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フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

グローバル時代の社会言語学を講読中

2010-11-12 22:39:07 | today's seminar
まあ、いろいろあるが、だんだん学部のゼミも大学院ゼミも面白くなりつつあるところ。久しぶりにカメラを持ち出して、キャンパスの秋を撮ってみた。




大学院博士課程の授業で読んでいるのは、Jan Blommaert (2010) The Sociolinguistics of Globalization. CUPという今年出たばかりの本。最初はグローバリゼーションなどとあって流行物かと思ったけれど、なかなかだ。

One can follow norms or violate them at any step of the process, and sometimes this is willfully done while on the other occasions it comes about by accident or because of the impossibility of behaving in a particular way. (p.40)

people do not just move across space; we also realize that they move across different orders of indexicality.
Consequently, what happens to them in communication become less predictable than what would happen in ‘their own’ environment. (p.41)

こちらの考えていることとこれほど近い問題意識とアプローチを持っているものをあまり読んだことがない。Blommeartはさらに記号論的な視点ももっているので、この時代の社会言語学を考えるうえで多くの示唆をあたえてくれそうだ。今年後半の収穫。(たぶん)
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合同合宿 in 山中湖

2010-10-03 22:42:01 | today's seminar
土日をつかって千葉大学と神田外語大学の合同合宿。
合同合宿は総勢30人弱で、毎年よく福島のBritish Hillsで行ってたが、今回は後期授業もすでに始まったため、近場の山中湖となった。

ここでの合宿は2001年にネウストプニー先生などと一緒にやって以来。山登りの思い出が強いが、今回も少しだけ土曜日の午後、着いてすぐ、石割神社に続く急な石段を登った。しかしあまりに急で長々と続くので、学生はいざ知らず、こちらは途中で諦めてしまった。

土曜日の夜は4年生の卒論ポスター発表と、異文化経験のディスカッション。

天気が続くか心配していたが、日曜日、翌朝はよく晴れて、合宿のホテルの目の前に富士が見えた。

午前は、いっしょに来てくれたインドネシアとアメリカの留学生との会話の分析(院生たち)、そして「多文化社会がすすんだ10年後の私たち」というタイトルで、どんな異文化状況が生来しそうかをグループディスカッションしてもらった。

十分に議論をする時間がもてなかったのは残念だったが、現在の韓国のように日本より少し進んだ状況になった場合と、オーストラリアのようにものすごくすすんでしまった場合の2つの可能性を国際結婚家族がすごす1日ということで考えてもらったわけだ。このテーマは前日の夜、先生たちでひねりだしものだったのですが、意外に面白いかもしれない。

良い空気を吸って心機一転、後期授業に向かうことになる。さて、今学期はどんなことが待っているか、また始めることにしよう。
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教えたいことと伝えられることのあいだ

2010-07-28 22:00:54 | today's seminar
今日は授業実習、最後の反省会。18本、エスキモーのアイスを持っていく。

全員集まって、一人ずつ出来たこと、出来なかったことについて話してもらう。

結局、今回の実習では、とくに後半はニーズ分析から学習者の実践領域を割り出して、授業活動を考え、さらに教材作りをするという作業をやってもらったために、その準備がたいへんで、ゼミでもそこからさらに授業活動案がうまく計画されているかどうか、教室で教師としてのどのように行動すべきか、などほとんど検討出来ないまま、授業に向かうしかなかった。だからそれは十分な練習もないまま戦場に兵士を送る訓練官のように、やや忸怩たる思いがある。

それでも学生達は失敗しながらもいろいろなことに気がつくようになっていて、「学習者と一緒に授業を動かしていく感覚」を少しは感じてくれたようだし、「教えたいことと伝えられることのあいだをどのように埋めて解決していくか」(いずれも学生の言葉)に苦しみながらも醍醐味を見つけてくれていたようだった。最後の授業評価アンケートでは「達成感いっぱい」ということばが何よりも救いである。

僕自身、「真面目な日本語教師養成者」ではないので、細かいことよりは授業を準備するときのポイントや、学生と対するときに忘れてはいけない基本的な姿勢とか、要するに役割を担いながら相互に投射し解釈していくコミュニケーションのリアルさを感じ取ってもらいたいというだけだったのだが、そのへん感じてくれた人がたぶん何人かいたかなと思っている。

そうそう、リアルと言えば。学習者に学生達が作った実習授業評価をしてもらったが、ビジターセッションについて「とてもリアル」と感想を言っていた学習者がいて、やはりこれも苦労した甲斐のある試みだったのかなと思う。

とりあえず(こればかりな気がするけど)、2年ぶりの授業実習、これで終了である。
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日本語授業実習終わる

2010-07-22 23:09:28 | today's seminar
7月下旬に向けて猛暑が数日続いている。

6月中旬から始まった日本語授業実習が今日で終了。あとは来週の反省会が残るだけ。
今週は火曜日にビジターセッションの準備、そして今日はその本番で、学生達に手配させて4人の日本人学生が来てくれたので、学習者5名と1対1で話をしてもらった。

5月から日本語を週2回勉強してきた人たちで、実際のところ、どの程度話せるかドキドキものだったけど、日本人学生との協同作業で会話は意外なほど進んだし、学習者の日本語能力も思ったよりずっと習得されたものが多いことがわかったと思う。その後のフィードバックの活動も含めてじつに興味深く、とくに1対1の会話はぜひ録音したかったけど、残念ながら出来なかった。

実習と言っても、ほかの大学で実際にどのように行われているかあまり知らないのだけど、少なくとも千葉大ではあまり力を入れていないわけで、その分、学生に負担が行くことになったかも知れない。ぼくにしても実習を見てから気がつくことが多くて、多いに反省である。それでも、週に実習2時間、授業1時間、学生との相談2時間ほどというかなり密な時間だった。久しぶりに日本語教育に浸っていた感じで、少し懐かしくもある。

日本語を教えるということは、結局のところ、学習者から教室のコミュニケーションを考え、提示する活動にどのような意味を読み取ってもらえるかを考えることからすべては始まるのだが、さて、実習をした学生達には何が残ったろうか?
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日本語授業実習進行中

2010-07-08 22:37:10 | today's seminar
日本も梅雨が続いて消耗しがちだが、今年度前期は、学部生と大学院生合わせて14人ほどで授業実習をしている。

今、まさに進行中。

留学生の配偶者たちのクラスをお借りして、前半は「みんなの日本語」を使った直説法の練習。
後半は既習項目を使った応用実践の練習ということで、私は後半を担当。前半は教科書をいかに忠実に教えるかということだが、後半は教科書を離れて、学習者のニーズから学習項目と教室活動をデザインして、教材を自分たちで作成するという方法をとったり、ビジターセッションの準備をしたりと、例年になく学生達は大忙しである。

どうやって本当らしいコミュニケーションの活動ができて、学習者に活動が今の自分に大切だと思わせられるか、どうやって自分の知っている日本語や生活の知識を使うように仕向けられるか、あるいは逆にベタな本当のコミュニケーションからどうやって遊び心をもった活動へと変貌させられるか、といったことを学生達には考えてもらいたいと思っている。

学生達は先生として立つことがまだ恥ずかしくて、目でものを言ったり、対面する姿勢をとれなかったりと、それどころではないのだけど、いつか役に立つ経験を積んでくれればと思う。今日は後半最初の授業で「バスに乗る」「病院に行く」場面をやったけど、終わってから学習者がちょっと難しいけど面白いですと答えてくれたのでまずは大成功である。

だんだん学生達が学習者に向かって話しかけられるようになってきたのが頼もしい。
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大学院授業ーコードスイッチングの論文を読む

2010-06-02 21:43:19 | today's seminar
梅雨前のすがすがしい天気。

今週の大学院はコードスイッチングについての日本語の論文を読む。最後のものは来週に回したので実際は2本のみだったが、少しだけ覚え書き。

朴良順(2006)「日本語・韓国語間のバイリンガルとコードスイッチング」(真田信二監修任栄哲編『韓国人による日本社会言語学研究』おうふう)
服部圭子(2001)「接触場面における日本語非母語話者のコードスイッチングー機能を中心にー」(大阪大学留学生センター研究論集第5号)
高民定・村岡英裕 (2009) 「日本に住む中国朝鮮族の多言語使用の管理―コードスイッチングにおける留意された逸脱の分析―」(『言語政策』5号 日本言語政策学会)

日本社会を舞台にしたコードスイッチングの研究となるとやはり在日韓国・朝鮮人の研究が中心になる。朴(2006)は先行研究をさぐりながら、植民地時代、在日1世以降の在日コリアン、韓国人留学生、そしてニューカマーの韓国人の子供たちという時代背景も言語環境も異なる4つのグループに分けてそれぞれのバイリンガルの状況を跡付け、さらに研究の中から言語データをとり出してコードスイッチングの特徴を概観している。在日コリアンに見られる同胞コミュニティと日本社会からの分離傾向とが、かれらのバイリンガルの特徴を作り出しているところなどわかりやすい。前回のハワイ・クリオールにおける移民の言語環境とも通底している。バイリンガルの記述はおそらく言語バイオグラフィーでも可能だろう。

服部(2001)は、ニューカマーあるいは留学生を対象にして、従来から日本語学習者のコミュニケーション・ストラテジーの一部として扱われてきたコードスイッチングをもっと広いコミュニケーションの枠組みで眺め、そこにどのような機能が見られるかをさぐったもの。その手法自体は10年前によく行われた機能分類という方法だけれども、その分類自体は参考になる。いわく補償的機能(いわゆるコミュニケーション・ストラテジー)、伝達機能(自己伝達と相互作用)、談話調整機能(談話構成上の文脈化の合図)というもの。これを見ると、現在、ほそぼそとやっている教室のfootingの分類とも共通する部分があることがわかる。たしかにfootingは機能的にはコードスイッチングと重なってくる。ただ、リソースが言語コードだけではないということなのだ。


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大学院授業が続く

2010-05-25 23:44:45 | today's seminar
今日の大学院の授業は一昨年と同じWardhaughの『社会言語学入門』から第4章コード。今回は今年出たばかりの英語版の新版もいっしょに読みながら話をしている。大学院だけどほとんどの受講生が社会言語学をやってきていないので、まあ学部と大差ない。そして大学院はいずこも同じだけれど中国からの留学生が8割を占めている。

というわけで、第4章では2言語併用のdiglossiaとbilingual、multilingualの話なので、中国はdiglossiaであるという話で少し議論をした。中国の人々は広東語ではなく広東方言であるといったことでかなり固い思いがあるけれど、diglossiaのようなテーマでもやはり自分の社会はそのような上位と下位に分かれるようなことはないという気持ちが強い。しかし南に行けば行くほど普通語と「方言」の差は大きくなるし、書き言葉との違いも顕著になる。書き言葉は普通語だが、南ではそれは一種の「国語」という外国語になる場合も少なくない。テレビの放送でも記者は「方言」で話すかもしれないが、その背景に出るテロップは普通語だろう。

そんなところから少しずつ中国の多言語性が納得されていったようだ。

もっとも中国がdiglossiaか否かといった議論はあまり意味がない。どの程度、そこにdiglossia的な要素がみられるか、そして何よりも多言語性はどのように人々に意識され、管理されているか?どのようにして不可視化が起きているかといった課題なのだと思う。
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複言語主義の不安

2010-01-11 23:29:17 | today's seminar
久しぶりに寒く暗い日。来週行くことになっている中国の延吉の気温を調べると、どうもモスクワよりも寒いみたいだ。メルボルンからは40度を越えたとメールあり。

何年ぶりかで譜面台を購入。ついでに楽譜も買ってきてへたくそなヴァイオリンと娘のピアノとでデュオをやってみる。

今日は授業準備に欧州評議会のヨーロッパ言語共通参照枠Common European Framework of Reference of languagesのお勉強。

慶応の外国語教育研究センターのホームページにはCEFRを土台にした行動中心複言語学習(AOP)プロジェクトの説明があってわかりやすい。平高先生などいらっしゃるところ。この説明を読んでいると、多言語使用という点を除けば、「(人間は)生活の中で主体的に何らかの「課題」を解決することを求められる社会の成員なのです。そしてそのような社会の成員としての個人は、具体的な行動を通して種々の課題と取り組みながら、言語能力を獲得していく」とか、「それは学習者自身にとって意味のあるコミュニケーション活動によってこそ言語知が獲得されるということ」とか、「人生の限られた時間を過ごす学舎で学ぶべきことは、客体化された知識(のみ)ではなく、むしろ学習の技術やストラテジーである」とか、ほとんど1990年代に実践されたネウストプニー先生のインターアクションのための日本語教育と変わりがないことに驚いてしまった。もっとも、上の言葉それぞれは、ネウストプニーも含めて、さまざまな人々がさまざまな言い方で70年代から繰り返し言い続けてきたことの要約なのだから、驚くには当たらない、とは言えるけれども。

複言語主義の最も貢献していると思われる点は、母語話者をモデルにした外国語教育を放棄した点にある。ただ、複言語主義による外国語教育で不安なのは、これが拡大EUの現実に合わせた域内の「ヨーロッパ市民」のための言語政策という面が強調されすぎているように思われるところだろう。

van EkのThreshold Level(1975)の時は、外国人労働者に対する言語教育という面があったけれど、CEFRでは域外からの人々に対する政策はどのように考えられているのだろうか?

母語プラス2外国語を習得すべきというのは、もちろん英語の圧力に対して域内の言語の使用を守ろうとするものだけれども、英語以外の外国語は当然ながら域内の強い言語あるいは域内の当該国で話される主流言語になるだろう。少数言語や方言はこの枠組には入りきらないように思うが、間違いだろうか?(すみません、浅学でこんな基本的な疑問を提出してしまいます)

移民の青少年たちが母語と在住社会の言語を交ぜながら使用している現実をCEFRが見ているかどうかも気になる。

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開始の達人と評価の達人

2009-12-23 15:50:28 | today's seminar
昨日で今月の授業は終了。今学期の大学院では授業コーパスをつかって教室談話の分析を試みている。まずは基本ということで、Sinclair and CoulthardとMehanの授業モデルをつかってビデオと文字化資料を見ていた。

アプローチは違うが、どちらのモデルもInitiation-Response-Feedback, Initiation-Response-Evaluationと3部発話連鎖があり、2人の教師の授業ビデオを観察していくと、それぞれ、initiationとevaluationとが特徴的なことに気がついた。一方の先生は授業計画がきちんとできあがっている教師でテンポよくinitiationを使ってコミュニケーションを進めていく。ただし、次の次を考えながら発問をしていくので、1つの発問をしている間に次の活動をしている(縄文時代っていつですかと聞きながら、手と目は黒板に貼るためのカードをそろえている、みたいな)。学習者にはわかりやすい授業ということで評判が良いらしい。

もう1人の教師は、initiationのときはむしろ小さな声で目立たないように言うのだが、evaluationのところでは、フィラーなどを使いながらたっぷり時間をとって、学習者が発言できるスペースをつくり出していく。期待していない応答や、学習者の自発的な発話に対しても対応しながら自分の計画にのせていく。この教師の授業では学習者の活発な発話が目立つことになる。あるときには、学習者同士が英語で単語の意味を検討しはじめて、教師が置いてけぼりをくってしまうのだが、しばらくしたところで「わかりませ~ん!」と言ってそのグループのコミュニケーションに入っていき、同時に授業のコントロールを取り戻す、といったストラテジーもごく自然に援用するわけだ。

最初の教師が「開始の達人」と言えるなら、あとの教師は「評価の達人」と言えるのかもしれない。
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菊地君の博論文審査会

2009-12-17 23:03:38 | today's seminar
今日は手話研究をしている菊地君の博論審査会だった。

ぼくは手話を学んだことはないけれども、日本手話と日本語対応手話の違い、聾者と聴者の手話には聾者の側からのフォリナートークが現れることなど、彼のおかげで学んだことが多い。学部のときからのつきあいなので、じつは最初からぼくのところで育った初めての博士ということになる。しかし残念ながら手話言語については教えていないわけだから、「育った」というだけなのが残念なところだ。まあ、会話分析のイロハとか、複合移行適格場の話などに食いついてきてくれたのだから、きっかけぐらいにはなったのかもしれない。

手話の研究が次第に会話に向かって言っている中で、彼の研究はまさにその先端のグループの一員の資格があるのだろうと思う。相互行為的な手話研究の展開は、音声言語の研究の発展をみれば、将来は明るいわけだが、そのさらに先を見据える必要はあるのかもしれない。

とにかく、ご苦労様でした。
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