのは、教室がいかに感情の豊かな場所であることかということでした。ぼくらは感情の揺れを互いに交換しながら語学学習をしていくのだと思うのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外での日本語学習者のことを感じるために

2006-06-07 23:54:55 | today's seminar
今日の学部の授業では、たびたび宣伝していた『日本語教育の新たな文脈』の白眉と言える佐久間先生の海外の日本語教育の多様性に関する論文を紹介しました。

論文では自ら長らくJICAや交流基金の仕事としてさまざまな国、地域の日本語教育の現場を見てこられた事例が紹介されています。平均80歳のポーランドの市民日本語講座の話や、自国の先生のようにムチで叩くことができなかった日本人の青年教師が小・中・高の先生の中で一番影響を与える先生となったモンゴルの子供たちの話、毎年初級のクラスに出席して楽しそうに学習を繰り返している、進歩を価値としない知的な楽しみとしての日本語学習の例など、日本で考えている日本語教育とは対極にあるような事例が語られていて、そのような日本語教育があることを想像し、認めることの必要性を説いているのです。

ほかにも日本語学習が、ほとんどの国においては第2外国語や第3外国語である現実の意味から、日本語教育の意義を理解しない限り、日本語教育はできないだろうという指摘もその通りだと思いました。小学校での英語教育が、結果において第2外国語、第3外国語の意義を否定するものだとすれば、そうした風潮は日本語教育を否定することになるわけです。ま、そのくらいはじつはたいしたことではなく、小学校のクラスにいる英語母語話者以外の外国人の子供たちの言語を否定することにもつながるのだという指摘も恐ろしいほど正確なのだと思います。

なぜこのような外の視点を佐久間先生が獲得されたのか、私には謎ですが、外からの視点という一点で、私は佐久間先生に共感します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

博士論文審査

2006-06-02 00:00:54 | today's seminar
今日は武田加奈子さんの博論公開審査でした。
勧誘談話管理についての論文で何と本文300頁を越える大作です。
桜美林大学の佐々木先生にも審査に加わって頂き、ぶじ終えることができました。長い長い博士課程で、その間にロシアに行ったり、結婚をしたりといろんなことがあったわけで、私も感慨ひとしおです。まずはおめでとう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インタビューで遠慮しすぎた

2006-05-27 10:48:25 | today's seminar
昨日は学部のゼミで方法論の文献の発表がありました。
その後、昨年、フォローアップ・インタビューを経験した学生達にその反省を話してもらったのですが、知っている友人にはいろいろ聞けたけど知らない人には遠慮しすぎて聞けなかったと言っていました。じつは昨年インタビューを受けた学生も今年のゼミにいて、その学生によると「何でこんな質問ばかりするんだろう時間の無駄かも」と思っていたとのこと。

こういった知らない人に対して当たっていけないのは昨今の若者たちの傾向だろうと思います。ぼくが強調したのは、知らない人に遠慮する必要などないということです。遠慮するのはむしろ知っている人ではないでしょうか。せっかくインタビューに協力してくれたのですから、知らない人にはしっかりと踏み込んでいろいろなことを聞くべきなのです。それがインタビューする側の最低限の義務ではないのかな。ただ当たり障りのないことを聞くのでなく、インタビューされる側と人間として渡り合って勝負するだけの覚悟がいるのですね。もちろん相手を傷つけたりするのは論外ですけど。

ま、そんな話をいたしました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする